第41話 守るための秘密
事件のすべてが終わったわけではない。依頼人の正体はまだ分からず、石標の見張りも続いている。だが、ニーナを無事に取り戻し、誘拐に関わった十人をこちらの管理下へ置いたことで、一つの区切りはついた。
しかし、俺が変えなければならない未来は、この事件一つでは終わらない。屋敷の中で鍛えるだけでは足りない。実戦を積み、自分の力で金と情報を集め、必要な時に領都の外へ動ける立場が要る。
そのための次の一歩は、冒険者ギルドへの登録だ。
もっとも、その前にやるべきことが残っている。ニーナのこと。そして、昨日手に入れた十人のことだ。
翌朝。最後の拳を打ち終えた俺は、構えを解かず、乱れた呼吸を整えていた。夜明け前の旧屋内訓練場に、汗が地面へ落ちる音だけが響く。走り込み。肉体訓練。《体術》の反復。魔力操作に、《闘気》の部分解放。予定していた朝の訓練を、最初から最後まで行えたのは七日ぶりだった。
もちろん、この七日間も遊んでいたわけではない。朝の走り込みと基礎訓練は一度も欠かさず、領主学にも出席した。食事と睡眠も、身体を作るために必要な量を取っている。
だが、石切り場の監視、地形の確認、十人の行動を調べることに、多くの時間を使った。午後と夜の訓練は半分以下に減り、昨日はニーナを屋敷へ送り届けた後も、ほとんど身体を動かせなかった。
「ずいぶん、遅れたな」
握った拳へ視線を落とす。本来なら、この七日間で《闘気》をまとえる時間をわずかでも延ばし、《縮地》の精度をさらに高めるつもりだった。
できなかったことは、それだけではない。魔力の通り道の強化も、《破砕》と《崩刃》の反復も、予定したところまで進んでいない。失った時間は、《再生》でも取り戻せなかった。
だからといって、ニーナを守るために使った時間を無駄だったとは思わない。もう一度やり直せたとしても、俺は同じ七日を使う。あのまま訓練だけを続け、ニーナを失うくらいなら、強くなる意味などなかった。だが、必要なことだったからといって、遅れが消えるわけではない。
二年後には、魔の森から魔物があふれる。その先には帝国との戦いがあり、魔族との戦いがある。俺が過去と異なる行動を始めた以上、すべてが以前より早く起きる可能性さえあった。
一日分の力が足りず、届くはずだった手が届かない。そんな後悔を、二度とするつもりはない。
「これまで以上に、鍛えなければならない」
ただし、焦って睡眠を削るような真似はしない。食べる時間も、休む時間も、強くなるために必要だ。増やすべきは無茶ではなく、一つ一つの訓練の密度だった。そして、俺でなくてもできることは、昨日手に入れた十人へ任せる。
一人の一日は増やせない。だが、十人が同時に動けば、俺が鍛えている間にも、十人分の仕事を進められる。物を集める者。道や倉を造る者。人と荷を守る者。それぞれへ役目を与え、正しく働かせることができれば、俺がすべてを抱える必要はない。
「まずは、徹底的に働いてもらおう」
俺の訓練を遅らせた分も含めて、きっちり役に立ってもらうつもりだった。
「アレス様」
旧屋内訓練場の扉の向こうから、ニーナの声がした。
「お水をお持ちしました。入ってもよろしいでしょうか?」
「入れ」
扉が開き、水差しと器を載せた盆を持つニーナが入ってくる。いつものメイド服を着ていた。昨日より顔色はよい。だが、目の下にはまだわずかに影が残っている。
「今日は休めと言ったはずだ」
「それは、昨日のお話です」
「一晩眠れば、すべて元どおりになるわけではない」
「はい。ですから、無理はいたしません。まずは、いつものお仕事から始めます」
ニーナはそう言い、水差しを机へ置いた。以前なら、俺が強く言えばすぐに引き下がっていただろう。ずいぶんと自分の意見を言えるようになったものだ。悪い変化ではない。
「昨夜は眠れたか?」
「一度、怖い夢を見て目を覚ましました。でも、アレス様に言われたとおり、ハンナさんを呼びました。少しお話ししていただいたら、その後は朝まで眠れました」
「朝食は?」
「すべていただきました」
「身体の震えは?」
ニーナは盆を置いた両手を、俺の前へ差し出した。指先は震えていない。ただ、袖口からのぞいた手首には、縄で擦れた跡が赤く残っていた。その傷を見た瞬間、昨夜から迷っていたことへ答えが出た。
「ニーナ。座れ」
「訓練のお話でしょうか?」
「それも含めて、先に話しておくことがある」
ニーナが休憩室の椅子へ腰を下ろす。俺も向かいへ座り、もう一度、両手を出すように言った。細い手首を下から支え、赤く腫れた箇所へ手のひらを重ねる。
「少し温かくなる」
「はい」
俺は一度だけ息を吐き、魔力を流した。
「《再生》」
淡い光が、ニーナの両手首を包む。擦れて裂けかけていた皮膚がつながり、赤い腫れが見る間に薄れていく。二呼吸もかからなかった。光が消えた時には、昨日まで確かにあった傷が、跡形もなく消えていた。ニーナは声も上げず、自分の手首を見つめている。何度も表と裏を返し、傷のあった場所を指先でなぞる。
「痛みは?」
「……ありません」
かすれた声で答えた後、ようやく顔を上げた。
「アレス様の《再生》は、ご自身にしか使えないものだと思っておりました」
「そう思わせていた」
俺の固有ギフトは、《超再生》だ。普段、《再生》と呼んでいるのは、その力の一部だけを取り出したものにすぎない。十二歳へ戻ってから、この力を他人へ使ったことはなかった。使えば、俺の力が自分の傷を治すだけのものではないと知られてしまう。
父上たちでさえ、《超再生》のすべてを知っているわけではない。ニーナを普通の方法で鍛えることもできる。何も話さず、疲労を取るためだと言って《再生》を使うこともできた。
だが、それではニーナから選ぶ権利を奪うことになる。何も知らせずおとりのように使い、怖い思いをさせた事実は、ニーナに隠しても消えない。同じ過ちを二度と繰り返さないと決めた俺が、また自分だけで決めてよいはずがなかった。
「よく聞け。俺の《再生》は、自分だけではなく、他人にも使える」
「今のような傷を治せる、ということでしょうか?」
「それだけではない。命が完全に尽きていなければ、どれほど深い傷でも治せる。折れた骨も、潰れた内臓も、失った目もだ」
ニーナが息を止めた。
「失った目……?」
「腕や脚を切り落とされたとしても、元どおりにできる」
「お待ちください」
椅子が床を擦る音を立てた。立ち上がったニーナが、信じられないものを見るように俺を見つめている。
「切り口を塞ぐのではなく、なくなった腕や脚そのものを、もう一度作れるという意味ですか?」
「ああ。ただし、傷が大きいほど時間も魔力も使う。治される者の体力と栄養も必要だ。死者をよみがえらせることはできない」
「それでも……そのような力は……」
ニーナは再び自分の手首へ目を落とした。
「教会の高位神官様でも、重い骨折を治すには何度も治癒魔法を使うと聞いております。歴代の聖女様でさえ、失った手足を元へ戻したという記録はありません」
その声が、わずかに震え始める。今朝まで、この力を持つ俺を傍で見ながら、ニーナはその異常さを知らなかった。たった今、常識の外にあるものへ触れたのだ。
「聖女様にもできないことを、アレス様は……」
ニーナが胸元で両手を握り締めた。こはく色の瞳に浮かんでいるのは、驚きだけではない。理解できないものへ向ける、恐れに近い色だった。
「いったい、あなた様は何者なのですか……?」
滅びた未来で六十年以上戦い、《武王》と呼ばれた男。女神ルミエラ様の力によって、十二歳へ戻された者。どちらも、口にすることは許されていない。
「それには答えられない」
誤魔化すことも、うそをつくこともしなかった。
「だが、俺がこの力を何のために使うのかは答えられる」
ニーナの目を真っすぐに見返す。
「守るためだ。俺の手が届く者を一人も失わないために使う」
ニーナの瞳が揺れた。先ほどまでそこにあった恐れが、少しずつ別の色へ変わっていく。
「そして、この力は、傷を治すだけではない」
「まだ、何かあるのですか?」
「正しい訓練で傷ついた筋肉や骨、魔力の通り道を、以前よりわずかに強い状態へ作り直せる」
ニーナが息をのむ。
「アレス様が、この一か月であれほどお強くなったのは……」
「限界まで正しく鍛え、《再生》で回復させ、また鍛えたからだ。本来なら数日かかる成長を、一日の中で何度も積み重ねてきた」
「同じことを、私にもできるのですか?」
「できる」
答えた瞬間、ニーナの瞳が明るく輝いた。
「ただし、触れただけで強くなる力ではない」
今にも訓練を始めたいと言い出しそうだったので、先に釘を刺す。
「技術も経験も、俺が教え、お前自身が身につけなければならない。正しく負担をかけ、食べ、休み、回復させる。どれか一つでも欠ければ、身体を壊すだけだ」
「はい」
「訓練量も食事も、俺が決める。焦って勝手に増やした場合は、その日の訓練を中止する」
「かしこまりました」
「なぜ、このことを私へお話しくださったのですか?」
ニーナが静かに尋ねた。
「私を早く強くするためだけなら、詳しく教えずに使うこともできたと思います」
ずいぶんと鋭くなったものだ。俺はわずかに息を吐いた。
「お前の言うとおりだ。理由は、それだけではない」
一か月前まで、ニーナは俺の顔色をうかがい、怒鳴られないように息を潜めていた。今は、俺の言葉へ疑問があれば、自分から問いかける。昨日は恐怖の中でも火魔法で抗い、今度は自分で強くなることを選んだ。俺が何も話さず、守られるだけの者として扱ってよい相手ではない。
「これから俺は、領地を守るために人を集め、物を蓄え、戦う力を作る。すぐには父上たちへ話せないことも増えるだろう」
時間を巻き戻したことだけは、最後まで誰にも話せない。それでも、俺が何をしようとしているのかを理解し、そばで支えてくれる者は必要だった。
「この一か月、俺が一日も訓練を投げ出さずに続けられたのは、ニーナがいたからだ。昨日、お前を失うかもしれないと思って、ようやく分かった」
ニーナの表情が止まる。
「お前は、食事と水を運ぶだけのメイドではない。俺には、これからもお前が必要だ」
「アレス様……」
「俺は、お前を信じることにした。だから、隠さずに話した」
ニーナは何も言わなかった。治った両手を胸の前で強く握り、うつむいている。やがて、その頬を一筋の涙が伝った。
「セルジュさんの《契約術》は、使わなくてよろしいのですか?」
「使わない」
「ですが、絶対に漏らしてはならない秘密なのでしょう?」
「契約で口を塞いでから秘密を話しても、信じて託したことにはならない」
十人には契約が必要だった。あいつらを、まだ心から信用しているわけではない。だが、ニーナは違う。
「守ってくれるな?」
「はい。命に代えても――」
「命に代えるな」
すぐに言葉を遮った。
「お前を強くするのは、生き残らせるためだ。秘密を守るために死ぬくらいなら、俺のことなどすべて話して生き延びろ」
「では、どのようにお約束すればよいのでしょうか?」
「普通に、守ると言えばいい」
ニーナは涙を拭い、改めて俺へ向き直った。もう、その瞳に恐れはなかった。
「必ず守ります。アレス様が私を信じてくださったことを、絶対に裏切りません」
一度言葉を切り、ニーナはさらに続けた。
「アレス様が何者なのか、私にはまだ分かりません。ですが、これほどのお力を、ご自分のためだけではなく、誰かを守るために使おうとなさる方だということは分かります」
椅子から立ち上がり、深く頭を下げる。
「たとえ、ほかの誰かがアレス様を疑ったとしても、私は信じます。これから先も、どうかお傍に置いてください」
契約など必要ないと伝えたはずだった。返ってきた言葉は、契約よりも重い誓いのように聞こえた。
「ああ。信じている」
顔を上げたニーナの瞳には、少し困るほど真っすぐな光が宿っていた。




