第22話 勇者に選ばれた日3
勇者セレスティア・グランベル視点
光属性。勇者である私なら、傷を治せるかもしれない。けれど、何をすればよいのか分からなかった。魔力をどう動かすのかも、どのような言葉で魔法を発動させるのかも、まだ教わっていない。手のひらには、何の光も生まれなかった。
「勇者様。お気持ちだけで十分です。今は、私たちにお任せください」
治療師の言葉は優しかった。私は唇をかみそうになり、すぐにやめた。ここで私が立ち塞がっていては、治療の邪魔になるだけだ。
「分かりました。お願いします」
道を空けると、担架は急いで治療院へ運ばれていった。
剣術もある。光属性もある。勇者という、誰もが期待する職業まで与えられた。それなのに、目の前で苦しんでいる人一人、助けることができなかった。
「セレスティア」
振り返ると、お父様が立っていた。普段の柔らかな表情は消えている。
「状況を報告してくれ」
「はっ。夜明け前、東の森で十二名ほどの帝国兵と出会いました。待ち伏せを受けましたが、オーウェン小隊長の命令で敵の囲みを破り、全員帰っております」
「敵の追撃は?」
「ありません」
「第三砦へ伝令を出せ。敵の目的が斥候狩りだけとは限らない。巡回は単独小隊で行わせず、森へ入る者をすべて確認しろ。こちらから国境を越えて追うことは禁止する」
「承知しました!」
「負傷者の家族にもすぐ知らせを。必要な薬は領内から集め、足りなければ私の名で近隣領から買い付けてくれ」
「はっ!」
お父様の指示を受け、騎士たちが一斉に動き出す。私と話している時の、好奇心旺盛で少し子どもっぽいお父様ではない。国境と、そこに暮らす人々の命を預かる、グランベル辺境伯の顔だった。
お父様は負傷者全員の状態を確かめ、治療師の話を聞き終えると、執務室へ戻っていった。私はしばらくその背中を見つめた後、急いで追いかけた。
◇
「お父様。私も国境の砦へ行きます」
「それは許可できないね」
「どうしてですか。私は勇者です」
「勇者である前に、まだ十二歳の子どもだからだよ」
「でも、以前より強くなっています!」
「帝国兵は、訓練用の木剣ではなく真剣を使う」
「分かっています」
「いいや、まだ分かっていない」
お父様の声はおだやかなままだった。けれど、その目には辺境伯としての厳しさがあった。
「今のセレスティアが戦場へ出れば、兵士たちは君を守ろうとするだろう。その結果、本来なら死なずに済んだ者まで命を落とすことになる」
「でも……」
「君が優しいことも、けがをした兵士を見て何かしたいと思ったことも、私はうれしく思っているよ。だからこそ、今は焦ってはいけない」
お父様は机の上で両手を組み、真っ直ぐに私を見た。
「今の君にできることは、学び、鍛え、いつか誰にも守られる必要がないほど強くなることだ」
何も言い返せなかった。正しいと分かっていても、すぐには納得できなかった。私は返事もせず、執務室を出てしまった。
その日の夕食では、お父様と一度も目を合わせなかった。話しかけられても短く返事をして、食事が終わるとすぐに部屋へ戻った。我ながら、ひどく子どもっぽかったと思う。
けれど翌朝になると、怒りよりも恥ずかしさの方が大きくなっていた。私は朝食の前に執務室へ行き、お父様へ頭を下げた。
「昨日は、ごめんなさい」
「何について謝っているのかな?」
「お父様の話を最後まで聞かず、返事もしないで出ていったことです」
「国境へ行きたいという考えは変わった?」
「今すぐ行くとは言いません。でも、いつか必ず行きます」
「そうか」
お父様はうれしそうに口元を緩めた。
「なら、その日に備えて鍛えるといい」
「はい」
「ただし、窓から逃げ出すことは訓練に含まれないよ」
「ミレイユから聞いたのですか?」
「もちろん」
「……そのことも、ごめんなさい」
素直に謝ると、お父様は楽しそうに笑った。
その日の剣術訓練では、初めてセドリックから一本を取ることができた。セドリックは、剣術の指導役ローガンが私の訓練相手に選んだ若い騎士だ。それまでは十回戦っても一度も勝てなかった相手だ。けれど、その翌日には五回に一度、そして七日目の今日は、初めて続けて二度勝った。
強くなっている。昨日までできなかったことが、今日はできるようになっている。それは純粋にうれしかった。その一方で、訓練を終えるたび、血に染まったオーウェンたちの姿を思い出した。
重傷だった三人は、全員が命を取り留めていた。治療師の許可をもらって見舞いに行くと、私は動かせない腕の代わりに家族への手紙を書いたり、必要な物を聞いて回ったりした。
「では最初に、『けがはほんのかすり傷だから、心配はいらない』と」
「うそは書けないわ」
「そこを何とか、勇者様のお力で」
「勇者の力は、家族へうそをつくためにあるんじゃないもの」
「では、『少し深いかすり傷』でお願いします」
「それも駄目」
ベッドの周りから笑い声が上がった。
剣を持って一緒に戦うことも、傷を治すことも、今の私にはできない。けれど、話を聞くことはできる。手紙を書くことも、不安そうな家族へ無事を知らせることもできる。何もできないわけではなかった。
けれど、強くなればなるほど、周囲の人たちが私へ期待していることも感じるようになった。
六日目の夜、リシアから手紙が届いた。王家の伝書魔鳥を使い、私のために急いで送ってくれたらしい。封を開けると、見慣れた美しい文字が並んでいた。
『親愛なるセレスへ。
勇者に選ばれたと聞きました。おめでとうと言ってよいのか、少し迷っています。
わたくしは聖女になりましたが、残念ながら一日で背が伸びたり、大人になったりはしませんでした。朝のお祈りが長くなり、お勉強が増えただけです。
セレスも勇者になったからといって、急に無茶をしてはいけません。
特に、窓から外へ出ては駄目です』
そこまで読んで、私は手紙を裏返した。
「どうしてリシアまで知っているの……」
後ろに立っていたミレイユが、何も聞こえなかったような顔をしている。たぶん、ミレイユがお母様へ伝え、お母様がアリアーヌ王妃への手紙に書いたのだ。あとで抗議しようと思いながら、続きを読んだ。
『皆は、わたくしを聖女様と呼ぶようになりました。
けれど、わたくしは急に別人になったわけではありません。できないことも、怖いことも、昨日までと同じようにたくさんあります。
期待されることが、少し怖いです。
救いを求めてくださる方すべてを、救えなかったらどうしようと考えてしまいます。
けれど、セレスも一緒だと思うと心強いです。
次に会う時、わたくしは聖女として恥ずかしくないよう、治癒魔法を使えるようになっておきます。
セレスも勇者だからと剣を振り回してばかりいないで、お勉強もしてください。
また会える日を楽しみにしています。
あなたの従姉妹、リシアより』
読み終えた時、胸の中にあった重いものが少しだけ軽くなっていた。リシアも怖いのだ。周囲の期待に戸惑い、それでも聖女になろうとしている。私だけではなかった。
すぐに机へ向かい、返事を書いた。
『親愛なるリシアへ。
手紙をありがとう。
私も勇者になりました。でも、お菓子は増えませんでした。
護衛だけは四人に増えたの。とても邪魔です。
私はまだ、国境へ行くことを許してもらえていません。でも、いつか必ず強くなって、この領地のみんなを守るわ。
リシアが救えない人は、私が守る。私がけがをした時は、リシアが治してね。
二人なら、きっとたくさんの人を助けられると思います。
それから、私は剣の訓練だけでなく、勉強もきちんとしています。たぶん、リシアより少しだけ少ないくらいだけど。
次に会った時は、どちらが立派になったか勝負しましょう。
勇者と聖女になっても、私たちはずっと従姉妹で、親友よ。
また会える日を楽しみにしています。
セレスティアより』
◇
七日目の午後。私は城の裏にある芝生で、お父様と魔法の訓練をしていた。
「昨日は火を試したから、今日は風にしよう」
「昨日は火ではなく、煙しか出ませんでした」
「煙が出たということは、何かが燃えたということだ。大きな進歩だよ」
「焦げたのは、お父様の机です」
「だから今日は外へ来たんだ」
お父様はまったく悪びれず、楽しそうに笑った。勇者をどう育てるべきか、きっと真剣に考えてくれている。けれど、四つもある私の属性を一つずつ試す時だけは、領主というより、新しい魔法を見つけた子どものように目を輝かせていた。
「風は目に見えない。だから、まずは動かしたいものを決めるといい」
お父様が右手を上げる。手のひらに生まれた青白い光が七つに分かれ、私たちの頭上へ浮かび上がった。光は互いにぶつかることなく宙を駆け、鳥やチョウ、剣や盾へと次々に形を変えていく。思わず見とれていると、お父様が得意げに尋ねた。
「どうだい?」
「とてもきれいです。でも、風の見本ではありません」
「そうだったね」
「今、見せたかっただけですよね?」
「少しだけ」
私はあきれながらも笑ってしまった。こうしていると、兵士たちへ鋭く指示を出していた人と同じとは思えない。けれど、どちらも私の知っているお父様だ。
私は芝生の上に置いた一枚の木の葉へ両手を向けた。風が、その下へ潜り込むところを思い浮かべる。持ち上げ、空へ運ぶところまで、できるだけはっきりと想像した。木の葉の先が、わずかに震えた。
「動きました!」
「そうだね」
「もう一度やってみてくれるかい? 次は魔力を少しだけ右へ――いや、待って。風の流れを先に確かめた方がいいな」
「お父様の方が夢中になっています」
「初めて魔法が生まれる瞬間なんだ。面白くないはずがないだろう?」
その言葉を聞くと、私も胸が弾んだ。剣と同じだ。今は木の葉一枚でも、学び、繰り返せば、やがてもっと大きなものを動かせるようになる。
「もう一度やります」
「その前に休憩だ。この後は帝国の歴史と、戦いの作戦の授業もあるからね」
「分かっています」
「嫌ではないのかい?」
「少しは嫌です。でも、剣と魔法だけでは皆を守れませんから」
お父様は少し驚いたように目を瞬かせ、それからうれしそうに笑った。
「昨日の話を、きちんと考えてくれたんだね」
「私は勇者である前に、頭の良い十二歳の子どもですから」
「自分で言ってしまうところは、まだ十二歳らしいかな」
「お父様に似たのだと思います」
「それなら仕方がないね」
二人で笑った後、私はもう一度、木の葉へ手を向けた。
勇者に選ばれて、一週間。護衛が増えた。勉強と訓練も増えた。見知らぬ人から期待され、会ったこともない敵から命を狙われるかもしれなくなった。正直に言えば、まだ怖い。
けれど、怖いからこそ、できることを一つずつ増やしていけばいい。今日より明日、明日よりその次の日へ。いつか本当に、大切な人たちを守れるように。
この時の私は、まだ知らなかった。世界の片隅に、私と同じ年でありながら、はるか先を歩いている少年がいることを。
その少年が、私にとって生まれて初めてとなる「同じ年の相手への敗北」を教えることを。悔しくて、絶対に負けたくないと思った相手へ、いつしかまったく別の感情を抱くようになることを――。




