第39話 消えない恐怖
ニーナ視点
屋敷へ戻ってから、私は初めて、自分がどれほど怖かったのかを知った。山を下りている間は、まだ歩けていた。アレス様が私の籠を持ち、半歩前を歩いてくださっている。その背中を見失わないように足を動かしていれば、何も考えずに済んだ。
けれど、屋敷の裏口をくぐり、扉が閉まった途端だった。全身から力が抜けた。
「ニーナ?」
身体が傾くより先に、アレス様が私の腕をつかんだ。
「も、申し訳ございません。少し、足がもつれただけです」
「大丈夫な者は、そんな顔をしない」
「ですが、もう屋敷へ戻りましたから」
そう答えた声は、自分でも分かるほど震えていた。ここはアークハルト家の屋敷だ。見慣れた廊下があり、少し進めば台所から昼食の匂いが漂ってくる。騎士も兵士も大勢いる。あの人たちが入り込めるはずなどない。
分かっているのに、身体だけが分かってくれなかった。背後で靴音がするたび、肩が跳ねる。眠り草の甘い匂いが、まだ鼻の奥に残っているような気がする。口元へ布を押し当てられ、腕の中から力が抜けていった時の感覚がよみがえった。
「ニーナ」
アレス様が私の前へ回り込む。
「ゆっくり息を吸え」
「はい」
「一度に吸い込むな。四つ数えながら吸って、八つ数えながら吐け」
言われたとおりに呼吸を繰り返す。一度。二度。三度。速くなっていた鼓動が、少しずつ落ち着いていく。
「歩けるか?」
「はい。もう大丈夫です」
アレス様のまゆの間にしわが寄った。
「今、大丈夫ではないと分かったばかりだろう」
「……歩くことはできます」
「なら、それでいい。部屋まで送る」
「その前に、籠を台所へお持ちしなければ。それに、アレス様のお昼のお支度も――」
「必要ない」
「ですが」
「今日は休めと、何度言わせるつもりだ」
しかるような声だった。以前なら、その声を聞いただけで身体をこわばらせていたと思う。今は違う。アレス様が怒っている相手は、私ではない。無理に働こうとしている私を、本気で心配してくださっている。
「……かしこまりました」
「ハンナには俺から話す」
「今日のことを、ですか?」
「お前が話すと決めていないことまで、勝手に話したりはしない」
アレス様は迷うことなく答えた。石切り場から戻る途中、旦那様たちへ話すかどうかは、私に決めさせてくださった。
あの方々と主従契約を結んだことも、依頼人を捕らえようとしていることも、隠すために私へうそをつかせるつもりはないと言ってくださった。私が黙っていることを選んだのだ。それでも、屋敷へ戻ったら考えを変え、口止めされるのではないかという不安が、心のどこかに残っていたのかもしれない。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
アレス様はそう言うと、私がまたふらついても支えられるよう、歩調を合わせて隣を歩いてくださった。
◇
自室へ戻り、汚れた服を脱ぐ。両手首には、縄で擦れた赤い跡が残っていた。傷と呼ぶほど深くはない。それでも目に入るたび、暗い作業小屋へ引き戻される。
――お前はこれから、遠くへ行く。
――もう二度と会うことはねえよ。
――値が上がるぞ。
「……っ」
私は慌てて袖を下ろし、手首を隠した。扉がたたかれたのは、その直後だった。
「ニーナ、入るよ」
ハンナさんの声がして、湯気の立つ器を載せた盆を持って入ってくる。私の顔を見るなり、その太いまゆが心配そうに下がった。
「アレス様から聞いたよ。裏山で怖い目に遭ったんだって?」
「……はい」
「何があったんだい?」
答えようとして、声が出なかった。話せば、きっとハンナさんは旦那様や奥様へ知らせる。それが間違っているとは思わない。あの人たちは私をさらい、売ろうとしたのだ。本来なら、すぐに騎士団へ引き渡すべきなのだろう。
けれど、アレス様は悪事を二度とできない契約を結ばせ、奪った物を返し、被害を受けた方々へ償わせようとしている。ロイドさんやゲオルグさんのように、だまされ、脅されながらも私を助けようとしてくれた方もいた。何より、姿も名前も分からない依頼人が、まだどこかにいる。
「申し訳ありません。今は、まだ……」
ハンナさんはしばらく私を見つめ、それ以上は尋ねなかった。
「分かった。話せるようになったら話せばいいさ」
盆を小さな机へ置き、器の隣へ塗り薬を並べる。
「アレス様から、手首へ塗るようにって渡されたよ」
「お気づきだったのですね……」
「あの方は、ずいぶんとよく人を見るようになったからね」
ハンナさんが私の袖をまくり、赤くなった箇所へ塗り薬を塗ってくれる。ひんやりとした感触に、わずかに痛みが和らいだ。
「今日はもう働くんじゃないよ。これは台所の皆で作ったんだから、冷めないうちに食べて、少し眠りな」
「でも、皆さんのお仕事が増えてしまいます」
「増えやしないよ。一人が休んだくらいで回らなくなるほど、うちの屋敷は頼りないのかい?」
「そのようなことは……」
「だったら、今は甘えな。元気になったら、また手伝ってもらうから」
ハンナさんは私の肩を一度だけなで、部屋を出ていった。
器に入っていたのは、柔らかく煮込んだ鶏肉と野菜のスープだった。スプーンですくい、口へ運ぶ。温かい。優しい塩味が、空っぽだった身体へ染み込んでいく。
けれど、二口目を飲み込もうとした時、廊下から男の人の笑い声が聞こえた。屋敷で働く兵士たちの声だ。分かっている。それでも、作業小屋で私の値段を口にしていた男たちの笑い声と重なった。手からスプーンが落ちる。器の縁へ当たり、硬い音を立てた。私は両腕で自分の身体を抱き締めた。
「ここは、屋敷です」
誰もいない部屋で、自分へ言い聞かせる。
「もう、大丈夫です」
何度繰り返しても、震えはなかなか止まらなかった。
私は、怖かった。山の中で背後から身体をつかまれた時も。目を覚まし、知らない男たちに囲まれていた時も。二度とアレス様に会えないと言われた時も。怖くて、怖くて仕方がなかった。
それでも、あの時は泣かないように必死だった。泣けば、もっと喜ばれるような気がしたから。火球を当てても逃げられず、何も変えられなかったと分かった時、初めて涙をこらえられなくなった。
その直後、アレス様が来てくださった。天井を破って降り立った小さな背中が、私にはどんな大人よりも大きく見えた。もう大丈夫だと言われた瞬間、本当に何も怖くなくなった。
けれど今、その背中はここにない。私はベッドの上で膝を抱えた。
もし、アレス様が気づいてくださらなかったら。もし、あの方々が別の日を選んでいたら。もし、助けに来るのが少しでも遅れていたら。今ごろ、私はどこにいたのだろう。
考えないようにしても、暗い荷箱の中で揺られている自分の姿が浮かんでくる。やがて疲れ切った身体が眠りへ落ちた後も、同じ光景は夢の中まで追ってきた。
◇
「アレス様!」
自分の声で目を覚ました。勢いよく身体を起こし、周囲を見回す。薄暗い自室。見慣れた机と椅子。窓の外は夕暮れを迎え、夕焼け色の光がわずかに差し込んでいる。
荷箱の中ではない。手足も縛られていない。荒くなった呼吸を整えようとした時、扉が二度たたかれた。身体が跳ねた。
「ニーナ。俺だ」
扉の向こうから聞こえた声に、胸をなで下ろす。
「入ってもよいか?」
「は、はい」
急いでベッドから下りようとすると、扉を開けたアレス様がすぐに手で制した。
「そのままでいい」
アレス様は午後の訓練着ではなく、屋敷の中で着る服へ着替えていた。その手には、新しいスープと小さなパンを載せた盆がある。
「ハンナから、昼のスープをほとんど残したと聞いた」
「申し訳ございません」
「謝れとは言っていない。食べられそうか?」
空腹は感じていた。けれど、またスプーンを落とすかもしれないと思うと、すぐにはうなずけなかった。アレス様は机の上へ盆を置くと、椅子をベッドから少し離れた場所へ動かして腰を下ろした。
「俺はここにいる。急がなくていい」
その一言だけで、身体から余計な力が抜けた。スープを一口飲む。今度は、きちんと飲み込めた。
「眠れたか?」
「はい」
「では、先ほど俺の名を呼んだのは寝言か?」
「聞こえていたのですか?」
「扉の前までな」
うそをつく意味がなくなった。
「夢を見ました。あの人たちに、また連れていかれる夢です」
「……そうか」
アレス様の両手が、膝の上で固く握られた。
「やはり、父上へ話すべきかもしれない。騎士を動かせば、依頼人まで逃がす可能性はある。だが、お前が今後も狙われる危険を考えれば――」
旦那様へ話せば、きっと私は守ってもらえる。もう何も考えず、アレス様と騎士の皆様へ任せてもよいのかもしれない。
それは今の私にとって、最も安心できる道のはずだった。
なのに、私はすぐにうなずけなかった。
恐怖は、まだ消えていない。
それでも、これからの私まで恐怖に決めさせたくはなかった。
私は膝の上で震える両手を握り締め、アレス様をまっすぐ見つめた。
怖いままでも、答えはもう決まっていた。




