第42話 奇跡の先にある忠誠
その日の夕刻。予定していた訓練と領主学をすべて終えた俺は、ニーナと共に古い石切り場を訪れた。本当は、俺一人で来るつもりだった。だが、ニーナは、自分の意思であいつらが償うところを見届けると決めている。途中で苦しくなったらすぐに帰ることを条件に、同行を認めた。
作業小屋の前には、石標を見張っているノルを除く九人がそろっていた。ニーナの姿を見た途端、何人かが気まずそうに視線を逸らす。ラグは火傷をした右肩を布でつり、ドランは折れた腕へ添え木を当てていた。ベッツも、俺に砕かれた右肩を動かせずにいる。ニーナの足が、一瞬だけ止まった。
「戻るか?」
小声で尋ねる。
「いいえ。大丈夫です」
声には、まだわずかな震えがあった。それでもニーナは、自分の意思で一歩を踏み出した。俺の背後ではなく、すぐ隣まで進む。俺は九人へ向き直った。
「報告しろ」
最初に前へ出たのは、セルジュだった。
「過去の被害者と、奪った物の一覧をまとめました。残っている物と、すでに売り払った物も分けてございます」
差し出された帳面へ目を通す。ベッツたちが使った金額まで、分かる範囲で記されていた。
「残っている物は持ち主を確かめて返せ。ただし、貴様らが直接押しかけるな。被害者をおびえさせるだけだ。ロイドかゲオルグを通し、説明の仕方も先に俺へ確認しろ」
「かしこまりました」
「売った物の分は、これから働いて返してもらう。自分たちが使ったから返せない、などという言い訳は認めない」
ベッツたちの表情が沈む。だが、反論する者はいなかった。
「石標は?」
「赤い布は、まだ結んでおりません。昼まではハイムが見張り、今はノルと交代しております。仲介人らしき者は、まだ現れていないとのことです」
「今後は、ハイム、ノル、ラグの三人で交代しろ。誰かが石標へ触れても、命令するまで捕らえるな。気づかれないよう後を追い、顔と立ち寄った場所を覚えろ」
三人がうなずく。次に、ゲオルグが小屋と横穴の修理に必要な資材を報告した。まずは雨風を防げる寝床と倉を造り、その後、横穴を補強するらしい。
「ドランとマークは資材運び。ベッツとミラは、使える木材と道具を集めろ。見張りの三人も、交代している間はゲオルグの指示へ従え」
「アレス様。失礼ですが、ドランたちはこのけがです」
ロイドが、添え木を当てた腕へ目を向けた。俺へ反抗しているのではない。働かせるにしても、今の状態では無理だと、真面目に指摘しているだけだ。
「分かっている。そのために、先に治す」
「治す、とおっしゃいますと……?」
「見ていれば分かる。ドラン、腕を出せ」
名を呼ばれたドランが、疑うような顔で前へ出た。
「医者には、ひと月は斧を持てねえと言われました。いくらアレス様でも、折れた骨を今すぐってのは……」
「余計な心配をする前に、添え木を外せ」
「……へい」
布と添え木を外させる。前腕の骨は二か所で折れ、紫色に腫れていた。昨日、斧を振り下ろそうとしたところへ、俺が拳を打ち込んだ結果だ。折れた骨の位置を確かめ、手のひらを重ねる。
「《再生》」
淡い光が、ドランの腕を包んだ。皮膚の下で、ずれていた骨が動く。ごり、と鈍い音がした。ドランの顔が引きつったが、悲鳴を上げるより早く、二つに折れていた骨がつながっていく。腫れが引き、紫色だった肌が元の色を取り戻す。傷ついた筋肉をつなぎ、以前よりわずかに強く作り直す。数呼吸後、俺は手を離した。石切り場が、異様なほど静まり返っていた。
「動かしてみろ」
ドランは返事もせず、恐る恐る肘を曲げた。腕を伸ばす。拳を握る。もう一度曲げ、今度は大きく肩から回した。
「……痛くねえ」
地面へ置いていた斧を拾い、両手で構える。壊れていない左腕と同じように、右腕も動いていた。
「うそだろ……折れてたんだぞ。骨が二つに折れて、ひと月は使えねえって……」
誰も答えない。答えられる者など、いるはずがなかった。ロイドは両目を見開き、ゲオルグは口を半ば開いたまま動かない。ミラは、祈るように胸元で両手を組んでいた。
「セルジュ」
俺が名を呼ぶと、奴隷商の男は身体を跳ねさせた。
「はい」
「今のような治り方に、見覚えはあるか?」
「……いいえ。少なくとも、私の知る治癒魔法ではございません」
セルジュは契約のために、負傷者や病人を扱う者とも多く接してきたのだろう。ドランの腕を凝視したまま、震える声で続ける。
「治癒魔法は、傷の治りを早める力です。高位の神官でも、砕けた骨を数呼吸で元へ戻すことなどできません。これほどの奇跡は、聖女様でも……」
「腕くらいなら、切り落とされていても治せる」
今度こそ、全員の息が止まった。ニーナから話を聞いていたわけではない。目の前で折れた骨がつながるところを見た直後に、さらに常識の外を突きつけられたのだ。
「切り落とされた腕まで……?」
ミラが、あき然とつぶやいた。
「歴代の聖女様にさえ、そのようなことができたという記録は……」
俺を見る目が、明らかに変わる。昨日、こいつらは俺の力と《威圧》に屈し、死にたくない一心で主従契約を結んだ。今、向けられているのは、ただの恐怖ではない。自分たちの常識を超えた存在へ向ける、恐れと敬意だった。
「アレス様」
ミラが、その場へ膝をついた。
「あなた様は……いったい、何者なのですか……?」
「私も、今朝、同じことをお尋ねしました」
隣でニーナが静かに言った。なぜか、その声にはわずかな誇らしさが混じっている。
「俺は神でも、聖女でもない。治せる力を持っているだけだ。勝手に祈るな」
「ですが、私たちは昨日、あなた様へ刃を向けました。それなのに、その力を私たちへ……」
「けがをしたままでは、十分に働けないから治した。それだけだ」
俺はベッツを呼び、砕いた右肩へ手を当てた。折れた骨と裂けた筋肉をつなぎ、損なわれた関節を元へ戻す。
次はラグだ。ニーナの《火球》で焼けた右肩へ《再生》を使うと、赤黒くただれていた皮膚が、光の下から元の色を取り戻した。
そのほかの者も、一人ずつ治していく。治療を重ねるたび、驚きの声は少なくなった。慣れたわけではない。皆、声を出すことさえ忘れ、俺の手元を見つめていた。最後にロイドとゲオルグの顔へ残っていたあざを消す。手を離した時、九人の身体には、昨日までの傷が一つも残っていなかった。
「……昨日は」
ベッツが、治った右肩を確かめながら口を開いた。
「昨日は、あんたが怖くて膝をついた。逆らえば殺されると思ったから、主と認めた」
ベッツの目が俺へ向く。
「だが、今は違う」
巨体が、ミラの隣へ膝をついた。
「敵だった俺たちの傷まで、一つ残らず治した。悪事をさせず、働いて償う道まで残した。俺には、あんたが何者なのか分からねえ」
深く頭を下げる。
「それでも、この力に従うんじゃない。あんたの下で、今度こそ人の役に立つ働きをしたい」
ドランが続き、ラグとマークも膝をつく。ロイドとゲオルグ、セルジュまで、最後には全員が頭を下げていた。主従契約が命じた動きではない。こいつらは、自分の意思で膝をついている。
「立て」
俺は小さく息を吐いた。
「俺が欲しいのは、祈るだけの者ではない。自分で考え、働き、結果を出す者だ。忠誠を示したいなら、命令された仕事で示せ」
「はい!」
九人の声が、初めて一つにそろった。横を見ると、ニーナまで同じように頭を下げかけている。
「お前は何をしている」
「私も、改めてお仕えする決意を――」
「今朝聞いた。二度も要らない」
「ですが、このような奇跡を目の当たりにして、祈らずにはいられません」
「……そ、そうか」
俺はニーナから九人へ視線を戻した。
「今見た力は、契約で定めた秘密に含める。俺の許可なく、誰かへ話すことはできない」
「承知いたしました」
セルジュの《契約術》が反応し、九人とのつながりがわずかに震えた。
「それから、今後の戦闘訓練では、貴様らにも《再生》を使う」
「俺たちにも、ですか?」
ベッツが顔を上げる。
「傷をすぐに治せるなら、普通よりはるかに多く鍛えられる。安心しろ。今の数倍は動ける身体に鍛え上げてやる」
先ほどまで恐れと敬意に満ちていた顔が、一斉にこわばった。
「アレス様なら、必ず皆さんを強くしてくださいます」
隣から、ニーナの静かな声が飛んできた。《超再生》の秘密を打ち明けた途端、信頼が信仰にまで育ってしまったらしい。まあ、俺も美味い食事に関しては、女神ニーナ教の熱心な信者なのだが。
「壊さない。正しい負担を与えるだけだ」
「そうです。アレス様も、そのようにしてお強くなられたのです」
ニーナは、まるですべてを知っているかのように誇らしげだ。ベッツたちは俺とニーナを交互に見ながら、困惑したようにうなずいている。
「……量は調整する」
「皆さん、どうぞご安心ください」
ニーナが皆を安心させるようにほほ笑んだ。肩口で切りそろえたくり色の髪がふわりと揺れ、大きなこはく色の瞳が優しく細められる。元々かわいらしい顔立ちなのだ。そんな柔らかな笑顔を向けられれば、荒くれ者たちのこわばった顔まで緩むのも無理はない。
「へ、へい……」
ベッツが、その笑顔に押し切られるように答えた。ほかの者たちも続いてうなずく。
……なんだか、ニーナの俺への信頼が厚すぎて、若干怖い。




