第40話 いつか、その隣へ
ニーナ視点
「今は、お話ししません」
自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。アレス様が私を見る。
「怖くなくなったわけではありません。でも、あの方々が本当に償うのか、私も見届けたいです。それに、依頼した方を見つけなければ、同じことが起こるかもしれません」
「俺へ気を遣っているのではないな?」
何も思っていないわけではなかった。沢で襲われた時の恐怖は、今も胸の奥に残っている。もしアレス様が間に合わなければ、私は今ごろどうなっていたのか。そう考えるだけで、身体が震えそうになる。
けれどアレス様は、私が戻らないことに気づき、たった一人で足跡を追って助けに来てくださった。その方が今は、私自身の気持ちを確かめようとしている。だからこそ、今度は私が自分で選びたい。
「はい。私が決めました」
しばらく見つめ合った後、アレス様がうなずく。
「分かった。ただし、気が変わったらいつでも言え。その時は、俺が父上へすべて話す」
「はい」
「それと、今後お前を一人で裏山へ行かせることはない。依頼人へつながる石標も、こちらで見張っている。次は、お前へ危険が及ぶ前に終わらせる」
アレス様の言葉に、うそはないと思う。この方は、約束したことを守ってくださる。それでも、胸の奥に残っていた疑問を消すことはできなかった。
「アレス様。どうして、私だったのでしょうか」
「分からない」
「私は、特別な人間ではありません。貴族でもありませんし、火魔法を使えることも、あの方々は知りませんでした」
「ああ。だから、魔法の才能が理由ではない」
「偶然、選ばれただけなのでしょうか」
「いや」
アレス様は、静かに首を横へ振った。
「依頼人は、男爵家で働くくり色の髪の若い侍女と、お前を初めから指定していた。裏山へ出る曜日と時刻まで知っていた。偶然ではない」
背筋へ冷たいものが走る。特別な何かを持っているから狙われたのではない。何者でもない私を、誰かがわざわざ選んだ。その事実の方が、理由の分からない恐ろしさを感じさせた。
「必ず突き止める」
アレス様が言った。
「なぜお前を狙ったのかも、どのように屋敷の中のことを知ったのかも、すべてだ」
私はうなずいた。けれど、ただうなずいているだけでは、また同じことになるかもしれない。今日、アレス様が守ってくださった。次も、守ってくださるのだろう。この方はきっと、何度でもそうしてくださる。
けれどアレス様は、たった一人しかいない。石切り場で、十人へそれぞれ役目を与える姿を見た。品物を集める方。道や倉を造る方。荷と人を守る方。一人では守りきれないから、守れる人を増やそうとなさっていた。それなのに、私だけがいつまでも、アレス様の背中へ隠れているわけにはいかない。
「アレス様。お願いがございます」
「何だ?」
私は手にしていた器を机へ戻し、ベッドの上で姿勢を正した。
「私を、強くしてください」
アレス様が目を見開く。
「火魔法なら、これまでどおり教えるつもりだ」
「魔法だけではありません。自分の身を、自分で守れるようになりたいのです」
「今日のお前は、自分の力で抗った」
「抗っただけです。逃げることはできませんでした」
「恐怖の中で魔力を制御し、相手へ火球を当てた。誰にでもできることではない」
「それでも、アレス様が来てくださらなければ、私は今ここにいません」
声が震えそうになる。それでも、目は逸らさなかった。
「アレス様が戦っている間も、私は言われたとおり、アレス様の背後で動かずにいることしかできませんでした」
「それでいい。俺がそうしろと命じた」
「ですが――」
「お前が勝手に動かず、俺の背後から離れなかったから、俺は一度も後ろを気にせず戦えた。お前は足手まといではない」
胸の奥が熱くなる。アレス様は、いつもそうだ。私ができなかったことではなく、できたことを見つけてくださる。
「ありがとうございます」
私は一度頭を下げ、もう一度アレス様を見た。
「それでも私は、今日できたことで満足したくありません」
「……なぜ、そこまで強くなりたい?」
「怖かったからです」
今度は、迷わず答えられた。
「力を持てば、怖くなくなると思っているのか?」
「いいえ。きっと、怖いものは怖いままです」
今日のことを思い出すだけで、今も手が震える。強くなったからといって、その記憶が消えるわけではない。
「でも、力がなくても、危険は向こうからやってきました。何も知らず、何も選べないまま連れていかれる方が、私はもっと怖いです」
両手を握り締める。
「だから、次に同じことが起きた時、自分で選べるだけの力が欲しいのです。戦うのか、逃げるのか。誰かを呼ぶのか、守るのか。せめて、それを自分で決められるようになりたいです」
アレス様は、何も言わずに聞いていた。
「まずは、自分を守れるようになりたいです。そして、いつかは……アレス様が守ろうとなさっている方々を、私も一緒に守れるようになりたいです」
「俺が守られる側になることもあるのか?」
わずかに口元を緩め、アレス様が尋ねる。
「もちろんです」
「俺を守るのは、かなり難しいぞ」
「分かっています。今は、私の方が守られてばかりですから」
けれど、いつかは。
「アレス様に危険が迫った時、後ろへ隠れるのではなく、お隣に立てるくらい強くなりたいです」
言ってから、急に恥ずかしくなった。今の私とアレス様では、あまりにも力が違う。出過ぎたことを言ったかもしれない。けれど、アレス様は笑わなかった。
「強くなるということは、危険から遠ざかることではない」
先ほどまでより、少し低い声だった。
「力を持てば、戦う場所へ立つことになる。今日より怖い思いをすることもあるかもしれない」
「はい」
「一度始めれば、できないからとすぐに投げ出すことは許さない」
「はい」
「俺の訓練を毎日見ていたなら、楽なものではないと分かっているな?」
「よく存じております」
アレス様は私の目をじっと見つめた。勢いだけで言っているのではないか、確かめているのだと思う。私は目を逸らさなかった。やがて、アレス様が小さく息を吐く。
「分かった。俺が教える」
「本当ですか?」
「ただし、最初に覚えるのは、敵を倒す方法ではない」
「では、何でしょうか」
「危険へ気づき、捕まらず、逃げ切る方法だ。勝つ必要はない。まず、自分を生き残らせろ」
その言葉は、想像していたよりもずっと重かった。
「足音や視線へ気づくこと。つかまれた時に腕を外すこと。転ばずに走り続けること。魔力を大きくするより先に、狙った場所だけを正確に燃やすこと。一つずつ身につけてもらう」
「はい!」
「返事だけは立派だな」
「必ずできるようになります」
「なら、最初の訓練だ」
アレス様が机の上の器を指差した。
「スープを残さず食べて、今夜は眠れ」
「それは、訓練なのでしょうか?」
「強くなるためには、鍛えるだけでは足りない。食べることも、休むことも、眠ることも訓練の一部だ」
聞き覚えのある言葉だった。鑑定の儀式を終え、アレス様が訓練を始めたばかりのころ、私へ教えてくださった言葉だ。
「分かりました。では、これも立派な訓練ですね」
「そうだ」
私は器を手に取り、もう一度スープを口へ運んだ。先ほどよりも、温かく感じた。
アレス様は、私が最後まで食べ終えるのを椅子へ座ったまま見届けてくださった。いつもは私が、訓練後のアレス様へ食事をお渡しし、きちんと召し上がったか記録している。今日は、まるで反対だった。
「ごちそうさまでした」
「よし。今日はよく休め。訓練は、身体の震えが治まってから始める」
「明日からではないのですか?」
「焦って身体を壊す者へは、何も教えない」
「……かしこまりました」
「不満そうだな」
「そんなことはございません」
きっと、少しだけ顔に出ていたのだと思う。アレス様はあきれたように息を吐き、盆を持って立ち上がった。
「眠れなければ、ハンナを呼べ。一人で我慢するな」
「はい」
扉の前まで進んだアレス様が、こちらを振り返る。
「ニーナ」
「はい?」
「強くなりたいと言ったことを、後悔させない。俺が必ず強くする」
その声に、迷いはなかった。
「はい。よろしくお願いいたします、アレス様」
扉が静かに閉じる。廊下を遠ざかっていく足音へ、私は耳を澄ませた。
一か月前まで、私はあの足音を恐れていた。怒鳴られないように。失敗しないように。できるだけ目に留まらないように。
鑑定の儀式から一週間が経ったころには、アレス様が昨日より強くなる姿を、一番近くで見ていたいと思うようになった。そして今日、私は初めて、自分も強くなりたいと願った。
これからも、アレス様が強くなっていく姿を、特等席で見届けたい。けれど、いつまでも見ているだけではいたくない。守られ、背中へ隠れるだけではなく、いつか、その隣へ立てるように。昨日までの自分へ戻らないために、私は強くなる。
読んでくださりありがとうございます!
これにて第三章 ニーナ誘拐編終了となります。
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次章 冒険者登録編になります。アレスがいよいよ冒険者となり、行動範囲を広げていきます。




