第19話 特等席から見える背中
ニーナ視点
アレス様が変わったことで、屋敷の中も少しずつ変わり始めている。最初に変わったのは調理場だった。
以前のアレス様は朝食を残すことが多く、気分に合わないというだけで手をつけない日さえあった。今では用意された料理を残さず食べ、それでも足りないほど身体が食べ物を求めている。
私はハンナさんと相談し、訓練の合間に渡す携帯食を毎日変えている。焼いた肉を挟んだパン、塩を振ったゆで卵、干した果物、蜂蜜を塗った硬焼きパン。朝、昼前、午後、時には夜の鍛錬前にも、小分けにしたものを届ける。空になった籠を調理場へ戻すたび、ハンナさんは満足そうに笑った。
「今日も全部食べたのかい。作りがいがあるじゃないか」
調理場も洗濯場も、以前より忙しくなった。それなのに、不満を言う者はいない。アレス様は料理の感想を伝え、汚れた訓練着を洗ってくれたメイドにも必ず礼を言うからだ。
以前はアレス様が廊下を歩くだけで、使用人たちは会話をやめ、道の端へ寄っていた。今は皆が自分から挨拶をする。まだ少し緊張している者もいるけれど、少なくとも、アレス様の姿を見て逃げる者はいなくなった。
家族との関係も変わった。
「兄さま!」
朝食のため食堂へ向かう途中、リリア様が駆け寄ってきた。小さな手には、庭で摘んだ花が握られている。
「これ、兄さまにあげる」
「俺にか?」
「うん」
アレス様はその場へ膝をつき、リリア様と目の高さを合わせた。
「ありがとう。部屋に飾らせてもらう」
頭をなでられたリリア様はうれしそうに笑った。一週間前まで、アレス様の姿を見ると奥様の後ろへ隠れていたとは思えない。食堂へ入ると、今度はカイル様がアレス様へ近づいた。
「兄上、今朝は二十周したのですか?」
「ああ」
「僕も一緒に走りたいです」
「駄目だ」
即座に断られ、カイル様の肩が落ちる。けれど、アレス様はすぐに言葉を続けた。
「俺と同じことをすれば、身体を壊す。カイルにはカイルに合った鍛錬がある。ダリオとルークに相談して、内容を考えてもらえ」
「では、二人がよいと言えば、一緒に走ってもよいのですか?」
「最初の何周かだけならな」
「分かりました!」
カイル様の顔が明るくなる。
「二十周を、随分と涼しい顔で走り終えたそうだな」
席に着いた旦那様が、アレス様を見る。
「はい」
「だからといって、明日すぐに距離を増やすな」
「承知しています。明日も同じ二十周を、今日より無駄なく走ります」
「本当に分かっているのならいい」
旦那様は厳しい顔を保っていたが、その声には隠しきれないうれしさがあった。奥様も穏やかに微笑み、リリア様とカイル様は競うようにアレス様へ話しかけている。
一週間前まで、食事の席には重い空気が漂っていた。今では笑い声さえ聞こえる。たった一人が変わっただけで、屋敷全体がこれほど変わるとは思わなかった。
そして何より変わったのは、私自身だった。以前はアレス様に呼ばれるたび、胸が縮むような恐怖を感じていた。
今は、次に何を頼まれるのだろうと自然に耳を傾けている。訓練で傷つけば心配になり、携帯食をすべて召し上がれば安心する。無茶をしそうになれば、止めなければと思う。
専属メイドだから心配している。初めは、そう考えていた。けれど、きっとそれだけではない。
◇
その日の夜。私はアレス様と向かい合い、旧演武場の床へ座っていた。
アレス様が両手を開く。十本の指先に、淡く白い魔力の球が一つずつ浮かび、指先から離れた十の球が、両手の間を円を描いて巡り始める。一つもぶつからず、形も大きさも崩れない。
「これで百呼吸だ」
アレス様が指を閉じると、十の球は一つに集まり、手のひらへ吸い込まれるように消えた。一週間前は、十の球をわずか八呼吸しか保てなかった。それが今では、動かしながら百呼吸も維持している。
「一週間で、ここまでできるものなのですか?」
「普通は無理だろうな」
「ご自分で普通ではないと分かっているのですね」
「やり方を知っているだけだ。身体と魔力が、まだ追いついていない」
アレス様は当然のように答えた。けれど、やり方を知っているだけで、五周しか走れなかった者が二十周を涼しい顔で走れるようにはならない。鍛錬を始めてわずか一週間で、大人の騎士へ圧勝できるはずもない。
この方は、私たちとはまったく違う場所を見ている。はるか遠くにある何かへ向かって、一日も無駄にせず進もうとしている。そんな気がした。
「次はニーナだ。《種火》を使う直前で止め、指先へ集まる魔力を感じろ」
「はい」
目を閉じ、胸の前で両手を重ねる。最初の夜、私は魔力を何も感じられなかった。けれどアレス様は、できないことを笑わなかった。《種火》を使う瞬間、胸の奥から指先へ何かが流れているはずだと、根気よく教えてくれた。二日目には微かな温かさを感じ、三日目には細い筋となって指先へ向かう感覚が分かった。
四日目の夜、一度だけ火が大きくなりすぎて、服の袖を焦がしてしまった。私はすぐに謝ろうとしたけれど、アレス様はぬらした布で火を消すと、真っ先に私の手を取った。
――謝るのは後でいい。火傷をしていないか見せろ。
以前のアレス様なら、焦げた服を見て怒ったはずだ。けれど、その時のアレス様が見ていたのは、私の手だけだった。あの瞬間からだと思う。アレス様の変化を、信じてもよいのかもしれないと思い始めたのは。
指先へ集まった温かさを逃がさず、流れを細く絞る。
「《種火》」
右手の人差し指に、小さな火が灯った。いつもの《種火》よりも小さい。ろうそくほどだった火が、今は豆粒ほどの大きさで安定している。
「そのまま維持しろ」
「はい」
十呼吸。二十呼吸。それでも指先の火は揺らがない。
「もういい」
魔力を止めると、小さな火が静かに消えた。
「できたな、ニーナ」
「はい……! アレス様が教えてくださったおかげです」
「俺は方法を教えただけだ。魔力を感じ、扱えるようになったのは、ニーナが毎日続けたからだ」
胸の奥が、先ほどの《種火》よりも温かくなった。
「一週間、俺の鍛錬に付き合わせてしまったな。明日の朝は来なくてもいい。少し休め」
「嫌です」
自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。
「嫌なのか?」
「はい。私は明日も、お水と携帯食をお持ちします」
「なぜだ?」
「それは……」
専属メイドだから。そう答えようとして、やめた。それだけではないと、もう自分でも分かっている。
「アレス様が昨日よりお強くなるところを、一番近くで見ていたいからです」
アレス様が驚いた顔をした。その表情を見た途端、顔が熱くなった。しまった。少し出しゃばりすぎたのかもしれない。専属メイドである私が、何を言っているのだろう。
謝るべきか迷っていると、アレス様は少し困惑した顔をしながらも、真っ直ぐに私を見た。
「そうか。なら、俺が誰よりも強くなっていくところを、特等席で見ていてくれ」
「は、はい」
それしか返事ができなかった。アレス様が立ち上がり、私へ手を差し出す。以前なら、その手が上がっただけで身体をこわばらせていたかもしれない。今は迷わず、その手を取ることができた。
一週間前まで、私はこの方の足音を恐れていた。怒鳴られないように。失敗しないように。できるだけ目に留まらないように。そればかりを考えていた。
今は違う。この方がどこまで強くなるのか。何を目指し、どこへ向かおうとしているのか。それを一番近くで見届けたい。そして、少しでもお役に立ちたいと思う。
過去の記憶まで、わずか一週間で消えたわけではない。それでも今の私は、アレス・アークハルト様の専属メイドであることを、心から誇らしく感じ始めていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
これにて第一章は区切りとなります。
次章からは第二章・勇者・聖女誕生編に入ります。
勇者セレスティア・聖女リシアのお話になります。
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