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怠惰で傲慢だった貴族がやり直しで世界を救う  作者:
第三章 ニーナ誘拐事件編

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第30話 一か月で取り戻した力

第三章 ニーナ誘拐事件編がスタートします。

アレス視点


 時間が巻き戻ってから、今日でちょうど一か月が過ぎた。場所は、屋敷の西棟裏にある旧屋内訓練場。


 朝の訓練と領主学を終えた俺は、石壁に囲まれた自分専用の訓練場で、一人静かに腕を組んでいた。


 本日の議題は――この一か月の成長について。もっとも、参加者は俺一人しかいない。


「さて」


 誰もいないと分かっていながら、俺はわざとらしくせき払いをした。


「まずは、肉体から確認するとしよう」


 一か月前。この身体は、訓練場を五周走っただけで足がもつれ、拳を百回打つことさえできなかった。筋肉も、骨も、魔力の通り道も未熟。


 六十年以上かけて積み重ねた技術を使おうとしても、身体の方がまるでついてこなかった。だが、この一か月は一日も無駄にしていない。


 走る。打つ。蹴る。受ける。倒れる。立ち上がる。限界まで肉体へ正しい負担をかけ、食べ、休み、《超再生》によって傷ついた箇所を以前より強く作り直す。それを毎日、朝から晩まで繰り返した。もちろん、睡眠も十分に取っている。


 以前の俺なら、眠る時間まで惜しんで身体を壊し続けただろう。だが、あれは訓練ではなく、死なないことへ甘えただけの自傷だ。今は違う。鍛える時間も、食事の量も、休む時間も、すべてが強くなるための計画に含まれている。


 今では、全力で走り続けても足運びは乱れず、拳を打ち込んでも身体の軸はぶれない。二週間前に二人の騎士と訓練試合をした時より、肉体はさらに速く、重く、しなやかになっていた。


 その成果は、《闘気》を使わない通常状態でも、一般的なBランク冒険者に届くほどだ。一か月前まで、五周で倒れかけていた十二歳児が、である。


「ぐふふふっ……」


 口元から、妙な笑いが漏れた。いかん。悪い癖だ。以前の思い上がった怠け者の俺へ戻ったようではないか。俺は一度、頬を引き締めた。


「……いや、これは正当な評価だ」


 誰に言い訳をしているのか、自分でも分からない。だが、もう一度この一か月の成果を思い返すと、緩んだ口元はすぐに元へ戻った。


「ぐふふふふっ」


 想像以上だ。《超再生》がある以上、普通の子どもより早く成長できるとは考えていた。全盛期の知識と経験も、積み上げた技術の記憶も残っている。それでも、一か月でここまで身体を作り直せるとは思っていなかった。


 肉体だけではない。俺は両足を肩幅に開き、ゆっくりと息を吐いた。肉体、魔力、生命力、そして精神。そのすべてを胸の奥で一つに練り上げ、全身へ巡らせる。どくん、と心臓が強く脈打った。身体の奥から熱があふれ、肌の表面を淡い陽炎のような揺らぎが覆う。


 《闘気》。身体強化を極めた者でさえ、その先へ進むためには越えなければならない壁だ。今の俺が維持できるのは、わずかな時間。全身へまとえば筋肉や血管が傷つき、心臓にも大きな負担がかかる。戦いの最中に一度使えば、続けて二度目を使うことは難しい。ただし、全身へ解放せず、脚や拳といった一部だけへ絞れば、短い技を数回試す程度の余力は残せる。


 だが、その数秒だけなら、今の俺はAランク上位に届く力を引き出せる。一か月前には、闘気を生み出すことさえできなかった。それが今は、全身へまとうところまで来ている。


「素晴らしい」


 自画自賛だが、他に聞いている者はいない。今日くらいは許されるだろう。闘気を止め、全身の熱が引くのを待つ。これで終わりではない。


 訓練場の地面には、三歩ほど離れた場所に二本の線を引いてある。俺は手前の線へつめ先を合わせ、腰を落とした。視線を向けるのは、もう一方の線。両脚へ魔力を流し、踏み出す瞬間だけ闘気を重ねる。


「《縮地シュクチ》」


 地面を蹴った。一瞬、景色が後方へ流れる。次に足裏が地面へ触れた時には、俺の身体は二本目の線を越えていた。だが、止まり切れない。前へ一歩、二歩とたたらを踏み、どうにか体勢を整える。


「……最後が少し格好悪いな」


 全盛期なら、距離も方向も自在だった。敵の視界から消え、その背後へ回り込み、攻撃を終えた後でさえ足音一つ立てずに止まれた。今は、せいぜい数歩分の距離を一気に詰めるだけ。連続して使えば、脚が耐えられない。


 それでも、《縮地》は使えた。低い完成度であろうと、初めの一歩を取り戻したことに変わりはない。


 俺は訓練場の隅に置かれた、腰ほどの高さがある岩へ向き直った。右拳を握り、わずかな闘気を拳の一点へ集中させる。力任せに殴るのではない。触れた瞬間、衝撃を対象の内部へ通し、内側から破壊する。


 武王となってからも何度となく使った、基礎的でありながら最も応用の利く技の一つ。


「《破砕ハサイ》」


 拳が岩へ触れた。鈍い音が響き、拳を中心に亀裂が走る。一瞬遅れて、岩の内側から何かが弾けた。いくつもの破片となって崩れ落ちる岩を見ながら、俺は小さく息を吐いた。


 《破砕》は、一体の敵へ威力を集中させる単体破壊技だ。鎧やうろこの表面だけでなく、その奥にある肉や骨、魔力の核まで衝撃を通す。全盛期には、全力の《破砕》で山一つを内側から崩すことができただろう。それと比べれば、今の威力など小石を割った程度に等しい。


「だが、一か月だぞ」


 再び、口元が持ち上がりそうになる。俺は笑いをこらえながら、今度は右手を開いた。手刀の形にそろえた指先へ、薄く闘気を伸ばしていく。淡い光が、手のひらの側面から刃のように形を変えた。


「《崩刃ホウジン》」


 形成できた刃は、前腕よりわずかに短い。俺は隣に置かれた木製の訓練人形へ踏み込み、右腕を斜めに振り抜いた。細い光の線が走る。訓練人形の胴へ深い斬り傷が刻まれ、遅れて上半分が地面へ落ちた。俺は切断面を確かめる。


「短い。薄い。維持も甘い」


 欠点はいくらでもある。《体術》を授かった俺は、剣や、槍などの武器を持つと、動きに強いマイナスの補正がかかる。だが、《崩刃》は手刀から闘気を刃の形に伸ばす体術だ。実物の武器ではないため、《体術》の力を損なうことなく、剣のように扱える。鍛えれば、間合いも威力も自在に変えられる。


 近くの敵を斬るだけではない。刃を伸ばせば遠距離の敵へ届き、巨大化させれば一振りで広範囲をなぎ払うこともできる。全盛期には両手へ《崩刃》を形成し、長さを自在に変えながら、二刀で魔族の大軍を斬り伏せた。あのころと比べれば、今の刃は子どもの玩具だ。


 それでも、使える。《縮地》も。《破砕》も。《崩刃》も。武王だったころに最も多用した技を、わずか一か月で取り戻し始めている。


「ぐふっ……ぐふふふふっ……!」


 もう我慢する必要はなかった。俺は両手を腰へ当て、しばらく一人で笑った。もし誰かに見られていたら、急激な訓練で頭までおかしくなったと思われただろう。自分専用の訓練場を借りて、本当によかった。


 もっとも、成果が予想以上だった理由は、俺一人にあるわけではない。これほど鍛えられたのは、毎日大量の食事を用意し、水分を運び、休息の時間まで管理してくれた者がいるからだ。


 俺が予定より早く訓練へ戻ろうとすれば、笑顔で座らせる。食事が足りなければ、言われる前に台所へ走る。夜になれば湯を用意し、傷が残っていないか確かめ、朝になれば俺より早く起きて軽食を準備する。


 女神ルミエラは、俺にもう一度戦う時間を与えてくれた。そして、この一か月、その時間を一日も無駄にせず鍛えられたのは――。


「女神ニーナ様……」


 思わず両手を合わせそうになった。危ない。本人に聞かれれば、まず間違いなく気味悪がられる。俺は何事もなかったように手を下ろした。


 その名前を口にしたことで、浮かれていた気持ちが少しずつ静まっていく。ニーナが誘拐されるまで、あと一か月ほど。


 以前の歴史で、ニーナは鑑定の儀式からおよそ二か月後、突然屋敷から姿を消した。初めは失踪したと思われていたが、捜索へ出た騎士たちがいくつかの跡を見つけ、盗賊にさらわれたと判断した。屋敷中が騒ぎになり、父上は騎士や兵士を動かして周辺を捜索した。それでも、ニーナは見つからなかった。


 俺が知っているのは、盗賊に誘拐されたらしいということだけだ。どこでさらわれたのか。誰に狙われたのか。その日、ニーナが何をしていたのか。正確な日付も、場所も、盗賊の人数も、連れ去られた先も、何一つ知らない。


 当時の俺は、ニーナに興味などなかった。ニーナを見つけられなかったと聞いた俺は、悲しむことも、行方を尋ねることもせず、「ならば代わりのメイドを用意しろ」と言った。専属メイドが一人いなくなり、自分の世話が不便になった。その程度にしか考えていなかった。


「……最低だな、俺は」


 今のニーナは、毎日俺のために走り回っている。俺が水を飲む時も、食事を取る時も、休む時も、その傍にはいつもニーナがいた。それなのに以前の俺は、彼女がどこで、どのように失われたのか知ろうともしなかった。


 過ぎたことを悔やんでも、あの時の俺が消えるわけではない。だからこそ、今回は必ず守る。ただ、屋敷の中にいるだけでは、手掛かりは見つからない。まずは、ニーナが普段どこへ行き、誰と会っているのかを確かめる必要があった。

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