第31話 女神ニーナ様を尾行せよ
その日の夜。夕食と湯浴みを終えた俺は、自室の床へ座り、魔力操作の訓練を行っていた。目を閉じ、身体の隅々へ細い魔力を巡らせる。
向かいでは、ニーナが砂時計を見ながら、俺の呼吸や顔色に異常がないか確かめている。最近では、夜の訓練にも付き添うようになっていた。
「ニーナ」
「はい。何でしょうか、アレス様」
それとなく尋ねるべきだ。誘拐される未来を知っていると、悟られるわけにはいかない。俺は魔力を乱さないよう呼吸を続けながら、なるべく何でもないことのように口を開いた。
「お前は普段、一人で屋敷の外へ出ることがあるのか?」
ニーナが瞬きをした。
「……どうして、急にそのようなことを?」
少しも、それとなくなかったらしい。
「いや、特に深い意味はない」
「はあ……」
「ただ、毎日ほとんど俺の傍にいるだろう。休みの日などは、何をしているのかと思っただけだ」
今度は、少しは自然に聞こえたはずだ。ニーナはわずかに考え、口を開く。
「お屋敷の裏山へ、山菜を採りに参ります」
魔力の流れが乱れかけた。俺はすぐに制御を戻す。
「いつだ?」
「七日に一度、決まった日の午前中です。明後日も行く予定ですが……」
「一人で行くのか?」
「はい」
決まった日に、決まった場所へ、一人で出かける。あまりにも狙いやすい。
「危険ではないのか?」
「裏山はお屋敷の敷地内ですし、危険な魔物もおりません。騎士の方々も定期的に見回ってくださっています。それに、子どものころから何度も入っておりますので、道もよく知っています」
ニーナの答えに、不自然な点はない。安全だと考えられていたからこそ、誰も十五歳の少女を一人で行かせることへ疑問を持たなかったのだろう。
「なぜ、お前が山菜を採りに行く?」
「私には《料理》スキルがありますから、食べられる山菜を見分けるのが少し得意なのです。料理長さんに教えていただきながら集めているうちに、いつの間にか私の役目になりました」
「屋敷の食事にも使っているのか?」
「はい。皆さん、毎週楽しみにしてくださっています」
ニーナはうれしそうにほほ笑んだ。
「アレス様も、よく召し上がっていますよ」
「俺も?」
「豆のスープに入っている、少し苦みのある若葉を覚えていらっしゃいませんか? お肉と一緒にいためた山菜も、何度もおかわりしてくださっています」
言われて、いくつかの料理が頭に浮かんだ。疲れた身体に染み込む、わずかな苦みのある温かなスープ。香りの強い山菜と肉を、塩と油でいためた一皿。どちらも、この一か月で何度も食べた。訓練の後には、特に美味く感じた料理だ。
「あれは、お前が採ってきたものだったのか」
「はい。アレス様がたくさん召し上がるようになって、採ってくる量も増やしたのですよ」
そんなことも、俺は知らなかった。ニーナは水や食事を運んでくれていただけではない。俺が口にする食材まで、自分の手で山へ入り、集めてくれていた。俺は、ずっと目の前にある皿しか見ていなかったらしい。
「いつも、ありがとう」
「そ、そのような……。私が好きでしていることですから」
ニーナは頬をわずかに赤らめ、砂時計へ目を落とした。その表情を見ながら、俺は確信に近いものを抱いていた。毎週同じ日の午前中、一人で裏山へ入る。ニーナが屋敷の外で無防備になる機会は、おそらくそこしかない。
誘拐事件は、およそ一か月後。だが、俺が過去と違う行動を取り始めた時点で、歴史はすでに変わっている。以前と同じ日に事件が起こる保証はない。
明後日から、確認する必要がある。正面から同行を申し出れば、ニーナは俺の訓練を優先するよう遠慮するだろう。誰かが彼女の習慣を狙っているなら、俺の姿を見て身を隠す可能性もある。
ならば、気づかれないようについていけばいい。道と周囲の地形を調べ、不審な者がいないか確かめる。そして、もしすでに何者かがニーナを狙っているのなら――その場で捕らえる。
「アレス様?」
黙り込んだ俺を、不思議そうにニーナがのぞき込む。
「何でもない。少し魔力の流れを考えていた」
「そうでしたか。ですが、そろそろお休みのお時間です」
「分かった」
俺は素直に魔力を止めた。明後日の午前中。かつて《武王》と呼ばれた男による、人生で初めて人の後を追うことが始まる。
◇
二日後。朝の訓練と領主学を終えた俺は、屋敷の西棟へ続く廊下を歩いていた。時刻は、午前十時を少し過ぎたころ。普段なら、このまま旧屋内訓練場へ向かい、正午まで魔力操作と《体術》の反復を行う時間だ。だが、今日の目的は訓練ではない。
廊下の角を曲がると、裏口へ向かうニーナの姿が見えた。いつものメイド服ではなく、動きやすい長袖の服に、くるぶしまで隠れる丈夫そうな靴。肩口で切りそろえたくり色の髪を布でまとめ、背中には小さな水筒を下げている。片腕に提げた籠は、まだ空だった。
「アレス様」
こちらに気づいたニーナが、足を止めて頭を下げる。
「これから裏山か?」
「はい。お昼までには戻る予定です」
「そうか」
「屋内訓練場の休憩室に、お水と軽食をご用意しております。少し多めに置いてありますが、一度に召し上がらず、間を空けてくださいね」
「……分かっている」
まるで幼い子どもへ言い聞かせるような口調だった。いや、傍から見れば、俺は間違いなく十二歳の子どもなのだが。
「それでは、行って参ります」
「ニーナ」
「はい?」
「気をつけろ」
ニーナがわずかに目を見開く。やはり、不自然だっただろうか。
「裏山は安全なのだろうが、足を滑らせることくらいはある」
「はい。ありがとうございます」
ニーナはうれしそうにほほ笑み、もう一度頭を下げた。そのまま廊下を歩き、屋敷の裏口から外へ出ていく。俺は窓越しに、ニーナが庭の端へ向かうのを見送った。
すぐについていけば、姿を見られる。心の中で三十まで数えてから、何事もなかったように旧屋内訓練場へ入った。扉は閉める。父上との約束どおり、鍵はかけない。
休憩室には、ニーナが用意した水と、肉を挟んだパン、ゆで卵、果物が置かれていた。確かに、少し多い。山菜採りへ行く直前まで、俺の食事を気にしていたらしい。
「女神ニーナ様……」
危うく、また両手を合わせるところだった。今はそれどころではない。
俺は屋内訓練場の奥にある石壁へ近づいた。壁の向こうは、屋敷の西側に広がる林だ。正面の扉から出れば使用人に見つかるが、ここを越えれば誰にも見られず裏山へ向かえる。
両脚へ薄く魔力を巡らせる。地面を蹴り、石壁の途中にわずかに突き出た箇所へ足をかけ、そのまま上端へ手を伸ばした。身体を引き上げ、反対側へ音もなく降りる。父上から、屋内訓練場の壁を越えてはならないとは言われていない。
「……こじつけだな」
自分でも分かっている。だが、ニーナの命が懸かっている。今日だけは許していただこう。
林を抜け、屋敷の裏山へ続く細い道へ出る。地面には、見慣れた小さな靴跡が残っていた。土の沈み方から見て、通ったのはつい先ほどだ。俺は足音を殺し、その跡を追い始めた。
◇
仲間を尾行するのは、これが初めてだった。敵地へ潜入したことなら、数え切れないほどある。魔族の支配する城へ忍び込み、見張りを避けて囚われた者を救い出したこともある。魔物の群れへ気づかれないまま近づき、指揮個体だけを仕留めたこともあった。
気配を消し、足跡を残さず、相手の視界から外れて移動する。その方法は、身体が覚えている。
しかし、今追っているのは敵ではない。山菜を採りに行く十五歳の少女だ。
「……何をしているのだ、俺は」
冷静に考えると、かなり怪しい。事情を知らない者に見つかれば、どう説明しても誤解されるだろう。だからこそ、誰にも見つかるわけにはいかなかった。
ニーナとの距離は、およそ三十歩。風は山から屋敷へ向かって吹いている。俺の匂いが先へ流れる心配はない。枯れ枝を避け、柔らかな土やこけの上へ足を置く。鳥が鳴けば、その声に合わせて一歩進み、風が枝葉を揺らせば、続けて距離を詰める。
木々のすき間から、ニーナの背中が見えた。歩みは思っていたより速い。足元の悪い斜面でも迷うことなく進み、道から外れる時にも、目印になる木や岩を確かめている。子どものころから何度も入っているという話は、本当らしい。
俺はニーナを見失わないよう、一定の距離を保ってその背を追った。
この時の俺は、まだ気づいていなかった。
木々のさらに奥から、もう一つの視線がニーナへ向けられていたことに。




