第25話 聖女に選ばれた日3
聖女リシア・フォン・アルトリア視点
「女神ルミエラよ。どうか、この者の傷を癒やす力をお貸しください」
用意された騎士の腕には、訓練中についた浅い傷があった。両手をかざし、教えられたとおりに祈る。胸の奥へ意識を集中させると、わずかな温かさは感じた。けれど、傷は何も変わらない。もう一度祈った。それでも、光は現れなかった。
「力を込めすぎてはなりません」
「もう一度お願いします」
「今日はここまでにしましょう」
「まだできます」
何度繰り返しても、治癒魔法の光は現れなかった。聖女なのに。助けを求めている人が大勢いるのに、目の前の小さな傷一つ治せない。気づけば、床が大きく揺れていた。
「殿下!」
倒れる直前に、老神官が身体を支えてくれた。魔力を感じ取ろうとしすぎて、身体だけでなく心まで疲れ切ってしまったらしい。
その日の夜、母はベッドへ横になった娘を見て、大きなため息をついた。
「初日から倒れるまで続ける者がありますか」
「早く使えるようになりたかったのです」
「なぜですか?」
「待っている方々がいるからです」
「あなたが一日早く倒れれば、救えるようになる日は何日も遅れます」
何も言い返せなかった。
「焦る気持ちは分かります。けれど、今必要なのは、自分の未熟さを責めることではありません」
「聖女なのに、何もできませんでした」
「聖女と表示された瞬間に何でもできるのなら、教育も訓練も必要ありません。できないことを恥じるのではなく、昨日より一つ、できることを増やしなさい」
「……はい」
「それと、明日から魔法の訓練時間は半分にします」
思わず身体を起こした。
「それでは覚えるのが遅くなります」
「残りの半分は、短剣術と杖術です」
「短剣も教えてくださるのですか?」
「先ほどまで倒れていた者とは思えませんね」
「もう元気です」
「そういうことにしておきましょう」
母はあきれたように言いながらも、わずかに笑っていた。
翌日から、治癒魔法と神聖魔法だけでなく、短剣術と杖術の訓練も始まった。短剣術を教えてくれるのは、第二王妃に直接仕える女性騎士だ。
「王女殿下や聖女様を狙う者が、正面から名乗って襲ってくるとは限りません」
「毒や精神誘導への耐性があります」
「耐性があっても、完全に防げるわけではありません。受ける害を弱くし、耐えやすくするだけです。決して頼り切らないように」
鑑定板に耐性が表示されたからといって、剣で斬られても傷つかないわけではない。毒を飲んでも平気になるわけでも、精神を操る魔法が絶対に効かなくなるわけでもない。力の意味を正しく知ることも、聖女として必要な教育の一つだった。短剣を握ると、持ち方や足の位置が自然と理解できた。身体が勝手に動くわけではない。
けれど、教えられた動きを、以前よりずっと早く覚えられる。杖術も同じだった。身長より長い訓練用の杖には苦労したが、数日もすると、杖の両端を使って攻撃を受け流せるようになった。訓練着に身を包み、額に汗を浮かべていても、その不思議な美しさが損なわれることはなかった。むしろ懸命に短剣を振るう姿には、飾られた人形とは異なる、生き生きとした輝きがあった。
「聖女が、これほど武術の訓練をする必要があるのでしょうか」
大神殿の神官から疑問の声も上がった。それに答えたのは母だった。
「自分の身を守れない者が、最後まで誰かを守れると思いますか?」
その一言で、反対する者はいなくなった。
鑑定の儀式から四日目。治癒魔法の訓練中、大神殿の見習い神官が薬箱を運んできた。リシアよりも幼い少年だった。慣れない大きな箱を抱えていたため、足を滑らせて転んでしまう。箱から飛び出した薬瓶が割れ、その破片が少年の腕をかすめた。
「あっ……」
細い腕から血が流れている。
「動かないでください!」
考えるより早く駆け寄った。老神官が傷を確認する。
「浅い傷です。破片も残っておりません」
「治療を任せてください」
「殿下。焦っては――」
「無理はしません。お願いします」
老神官は真剣な眼差しを受け止めた後、静かにうなずいた。少年の腕へ両手をかざす。治さなければ。聖女なのだから、この程度の傷は治せなければならない。
そう考えた途端、胸の奥にあった温かさが消えた。初日の失敗が頭をよぎる。呼吸が浅くなり、指先が震えた。
「殿下。《祈祷》は、女神へ無理に願いを聞かせる力ではありません」
老神官のおだやかな声が聞こえる。
「心を静め、自分の力を正しく届けるためのものです。救えるかどうかではなく、まずは目の前の者へ寄り添いなさい」
少年の顔を見た。痛いはずなのに、泣くのを我慢している。
「痛いですか?」
「す、少しだけです。聖女様に治していただくことになり、申し訳ございません」
「謝らなくてよいのです」
「でも、僕が転んだから……」
「昨日、杖を自分の足へぶつけました」
「聖女様も失敗するのですか?」
「失敗します。治癒魔法の訓練では、倒れてしまいました」
少年が目を丸くした。聖女は失敗しないと思っていたのかもしれない。
「ですから、一緒に頑張りましょう」
「はい」
もう一度、傷へ手をかざした。今度は、治さなければとは考えなかった。ただ、痛みが少しでも和らいでほしいと願った。胸の奥に、小さな温かさが生まれる。その温かさを両手へ運ぶように、ゆっくりと呼吸を整えた。
「女神ルミエラよ。どうか、この者の痛みを和らげる力をお貸しください」
手のひらから、淡い白色の光がこぼれた。ほんの一瞬だった。傷は塞がらなかったが、流れていた血が止まる。
「できた……?」
「はい。治癒魔法の光が初めて現れました」
老神官が笑みを浮かべた。
「まだ傷を完全に治すほどではありません。しかし、間違いなく最初の一歩です」
少年の傷は、その後、老神官が治してくれた。すべてを自分の力で治せなかったことは悔しかった。けれど、初日のように自分を責めることはしなかった。昨日は何もできなかった。今日は、血を止めることができた。ならば明日は、もっと先へ進めるかもしれない。
その日の夕方、母から一通の手紙を見せてもらった。ローズ伯母から届いたもので、勇者となったセレスティアの様子が書かれている。護衛が二人に増えたこと。国境へ行きたいと、レオナルド伯父へ願い出たこと。そして、護衛から逃げるために二階の窓から木へ飛び移ったこと。
「セレスは何をしているのですか……」
思わず額へ手を当てた。
「勇者に必要な忍び込みの訓練だと言っていたそうですよ」
「そんなわけがありません」
「ローズも同じことを言ったようです」
「勇者になっても、まったく変わりませんね」
「安心しましたか?」
母に問われ、素直にうなずいた。勇者になっても、セレスはセレスのままだ。ならば、聖女になったからといって、急に別人になる必要はない。その夜、セレスティアへ手紙を書いた。勇者になっても無茶をせず、窓から外へ出ては駄目だとたしなめ、自分の不安も正直に記した。
『期待されることが、少し怖いです。けれど、セレスも一緒だと思うと心強いです。次に会う時までに、聖女として恥ずかしくないよう、治癒魔法を使えるようになっておきます』
書き終えた手紙を、何度も読み返した。本当は、治癒魔法の光を少しだけ出せたことを書きたかった。けれど、傷を完全に治せるようになるまでは秘密にしておく。次に会った時、セレスを驚かせたい。セレスが剣術で強くなるのなら、負けてはいられない。
勇者と聖女。それがどれほど重い役目なのか、今はまだ分からない。王国の外には帝国があり、魔物に襲われる村があり、今この瞬間も病や怪我に苦しんでいる人々がいる。
一人の力では、すべての人を救えないかもしれない。けれど、救えない人がいるからといって、目の前の一人へ手を伸ばすことまで諦めたくはなかった。
翌朝。大神殿の訓練室で、再び傷ついた騎士の腕へ手をかざした。呼吸を整え、《祈祷》によって心を静める。手のひらからこぼれた白い光が、今度は消えずに傷を包み込んだ。ゆっくりと、開いていた傷口が塞がっていく。
「できました……」
「お見事です、聖女様」
老神官が頭を下げる。その呼び方に、昨日までとは少し違う気持ちを抱いた。聖女だから治せたのではない。失敗して、学んで、もう一度手を伸ばしたから、昨日より少しだけ先へ進めたのだ。
「次の訓練をお願いします」
「まだ続けられるのですか?」
「はい。今日は倒れないところでやめます」
「それは何よりです」
老神官が小さく笑った。
鑑定の儀式から七日。まだ、傷一つを治すだけで多くの魔力を使う。水属性も土属性も、神聖魔法も結界も、満足には扱えない。《神託》については、自分から使うものではないため、いつ女神の声が届くのかさえ分からなかった。それでも、昨日はできなかったことが、今日はできるようになった。
今日できなかったことも、明日にはできるようになるかもしれない。セレスも今ごろ、剣を振っている。そう思えば、苦しい訓練にも耐えられた。
この時のリシアは、まだ知らなかった。
勇者と聖女が歩き始めたのと同じころ。遠い領土のはずれで、失われた未来のすべてを背負い、たった一人でもがき始めた少年がいることを。
そして、いつか誰もが聖女へ奇跡を求め、王女という身分とその美しさばかりを見る時が来る。その中で、その少年だけが――聖女ではない、リシアという一人の少女へ手を差し伸べてくれることを。




