第26話 父が見た、二週間の成長
ガレス・アークハルト男爵視点
鑑定の儀式から、二週間が過ぎた。夜明けを告げる鐘が鳴って間もない訓練場に、騎士たちの掛け声が響いている。私は執務室へ向かう途中で足を止め、訓練場の端からその様子を眺めていた。
「四十九!」
訓練場の外周を、小さな影が駆け抜ける。黒い髪を風になびかせ、騎士たちの間を縫うように走るアレスの足取りに、乱れはない。五十周目に入っているというのに、速度もほとんど落ちていなかった。
「五十!」
最後の線を越えたアレスは、そのまま半周ほど走り続けた。少しずつ速度を落とし、最後は歩きながら呼吸を整えていく。全身に汗は浮かんでいる。呼吸も普段よりは速い。だが、肩で息をすることも、膝へ手をつくこともなかった。
初日とは、何もかもが違う。二週間前のアレスは、五周を走り終えるころには足をもつれさせ、自分の身体を支えることさえ難しくなっていた。今はその十倍を、初日とは比較にならない速さで走り切り、なお余力を残している。成長している、という言葉だけでは足りない。まるで日を追うごとに、別の身体へ作り替えられているようだった。
「アレス様。お水と軽食をお持ちしました」
歩き終えたところへ、ニーナが水筒と小さな籠を持って駆け寄る。
「ありがとう」
アレスは水を数回に分けて飲み、籠に入っていた鶏肉と卵を挟んだパンを食べ始めた。訓練を始めたばかりのころ、周囲はアレスを止めるべき時が分からなかった。呼吸が乱れ、足取りが重くなれば、ダリオやニーナはすぐに休ませようとした。
だが、アレスはまだ必要な負担へ達していないと言って続ける。反対に、傍目にはまだ動けそうな時でも、自ら訓練を止め、食事を取り、決めた時間きっちりと身体を休めた。
初めは、誰もが戸惑っていた。だが、今では分かり始めている。アレスは、食事と休息の大切さを誰よりもよく知っている。ただ、その必要となるタイミングが、私たちの常識とは大きく異なっているのだ。
ニーナはアレスが水を求める少し前に水筒を用意し、ダリオもアレス自身が区切りを告げるまでは、以前のように早々と止めなくなった。アレスもまた、決めた休息を勝手に切り上げることはない。
この二週間で変わったのは、アレスだけではなかった。周囲の者たちも、少しずつアレスの鍛え方を理解し始めている。
短い休息を終えると、アレスは誰に促されるでもなく、訓練場の中央へ進んだ。武器は持たない。左足を半歩前へ出し、わずかに腰を落とす。両手を上げても拳を固く握り込まず、全身から余計な力を抜いた自然な構えを取る。
一週間前までのアレスは、自分の身体を試すように、一つずつの型を確かめながらゆっくりと動いていた。足を置く位置、腰を回す角度、拳を止める場所。それらを十二歳の身体へ覚え込ませるように、決して速度を求めようとはしなかった。しかし、型が身体へなじむにつれ、その動きは日に日に速さを増している。
踏み込む。拳を突き出し、引くより早く手のひらへ変える。身体を回して肘へつなぎ、重心を落とした次の瞬間には、鋭い蹴りが空を裂いた。前へ。後ろへ。右へ。左へ。打つ。受ける。流す。崩す。自ら地面へ倒れ、肩から背へ衝撃を逃がしたかと思えば、その反動で跳ねるように起き上がる。
つい先ほど見えた拳が消え、次の瞬間には別の角度から突き出されている。一つ一つの型は崩れていない。それでいて、もはやゆっくりと目で追える速さではなかった。
「まったくもって、信じられません」
いつの間にか隣へ来ていたルークが、小さな声で言った。
「お前でも、そう思うか」
「もちろんです。昨日より今日、今日の前半より後半と、動きが洗練されていくのですから」
少し離れた場所では、ダリオが腕を組んでアレスを見つめている。二人はアレスの師ではない。細剣と大剣を得意とする二人に、武器を持たないアレスの動きを教えることはできなかった。
安全を見守り、求められれば稽古相手を用意する。それだけで、アレスは自ら課題を見つけ、勝手に先へ進んでいく。
「《体術》が身体の動かし方を教えてくれているように感じる、とアレス様はおっしゃっていました」
「スキルを授かっただけで、あれほどの動きができるものなのか?」
「普通はできません。ですが、アレス様には《体術》の力を引き出す、素晴らしい才能がおありなのでしょう」
才能。二週間前、鑑定の儀式に立ち会った者の何人が、アレスへその言葉を向けただろう。武器を扱うスキルを得られなかった跡継ぎ。剣も槍も使えず、素手で戦うしかない外れの《体術》使い。
私も、表向きは何を授かってもアレスの価値は変わらないと告げながら、その将来を案じていた。今となっては、あの場でアレスを笑った者たちへ、この姿を見せてやりたいほどだ。
「アレス様」
ダリオが呼びかけると、アレスは動きを止めた。
「身体の具合はいかがですか?」
「問題ない。予定どおり、二人を相手に試したい」
「承知しました」
ダリオが視線を向けると、二人の騎士が前へ出た。どちらもアークハルト騎士団で数年の経験を積み、魔の森での実戦も経験している。二人の手には、それぞれ木剣が握られていた。対するアレスは、何も持たない。いつもどおり、素手のまま二人の前へ立つ。
「急所への攻撃は禁止。勝敗は、降参するか、明確に相手の動きを封じた時点で決めます」
ダリオが三人を見渡す。
「始め!」
二人の騎士は、合図と同時に左右へ分かれた。アレスは動かない。一人が右から斬り込み、もう一人がわずかに遅れて左から踏み込む。同時に逃げ道を塞ぐ、打ち合わせどおりの攻撃だった。いつものアレスなら、紙一重で鮮やかにかわす。だが、今日は構えたまま動こうとしない。
「アレス!」
思わず声が出た。二本の木剣が、左右から小さな身体へ迫る。当たる。そう思った瞬間、アレスの両手が動いた。乾いた音が一つに重なる。
アレスは左右から振るわれた木剣を、それぞれ片手でつかみ取っていた。二人の騎士が目を見開く。木剣を引き戻そうと腕へ力を込めるが、アレスの手はわずかにも動かない。アレスが、にやりと笑った。次の瞬間、訓練場を大きなどよめきが包んだ。
「止めたぞ!」
「二人の剣を、素手で……!」
周囲で見ていた騎士たちが、驚嘆の声を上げる。木剣とはいえ、振るったのは鍛え上げられた騎士だ。その一撃を、十二歳の子どもが左右同時に受け止めた。技だけで、できることではない。
「あれは……」
「間違いありません。身体強化です」
ダリオが、私の言葉を引き継いだ。
「ルーク。お前が教えたのか?」
「いいえ。私も団長も、身体強化については何一つ教えておりません」
ルークの顔から、いつものおだやかな笑みが消えていた。
「それどころか、あれほど均等に全身へ魔力を巡らせることは、教えられたからといって二週間で身につくものではありません」
「また、勝手に先へ進んだということか」
「そのようです」
私たちが話している間にも、訓練試合は続いていた。アレスはつかんだ二本の木剣を外側へ押し開くと、すぐに手を離した。体勢を崩された二人が、それでも剣を引き戻してアレスを追う。
一人目の横なぎを、アレスは上体をわずかに反らしただけでかわした。その背後から、二人目の突きが迫る。振り返ることなく半歩ずれ、切っ先を頬の横へ通す。伸び切った騎士の手首へ手のひらを添え、進む方向をほんのわずかに変えた。
「なっ――」
逸らされた木剣が、一人目の胸元へ迫る。一人目は慌てて剣で受けた。木剣同士が激しくぶつかり、二人の動きが止まる。
その間に、アレスはすでに二人の間へ潜り込んでいた。わき腹へ手のひらを当てる。あごの下へ拳を止める。膝裏へ足先を触れさせる。
その気になれば倒せる機会が何度あったのか、私にさえ数え切れない。それでもアレスはすぐに決着をつけず、身につけたばかりの身体強化と、二人を同時に操る動きを確かめていた。
二人の騎士も、それが分かったのだろう。悔しさを押し殺すように歯を食いしばり、左右から激しく木剣を振るう。だが、当たらない。アレスが一歩動くたび、二人の剣は互いの進路を塞いだ。追い詰めたと思えば背後へ抜けられ、距離を取れば一瞬で懐へ入られる。
二人が最後の勝負を仕掛けるように、同時に踏み込んだ。アレスは一人目の剣を手のひらで流し、その腕をつかんで身体を入れ替えた。行き場を失った騎士が前へつんのめる。そこへ二人目が迫るが、アレスは一人目の足を払い、倒れ込む身体を二人目へ預けた。
「うおっ!」
二人の身体が重なり、地面へ崩れる。アレスは上になった騎士の剣を蹴り離し、腕を背中側へ回した。下になった騎士は仲間の身体に押さえ込まれ、起き上がることができない。
「そこまで!」
始まってから、わずか十数秒だった。訓練場が静まり返る。敗れた二人は、何が起きたのか分からない顔をしていた。アレスはすぐに縛りを解き、地面へ倒れた二人へ手を差し出した。
「今日は色々試せた。感謝する」
「い、いえ……こちらこそ、ありがとうございました」
二人はまだあ然としながらも、アレスの手を取って立ち上がった。
私は、我が子の成長速度に驚いていた。この領内で、私とダリオは並んで最強と呼ばれている。剣を交えれば、今のアレスに後れを取るつもりはない。だが、近い将来はどうだろう。
一年後。二年後。あるいは、それよりも早く。アレスは間違いなく、私たちを追い越していく。
父親として、これほどうれしいことはない。鑑定の儀式で外れだと笑われた息子が、誰にも真似のできない道を自ら切り開こうとしている。同時に、一人の戦う者として思う。まだ、負けるわけにはいかない。
私は誰にも気づかれないよう、小さく拳を握った。早朝の訓練を一刻増やそう。少なくとも、父親らしい背中を見せられる間は、追いつかせるつもりはなかった。




