第190話 別れの朝
聖女リシア・フォン・アルトリア視点
別れの朝は、あまりにもよく晴れていた。薄い雲さえ見当たらない青空から、まぶしい朝の光が王宮の前庭へ降り注いでいる。
セレスが王都を訪れた日も、このような空だった。あの日は、セレスと再会できることがうれしくて、何度も窓の外を確かめた。その翌日には、まだ会ったこともなかったアレス様の到着を、セレスと二人で待ち続けた。
けれど今日、前庭へ並んでいる二つの一行は、二人を連れてきてくれたものではない。大切な二人を、わたくしのもとから遠ざけてしまうためのものだった。
「殿下。朝はまだ冷えます。こちらを」
背後に控える侍女が、薄手のマントを差し出してくれた。
「ありがとうございます。ですが、大丈夫です」
「出発までは、まだ少しお時間がございます」
「分かっています」
そう答えながら、また正門の方へ目を向ける。見送りのために前庭へ出てから、同じやり取りをするのは、これで三度目だった。
石畳の上では、旅の服の騎士や従者たちが、馬の蹄鉄や車輪、食料と水、街道で使う予備の道具を最後まで確認している。アークハルト家とグランベル辺境伯家の旗を掲げた馬車は、どれもすでに出発できる状態に見えた。
もう少し、ゆっくり確認してくださってもよいのに。
そのようなことを考えてしまい、わたくしは小さく息を吐いた。二人を引き留めたいからと、旅の準備が遅れることを願うなど、王女として褒められた考えではない。それでも、寂しいものは寂しかった。
セレスとは、昨夜も同じ寝台で眠った。眠る直前まで、話したいことは尽きなかった。アレス様との模擬戦。《勇聖奉告式》。灰鐘堂で助けた六人のこと。そして、来年の一か月。これからしばらくは、手紙でしか話せなくなる。隣へ手を伸ばしても、そこに青い髪の少女はいない。
アレス様とは、出会ってからまだ四日もたっていない。それなのに、拳を振るう姿も、人質を救うために迷わず動いた姿も、鮮やかに思い出せる。
とても強く、頼もしい方だ。けれど、ご自分へ向けられる気持ちには驚くほど鈍い。昨夜も、一か月ご一緒できることを喜ぶわたくしたちを、訓練が楽しみなのだと受け取っておられたようだった。
思い返すと、頬が緩む。そのお顔を明日からは見られないのだと思うと、胸の奥が寂しくなった。
「リシア」
聞き慣れた声に振り向くと、青い髪を朝日に輝かせながら、セレスがこちらへ歩いてきた。王都へ到着した日にまとっていた華やかな礼装ではない。動きやすい旅の服の上から軽い胸当てを身につけ、腰には愛用の剣を下げている。美しい令嬢というより、これから国境を守るために帰る勇者の姿だった。
「お待ちしておりました、セレス」
「待たせた?」
「いいえ。わたくしが早く来すぎただけです」
「やっぱり」
セレスが楽しそうに笑う。
「昨夜、出発の半刻前で十分だと話したでしょう?」
「セレスこそ、それより早く来ています」
「私は、旅の支度があるから」
「ご自分でなさったのですか?」
「……最後に確認はしたよ」
「支度をしたのは侍女でしょう」
「細かいことはいいの」
いつもと変わらないやり取りだった。明日も、明後日も、同じように言葉を交わせるのではないかと思ってしまう。けれど、セレスの後ろには旅立ちを待つ馬車がある。
笑みを保とうとしたわたくしの手を、セレスがそっと握った。
「また手紙を書くから」
「はい。わたくしも書きます」
「今までより、もっとたくさん書く」
「剣を振るお時間がなくならない程度にしてください」
「それは困るなあ」
「でしたら、これまでどおりで構いません」
「冗談だよ。剣も振るし、手紙も書く」
セレスの手に、少しだけ力が入る。
「また会えるのを、楽しみにしているから」
「はい」
「それまでに、もっと強くなろう」
「もちろんです」
昨夜、お二人へお伝えした女神のお告げは、この場で口にすることができない。近くには騎士や世話役がいる。次に三人で過ごす場所も、その期間も、胸の内にとどめておく。
何が待っているのかは、まだ分からない。ただ、日付を聞いた瞬間のアレス様の表情が、忘れられなかった。肘掛けをつかむ指に力が入り、何かを恐れ、悔やんでいるように見えた。
何を思い出していらしたのだろう。尋ねたい気持ちはある。それでも、昨夜、言葉をのみ込まれたお顔を思えば、無理に聞き出すことはできなかった。
話せることは必ず伝えると、約束してくださった。今は、その言葉を信じたい。わたくしにできることがあれば、ためらわずに頼っていただけるようになりたい。
「おはようございます」
静かで、よく通る声が聞こえた。セレスと同時に振り向くと、旅の服に身を包んだアレス様が、ガレス男爵とともにこちらへ歩いてきていた。祝宴で身につけていた礼装ではなく、黒を基調とした動きやすい服の上からマントを羽織っている。腰に剣はない。旅立つ時であっても、アレス様は変わらず、その身一つで戦うのだ。わたくしたちに気づくと、わずかに歩みを速めた。
「リシア様。わざわざお見送りにお越しいただき、ありがとうございます」
「王都まで来てくださったお二人を、お見送りするのは当然です」
「リシアは、ずっと前から待っていたんだよ」
「セレス」
「お待たせしてしまいましたか?」
アレス様が、少し申し訳なさそうに眉を下げる。
「いいえ。出発まで、少しでも長くお話ししたかっただけです」
そう告げると、アレス様は馬車の方を一度確かめた。
「まだ時間はあります。私も、お二人とお話しできてうれしいです」
何気ないお返事なのだろう。それでも、胸が温かくなる。隣のセレスも、うれしそうに笑っていた。
「アレス君」
セレスが一歩前へ出た。
「次に戦う時は、もっと本気を出させるから」
「楽しみにしています」
「驚いても知らないよ」
「セレス様であれば、今よりずっと強くなられるでしょう。それでも、私も負けるつもりはありません」
「うん。だから、楽しみ」
セレスが右の拳を差し出す。アレス様は一瞬だけその手を見た後、ねらいを理解したのか、ご自分の拳を軽く重ねた。二人とも、うれしそうだった。その姿を見ていると、胸の奥がほんの少しだけ痛んだ。
セレスは、わたくしにとって誰よりも大切な親友だ。セレスが笑っていれば、わたくしもうれしい。傷つけば、代われるものなら代わりたいと思う。けれど、アレス様の隣で笑うセレスを見た時、胸の奥に生まれる気持ちは、それだけではなかった。
わたくしも、その場所に立ちたい。セレスに譲りたくない。
聖女らしくない願いなのかもしれない。けれど、女神様は、人を想う心まで捨てよとはおっしゃらなかった。ならば、この気持ちもわたくしの一部なのだろう。胸の奥で芽生えた願いから、もう目をそらしたくはなかった。
昨夜、三人で今より強くなると約束した。
次にお会いする時は、言葉だけではなく、わたくしの力でお二人を支えたい。
それが、次に会う日までに果たす、わたくし自身の約束だ。
そう胸に誓った、その時だった。
「リシア様」




