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怠惰で傲慢だった貴族がやり直しで世界を救う  作者:
第三章 ニーナ誘拐事件編

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第39話 消えない恐怖

ニーナ視点


 屋敷へ戻ってから、私は初めて、自分がどれほど怖かったのかを知った。山を下りている間は、まだ歩けていた。アレス様が私の籠を持ち、半歩前を歩いてくださっている。その背中を見失わないように足を動かしていれば、何も考えずに済んだ。


 けれど、屋敷の裏口をくぐり、扉が閉まった途端だった。全身から力が抜けた。


「ニーナ?」


 身体が傾くより先に、アレス様が私の腕をつかんだ。


「も、申し訳ございません。少し、足がもつれただけです」


「大丈夫な者は、そんな顔をしない」


「ですが、もう屋敷へ戻りましたから」


 そう答えた声は、自分でも分かるほど震えていた。ここはアークハルト家の屋敷だ。見慣れた廊下があり、少し進めば台所から昼食の匂いが漂ってくる。騎士も兵士も大勢いる。あの人たちが入り込めるはずなどない。


 分かっているのに、身体だけが分かってくれなかった。背後で靴音がするたび、肩が跳ねる。眠り草の甘い匂いが、まだ鼻の奥に残っているような気がする。口元へ布を押し当てられ、腕の中から力が抜けていった時の感覚がよみがえった。


「ニーナ」


 アレス様が私の前へ回り込む。


「ゆっくり息を吸え」


「はい」


「一度に吸い込むな。四つ数えながら吸って、八つ数えながら吐け」


 言われたとおりに呼吸を繰り返す。一度。二度。三度。速くなっていた鼓動が、少しずつ落ち着いていく。


「歩けるか?」


「はい。もう大丈夫です」


 アレス様のまゆの間にしわが寄った。


「今、大丈夫ではないと分かったばかりだろう」


「……歩くことはできます」


「なら、それでいい。部屋まで送る」


「その前に、籠を台所へお持ちしなければ。それに、アレス様のお昼のお支度も――」


「必要ない」


「ですが」


「今日は休めと、何度言わせるつもりだ」


 しかるような声だった。以前なら、その声を聞いただけで身体をこわばらせていたと思う。今は違う。アレス様が怒っている相手は、私ではない。無理に働こうとしている私を、本気で心配してくださっている。


「……かしこまりました」


「ハンナには俺から話す」


「今日のことを、ですか?」


「お前が話すと決めていないことまで、勝手に話したりはしない」


 アレス様は迷うことなく答えた。石切り場から戻る途中、旦那様たちへ話すかどうかは、私に決めさせてくださった。


 あの方々と主従契約を結んだことも、依頼人を捕らえようとしていることも、隠すために私へうそをつかせるつもりはないと言ってくださった。私が黙っていることを選んだのだ。それでも、屋敷へ戻ったら考えを変え、口止めされるのではないかという不安が、心のどこかに残っていたのかもしれない。


「ありがとうございます」


「礼を言われることではない」


 アレス様はそう言うと、私がまたふらついても支えられるよう、歩調を合わせて隣を歩いてくださった。



 自室へ戻り、汚れた服を脱ぐ。両手首には、縄で擦れた赤い跡が残っていた。傷と呼ぶほど深くはない。それでも目に入るたび、暗い作業小屋へ引き戻される。


 ――お前はこれから、遠くへ行く。


 ――もう二度と会うことはねえよ。


 ――値が上がるぞ。


「……っ」


 私は慌てて袖を下ろし、手首を隠した。扉がたたかれたのは、その直後だった。


「ニーナ、入るよ」


 ハンナさんの声がして、湯気の立つ器を載せた盆を持って入ってくる。私の顔を見るなり、その太いまゆが心配そうに下がった。


「アレス様から聞いたよ。裏山で怖い目に遭ったんだって?」


「……はい」


「何があったんだい?」


 答えようとして、声が出なかった。話せば、きっとハンナさんは旦那様や奥様へ知らせる。それが間違っているとは思わない。あの人たちは私をさらい、売ろうとしたのだ。本来なら、すぐに騎士団へ引き渡すべきなのだろう。


 けれど、アレス様は悪事を二度とできない契約を結ばせ、奪った物を返し、被害を受けた方々へ償わせようとしている。ロイドさんやゲオルグさんのように、だまされ、脅されながらも私を助けようとしてくれた方もいた。何より、姿も名前も分からない依頼人が、まだどこかにいる。


「申し訳ありません。今は、まだ……」


 ハンナさんはしばらく私を見つめ、それ以上は尋ねなかった。


「分かった。話せるようになったら話せばいいさ」


 盆を小さな机へ置き、器の隣へ塗り薬を並べる。


「アレス様から、手首へ塗るようにって渡されたよ」


「お気づきだったのですね……」


「あの方は、ずいぶんとよく人を見るようになったからね」


 ハンナさんが私の袖をまくり、赤くなった箇所へ塗り薬を塗ってくれる。ひんやりとした感触に、わずかに痛みが和らいだ。


「今日はもう働くんじゃないよ。これは台所の皆で作ったんだから、冷めないうちに食べて、少し眠りな」


「でも、皆さんのお仕事が増えてしまいます」


「増えやしないよ。一人が休んだくらいで回らなくなるほど、うちの屋敷は頼りないのかい?」


「そのようなことは……」


「だったら、今は甘えな。元気になったら、また手伝ってもらうから」


 ハンナさんは私の肩を一度だけなで、部屋を出ていった。


 器に入っていたのは、柔らかく煮込んだ鶏肉と野菜のスープだった。スプーンですくい、口へ運ぶ。温かい。優しい塩味が、空っぽだった身体へ染み込んでいく。


 けれど、二口目を飲み込もうとした時、廊下から男の人の笑い声が聞こえた。屋敷で働く兵士たちの声だ。分かっている。それでも、作業小屋で私の値段を口にしていた男たちの笑い声と重なった。手からスプーンが落ちる。器の縁へ当たり、硬い音を立てた。私は両腕で自分の身体を抱き締めた。


「ここは、屋敷です」


 誰もいない部屋で、自分へ言い聞かせる。


「もう、大丈夫です」


 何度繰り返しても、震えはなかなか止まらなかった。


 私は、怖かった。山の中で背後から身体をつかまれた時も。目を覚まし、知らない男たちに囲まれていた時も。二度とアレス様に会えないと言われた時も。怖くて、怖くて仕方がなかった。


 それでも、あの時は泣かないように必死だった。泣けば、もっと喜ばれるような気がしたから。火球を当てても逃げられず、何も変えられなかったと分かった時、初めて涙をこらえられなくなった。


 その直後、アレス様が来てくださった。天井を破って降り立った小さな背中が、私にはどんな大人よりも大きく見えた。もう大丈夫だと言われた瞬間、本当に何も怖くなくなった。


 けれど今、その背中はここにない。私はベッドの上で膝を抱えた。


 もし、アレス様が気づいてくださらなかったら。もし、あの方々が別の日を選んでいたら。もし、助けに来るのが少しでも遅れていたら。今ごろ、私はどこにいたのだろう。


 考えないようにしても、暗い荷箱の中で揺られている自分の姿が浮かんでくる。やがて疲れ切った身体が眠りへ落ちた後も、同じ光景は夢の中まで追ってきた。



「アレス様!」


 自分の声で目を覚ました。勢いよく身体を起こし、周囲を見回す。薄暗い自室。見慣れた机と椅子。窓の外は夕暮れを迎え、夕焼け色の光がわずかに差し込んでいる。


 荷箱の中ではない。手足も縛られていない。荒くなった呼吸を整えようとした時、扉が二度たたかれた。身体が跳ねた。


「ニーナ。俺だ」


 扉の向こうから聞こえた声に、胸をなで下ろす。


「入ってもよいか?」


「は、はい」


 急いでベッドから下りようとすると、扉を開けたアレス様がすぐに手で制した。


「そのままでいい」


 アレス様は午後の訓練着ではなく、屋敷の中で着る服へ着替えていた。その手には、新しいスープと小さなパンを載せた盆がある。


「ハンナから、昼のスープをほとんど残したと聞いた」


「申し訳ございません」


「謝れとは言っていない。食べられそうか?」


 空腹は感じていた。けれど、またスプーンを落とすかもしれないと思うと、すぐにはうなずけなかった。アレス様は机の上へ盆を置くと、椅子をベッドから少し離れた場所へ動かして腰を下ろした。


「俺はここにいる。急がなくていい」


 その一言だけで、身体から余計な力が抜けた。スープを一口飲む。今度は、きちんと飲み込めた。


「眠れたか?」


「はい」


「では、先ほど俺の名を呼んだのは寝言か?」


「聞こえていたのですか?」


「扉の前までな」


 うそをつく意味がなくなった。


「夢を見ました。あの人たちに、また連れていかれる夢です」


「……そうか」


 アレス様の両手が、膝の上で固く握られた。


「やはり、父上へ話すべきかもしれない。騎士を動かせば、依頼人まで逃がす可能性はある。だが、お前が今後も狙われる危険を考えれば――」


 旦那様へ話せば、きっと私は守ってもらえる。もう何も考えず、アレス様と騎士の皆様へ任せてもよいのかもしれない。


 それは今の私にとって、最も安心できる道のはずだった。


 なのに、私はすぐにうなずけなかった。


 恐怖は、まだ消えていない。


 それでも、これからの私まで恐怖に決めさせたくはなかった。


 私は膝の上で震える両手を握り締め、アレス様をまっすぐ見つめた。


 怖いままでも、答えはもう決まっていた。

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