第18話 アレスの変化
ニーナ視点
鑑定の儀から、今日で一週間が経った。東の空が白み始めた頃、私は水筒と携帯食を入れた籠を抱え、屋敷の外へ出た。
初日は水しか用意していなかったが、それだけではアレス様の身体がもたない。今ではハンナさんに教わりながら、訓練の合間に片手で食べられる携帯食を作り、こまめにお渡しするようにしている。
朝露にぬれた庭を抜けると、一定の間隔で地面を蹴る音が聞こえてきた。
「十九周!」
ダリオ様の声が響く。その隣では、ルーク様が腕を組みながら走る姿を見つめていた。屋敷の外周を回る小さな影が、私たちの前を通り過ぎていく。アレス様の額には汗が浮かんでいたが、呼吸も足取りもほとんど乱れていない。しばらくして、屋敷の裏手から再び姿を現した。
「二十周! そこまでです!」
ダリオ様の声を聞き、アレス様はゆっくりと速度を落とした。両手を膝へつくこともなく、そのまま数歩歩いて呼吸を整える。苦しそうな様子はない。むしろ、まだ走れそうなほど涼しい顔をしていた。
「一週間前は、五周で倒れかけていたんですよ」
ダリオ様があきれたように言うと、ルーク様も信じられないものを見るように目を細めた。
「四倍の距離を走って、まだ余裕があります。いくら子どもの身体は成長が早いといっても、これは……」
「最初の日は、力の使い方を間違えていただけだ」
アレス様は何でもないことのように答えた。
「歩幅も呼吸も安定していなかった。上半身にも無駄な力が入っていた。それを一つずつ直せば、この程度は走れる」
「その一つずつを、普通は一週間で直せないんですよ」
ダリオ様が大きく息を吐く。あきれているように見えるけれど、どこか楽しそうでもあった。
「アレス様、お疲れ様でございます」
私が近づくと、アレス様はこちらへ顔を向けた。
「ニーナ。今日も来てくれたのか」
「はい。お水と携帯食をお持ちしました」
木杯へ水を注いで差し出す。今朝の水にも、少量の塩と蜂蜜を溶かしてあった。
「今朝は、焼いた鶏肉とゆで卵を挟んだパンも作りました。すぐに朝食ですので、小さめにしてあります」
「ああ、消化しやすくて助かる」
アレス様は水を飲み干すと、私が包みから取り出したパンを受け取った。一口食べ、満足そうにうなずく。
「美味い。量もちょうどいい。ありがとう、ニーナ」
「はい」
今ではアレス様から感謝されても、籠を落としそうになることはなくなった。それでも、胸の奥がくすぐったくなることには、まだ慣れていない。
一週間前までのアレス様は、私へ礼など言わなかった。お茶の温度、着替えを用意する順番、扉を開ける時機。わずかでも気に入らなければ、鋭い声が飛んできた。殴られたことはない。それでも、アレス様の足音が近づくだけで身体がこわばり、何も悪いことをしていないのに謝る癖がついていた。
だから鑑定の儀で、《体術》スキルと無属性魔法しか持たないと判明した時、私は周囲とは別のことを恐れていた。
アレス様はどれほどお怒りになるのだろう。その怒りを、誰へ向けるのだろう。一番近くにいる私が、すべて受け止めることになるのではないか。そんなことばかりを考えていた。
けれど、祭壇から下りてきたアレス様は怒鳴らなかった。私が反射的に謝った時も、静かな声で言った。
――お前が謝ることは何もない。
最初は、その言葉の方が怖かった。今は静かでも、屋敷へ戻れば怒りを爆発させるかもしれない。鑑定結果の衝撃で、一時的に様子がおかしくなっているだけかもしれない。そう思っていた。翌朝、アレス様が日の出前から走り始めるまでは。
五周で倒れかけるほど疲れていたのに、休憩を終えるとダリオ様とルーク様に身体の状態を確認してもらい、その後は旧演武場へ向かった。拳を打つ。引く。踏み込む。退く。身体をひねる。受ける。かわす。蹴る。着地する。威力や速さよりも正確さを重視し、同じ動きを何度も繰り返していた。
それから今日まで、アレス様は一度も街へ出ていない。屋敷の外周と騎士たちの訓練場、旧演武場を往復するだけで、一日のほとんどを鍛錬に費やしている。休憩のたびに私が携帯食を届け、食べ終わるとすぐに身体を動かし始める。夕食後には、魔力操作の訓練まで行っていた。
ただ、無闇に身体を酷使しているわけではない。アレス様は走った周回数、動きを繰り返した回数、魔力を維持できた時間を毎日記録している。私も頼まれて、休憩した時刻や食べた量を記すようになった。
「強くなるためには、鍛えるだけでは足りない。食べることも、休むことも、眠ることも鍛錬の一部だ」
そう言って、決めた時間になれば必ず身体を休める。ただし休憩中も、先ほどの動きの何が悪かったのかを考え、記録へ書き加えていた。できたことよりも、できなかった理由を探している時間の方が長い。だからアレス様は、一度失敗した動きを次にはわずかに修正し、三度目には、まるで初めから知っていたかのように正しく動いてみせる。
ダリオ様は、初めのうちは何度も尋ねていた。
「アレス様、その動きは誰に教わったのですか?」
そのたびに、アレス様は同じように答えた。
「《体術》スキルが、身体の動かし方を教えてくれるように感じる」
初めのうち、ダリオ様もルーク様も、その説明を納得できていなかったと思う。けれど、何度尋ねてもアレス様の答えは変わらない。次第に二人は諦め、聞くこともやめていた。
そして昨日、さらに驚く出来事が起きた。アレス様が、実際に動く相手と模擬戦をしたいと申し出たのだ。ダリオ様はまだ早いと反対したが、最後には三本だけという条件で許可した。相手を務めたのは、騎士団に入って数年の若い騎士、グレンさんだった。
相手は木剣を持ち、アレス様は素手。体格差は大人と子どもほどもある。グレンさんは明らかに困っていた。男爵家の嫡男へ怪我をさせるわけにはいかないと思ったのだろう。
「遠慮はいらない」
アレス様は両手を上げ、静かに構えた。
「俺の頭と急所を外せば、普段の訓練と同じように打ち込んでこい」
「しかし……」
「心配するな。簡単には当たらない」
その言葉で、グレンさんの顔つきが変わった。
「始め!」
ダリオ様の合図と同時に、グレンさんが踏み込んだ。木剣がアレス様の肩を狙って振り下ろされる。私には、避けられないように見えた。
けれどアレス様は、木剣が振り下ろされるより先に、半歩だけ斜め前へ踏み出していた。身体をわずかにひねって木剣をかわし、相手の腕へ左手を添える。そのまま肘を押し上げ、足を掛け、相手の勢いを利用して身体を回した。
次の瞬間、グレンさんが地面へ倒れていた。木剣が手から離れ、土の上を転がる。アレス様の右拳は、倒れた騎士の喉元寸前で止まっていた。
「そこまで!」
誰も、すぐには声を出せなかった。最初は偶然だと思われたのかもしれない。ダリオ様はグレンさんを立たせ、もう一度構えさせた。二度目は、グレンさんも油断せず、フェイントまで交えて木剣を突き出した。それでもアレス様は攻撃の内側へ潜り込み、手首をひねり上げて木剣を奪った。
三度目も結果は変わらなかった。十呼吸も経たないうちにグレンさんは片膝をつき、アレス様の手のひらが胸へ触れていた。圧勝だった。
「団長……今の動き、見えましたか?」
ルーク様が驚いたまま尋ねた。
「ああ。全部見えていた。見えていたからこそ、信じられん」
ダリオ様は、アレス様をじっと見つめていた。
「腕力も速さも、まだ騎士には及ばない。ですが、相手が動き出す前に、視線と重心から攻撃を読んでいます。力がぶつかる場所を避け、一番崩しやすい瞬間だけを狙っていた」
「《体術》スキルだけで、あそこまでできるものでしょうか?」
「できるわけがない。《体術》スキルを持つ者なら騎士団にもいる。スキルが身体の使い方を教えるとしても、そこからどれだけ引き出せるかは本人次第だ」
ダリオ様は腕を組み、大きく息を吐いた。
「アレス様の才能は普通ではない。俺たちが考えていたより、はるかにな」
ルーク様も無言でうなずいていた。勝ったアレス様は誇ることも、相手を笑うこともしなかった。倒したグレンさんへ手を差し出し、起き上がらせる。
「グレン、ありがとう。実際に相手をしてもらったことで、自分に足りないものがよく分かった」
「い、いえ……俺の方こそ、勉強になりました」
「あの突きは、予想より伸びてきた。ただ、踏み込む前に右肩がわずかに上がる。それがなければ、俺も避けるのは難しかっただろう」
負けたグレンさんは悔しそうに自分の右肩を見た後、アレス様へ深く頭を下げた。今朝、グレンさんは誰よりも早く訓練場へ来ていた。アレス様と顔を合わせると姿勢を正し、自分から挨拶をしていた。
あの模擬戦を見てから、ダリオ様とルーク様の鍛錬への関わり方も変わった。ただ子どもの基礎鍛錬を見守るのではなく、アレス様がどこまで理解し、どこまでできるのかを確かめるものになった。二人とも驚きながら、それ以上に楽しそうだった。




