第34話 最後の一人を待つ
ニーナが石切り場へ運び込まれてから、およそ四半刻。俺は作業小屋の屋根裏へ潜み、下の様子をうかがっていた。ニーナは部屋の中央にある椅子へ座らされ、手首と足首を縄で縛られている。頭から被せられていた麻袋は外されていたが、まだ目を閉じていた。
周囲には九人。ベッツと娘のミラ。ニーナをさらった三人を含む五人の手下。それに、今日初めて姿を見せた二人の男がいる。
一人は、日に焼けた太い腕を持つ男。指先には、長年道具を扱ってきた者特有の硬い節がある。もう一人は、地味だが仕立てのよい上着を着た痩せ気味の男だった。腰に武器はなく、抱えた帳簿と一枚の契約書をにらみつけている。
「借金に上乗せされた金の計算が合わない」
痩せた男が契約書を突きつけた。
「一月ごとに増えた分を元の借金へ加え、さらに存在しない代金まで重ねている。最初から返させるつもりなどなかったのだろう」
「今ごろ気づいたか、ロイド」
ベッツが鼻で笑う。
「酒場でミラに声をかけられ、鼻の下を伸ばして賭場までついてきたのはお前だ」
ロイドの顔がくやしさにゆがむ。だが、すぐにニーナへ目を戻した。
「俺は、表へ出せない荷を運ぶために馬車を貸せと聞いた。人を、それも年若い娘をさらうなど聞いていない」
「表へ出せない荷に違いはねえだろう」
「人は荷ではない」
声は震えていた。囲んでいる男たちが怖くないわけではない。それでも、ロイドは言い切った。
「その娘を解放しろ。借金なら返す。店を売ってでも――」
「両親から継いだ店を手放すのか?」
「人さらいに使うくらいなら、その方がましだ」
隣に立つ大工も、拳を握り締めた。
「俺も同じだ。工房を取るなら取れ。人を閉じ込める箱など、俺は作らん」
「ゲオルグ。お前まで説教か?」
「だまされた俺たちが愚かだったとしても、この娘には関係ない」
「なら、お前ら二人とも、ここから生きて帰れなくなるだけだ」
手下たちが二人を囲むように位置を変えた。ミラはうつむいたまま、顔を上げられずにいる。俺は《鑑定眼》を開き、ロイドへ焦点を合わせた。
【名前】ロイド
【スキル】《算術》
【魔法】なし
【耐性】なし
表示されたのは、それだけだ。商人としてどれほど優れているのかも、善人かどうかも分からない。だが、ゆがんだ契約書を一目で見抜いた頭と、店を失うと脅されても人を荷と呼ばなかった姿は、自分の目で見た。
続いてゲオルグへ意識を向ける。
【名前】ゲオルグ
【スキル】《建築》
【魔法】なし
【耐性】なし
この男も、犯罪に役立つ力を与えられたわけではない。ただし、脅されていたからといって、何もせず帰すわけにもいかない。ニーナを運ぶ準備に加わった以上、事情はすべて聞かせてもらう。
残る一人――奴隷商は、まだ来ていない。今飛び込めば九人は捕らえられる。だが、最後の一人を逃せば、別の誘拐へ手を貸す可能性がある。待つしかない。
ニーナの指が動いた。
「……ここは?」
かすれた声が漏れる。ゆっくりと目を開き、自分を囲む者たちを見回した。縄に気づいた瞬間、その顔から血の気が引く。
「目を覚ましたか」
ベッツが椅子の前へ立った。
「あなたたちは……誰ですか」
「知る必要はねえ。お前はこれから、遠くへ行くんだからな」
「帰してください。皆さんが心配します」
「男爵家が騒ぎ始めるころには、もう領外だ」
ニーナが縄を引く。当然、解けない。呼吸が浅くなり、こはく色の瞳に恐怖が広がっていく。
「アレス様……」
小さく呼ばれた自分の名が、胸へ突き刺さった。ここにいる。すぐ傍にいる。あと一人が扉をくぐれば、必ず助ける。だが、それを伝えることはできなかった。
「ずいぶんと坊ちゃんを慕ってるじゃねえか」
ラグが、笑みを浮かべた。
「安心しろ。もう二度と会うことはねえよ」
男がニーナのあごへ手を伸ばす。
「その子に触るな」
ロイドの声が飛んだ。男の手が止まり、不機嫌そうに振り返る。
「何だと?」
「怖がっているのが分からないのか。お前たちの目的は、その子を運ぶことだろう。余計なことをする必要はない」
「借金まみれの武器屋が、偉そうに命令するな」
男がロイドの胸を突き飛ばす。ロイドは作業台へ背中を打ちつけながらも、男から目を逸らさなかった。
「ロイドさん……」
ニーナが戸惑ったようにその名を呼ぶ。
「心配するな」
自分も囲まれているというのに、ロイドはニーナへそう告げた。
「誰かが、必ず捜しに来る」
その言葉を鼻で笑い、男が再びニーナへ向き直る。
「来るわけねえだろ。おお、よく見ると本当に可愛い嬢ちゃんだ」
「触らないでください」
ニーナが顔を背けた。それでも男は、もう一度手を伸ばす。
その時、ニーナの右手から魔力が揺らいだ。両手首は身体の前で固く縛られている。それでも、指先だけはわずかに動かせた。ニーナは目を閉じ、震える息を一度だけ深く吸う。
炎を大きくしようとする必要はない。最初から敵を倒そうとも思うな。魔力を一点へ集め、燃やしたい場所だけを明確に思い描け。夜の魔力操作で、俺が教えた言葉だ。
ニーナの指先に、オレンジ色の光が灯る。
「来ないで……ください!」
拳ほどの火球が生まれた。縄のすき間から飛び出し、男の右肩へ直撃する。
「ぎゃあっ!」
炎が服へ燃え移った。男は床を転がり、仲間がマントをたたきつけて火を消す。焼けた布と皮膚の臭いが、狭い小屋へ広がった。
深い火傷ではない。だが、はっきりと傷を負わせた。よくやった。恐怖の中で、教えたとおりに魔力を集めた。
盗賊たちは、声も出せずにニーナを見つめている。こいつらの中に、魔法を持つ者は一人もいない。その目の前で、縛られた少女が炎を生み出したのだ。
「ひ、火魔法だと……?」
「この娘、魔法まで使えるのか!」
驚きは、すぐにいやな喜びへ変わった。
「そいつは運がいい。値が上がるぞ!」
「買い手へ知らせろ。最初の額じゃ渡せねえ!」
男たちが口々に売値の話を始める。
「やめろ!」
ロイドが叫んだ。
「人の価値を金で語るな!」
「武器に値札をつけてる商人が、今さら何を言ってやがる」
「武器と人は違う!」
「黙らせろ」
ベッツの一言で、手下がロイドの腹へ拳をたたき込んだ。ロイドが膝をつき、ゲオルグがその身体を支える。
ニーナの顔に浮かびかけた希望が消えた。勇気を振り絞り、教えた火魔法で実際に一人へ傷を負わせた。それでも縄は解けず、逃げ道も開かなかった。
「もっと……ちゃんと、できていれば……」
握り締めた両手が震えている。大粒の涙が、ニーナの頬を伝った。
その涙を見た瞬間、身体の奥で何かがきしんだ。もう待てない。奴隷商が一人残ろうと、今すぐ全員たたき潰す。そう決めて身体を起こしかけた時、外から車輪の音が聞こえた。一台の馬車が、石切り場へ入ってくる。
「やっと来やがったか」
ほどなく、黒い革かばんを持った細身の男が小屋へ入ってきた。
「遅くなりました。これでも人目を避けて来たのですよ」
「奴隷契約はできるんだろうな」
「そのために呼ばれたのでしょう。ただし、私は指定された相手へ契約をかけるだけです。どこから連れてきたかまでは――」
男の視線が、縛られたニーナで止まった。
「……男爵家の使用人ではありませんか。貴族絡みだとは聞いていませんよ」
「今さら帰れると思うな。金は弾む」
男は黙り込み、革かばんを抱え直した。帰るなら、今が最後の機会だった。だが、男は扉へ背を向けなかった。
「私は、余計なことを聞かないと約束しました。契約だけ済ませます」
薄々分かっていながら、金を選んだか。俺は男へ《鑑定眼》を向ける。
【名前】セルジュ
【スキル】《契約術》
【魔法】なし
【耐性】なし
十人。これで全員がそろった。
「その娘へ、すぐ契約を――」
「必要ない」
俺は屋根裏の梁を蹴った。古い天井板を踏み抜き、部屋の中央へ降り立つ。板の破片とほこりが舞い、部屋中の視線が一斉に集まった。
「なっ――」
「誰だ、てめえ!」
俺は答えず、ニーナだけを見る。頬には涙の跡が残っている。だが、俺の姿を認めると、こはく色の瞳が大きく見開かれた。
「アレス……様?」
「待たせた」
本当は、ずっと傍にいた。それを口にできなかった。




