第186話 六人だけが知る約束
三人で席へ戻った後も、しばらく誰も酒へ手を伸ばさなかった。最初に口を開いたのは、レオだった。
「女神が、三人を名指しした意味は大きいですね」
「ああ」
陛下がうなずく。
「勇者と聖女だけではない。アレス君も、二人と並んで女神の導きの中にいる」
「このことが外へ漏れれば、アレスを利用しようとする者が現れる」
私が言うと、レオはすぐにうなずいた。
「間違いなくね」
地竜を倒した十三歳のAランク冒険者。それだけでも貴族たちの関心を集めている。女神に名指しされたと知れば、取り込もうとする者も、危険視する者も増えるだろう。
「だからこそ、女神のお告げの存在は決して明かせぬ」
陛下が言った。
「昨日の事件を起こした者たちも、どこかで我々を見ているかもしれない。三人が女神の言葉によって結ばれたと知れば、次はアレス君を狙うことも考えられる」
「あの子の力を当てにして、周りの警戒を緩めるわけにはいきませんね」
私が言うと、陛下も深くうなずいた。
「三人を政争から遠ざけることも、考えなければなりません」
レオが、静かに言った。
「王都の貴族たちから、か?」
「三人は、まだ十三歳です。ですが、周囲はそう見てくれない」
勇者。聖女。Aランク冒険者。三人とも、すでにその名だけで、国を動かしかねない存在になっている。
「王都へ留め、厳重に守ろうとする者も出るでしょう。反対に、力があるのだからと、危険な任務へ送り出そうとする者もいる」
「どちらも、子どもたちの意思を無視しているな」
「はい」
陛下の言葉に、レオがうなずく。
「本人たちの考えを聞いた上で、必要な備えは我々が引き受けるべきでしょう」
「同感だ」
戦う力では、アレスはもう私を超えた。だからこそ、領主として、父親として引き受けられることまで、あの子に背負わせたくはない。
「今回の滞在についても同じだ」
陛下が言う。
「女神のお告げだからといって、三人へ何もかも任せるつもりはない。何が起きても動けるよう、王家とグランベル家も、表から見えぬ形で備える」
「具体的には?」
「時期が近づいたら、アークハルト領の周りの街道と王都からの連絡手段を、誰にも不審に思われぬ形で整える。だが、兵を集めすぎれば、かえって何かがあると知らせることになる」
「帝国側にも、気づかれる可能性があります」
レオの声がわずかに鋭くなる。
「勇者がグランベル領を離れる時期を知られれば、帝国が動くかもしれません」
「セレスティア様が一か月不在となっても、国境の守りに影響はないのか?」
私が尋ねると、レオは迷いなく答えた。
「セレスは、まだ辺境軍の戦力として正式には数えておりません。娘一人がいなければ守れないほど、グランベル家の兵は弱くありませんよ」
穏やかな言葉の中に、辺境伯としての誇りがあった。
「表向きは、領内で訓練に専念していることにします。公の予定を入れず、滞在先も明かさなければ、不在は確かめにくいでしょう」
「リシアは、大神殿で祈りに専念することにする」
陛下が続けた。
「大神殿で事情を知る必要のある者には、私から説明する。お告げのことは伏せ、王家の用向きで外へ出るとだけ伝えよう」
「私どもも、領内で受け入れの準備を進めます」
迎える相手の名を広めずに、宿泊先と移動経路を整える。アレスたちが動きやすいようにしておくのは、私の役目だ。
「今夜決めるのは、ここまでだ」
陛下が続ける。
「まず三人が、お告げをどう受け止めたか確かめよう。その上で、来年九月十五日から十月十五日まで、勇者と聖女をアークハルト領へ迎える準備を進める」
一つ。
「二人の護衛は、アレス君が率いるAランクパーティへ、王家から極秘に依頼する」
二つ。
「お告げの存在と内容を共有するのは、我々と子どもたちの六人だけだ。それ以外の者へは決して明かさない」
三つ。
「異論はあるか?」
「ございません」
私は答えた。
「私もありません」
レオも続く。
「では、決まりだ」
書面はない。国王の印章も、辺境伯と男爵の署名もない。残せば、それ自体が秘密へたどり着く手掛かりとなる。三人の記憶と、交わした言葉だけが、この約束を証明する。
「今頃は、リシアも同じ女神のお告げを、アレス君とセレスティアへ話しているはずだ」
陛下の言葉に、私は壁の向こうへ目を向けた。この王宮のどこかにある、リシア殿下の部屋。三人は、女神の言葉をどのように受け止めているのだろう。セレスティア様は、迷わず行くと言うに違いない。リシア殿下も、自分が受けた女神のお告げから逃げることはないだろう。
アレスなら、まず理由を尋ねる。答えがなければ、二人を守るために必要なことを考え始めるだろう。一年以上先のことでも、今夜から備えようとする姿が目に浮かんだ。
「一つ、心配がある」
陛下が、重々しく口を開く。
「何でしょう?」
「男であるアレス君を、夜にリシアの部屋へ入れたことだ」
「……陛下が、お許しになったのでは?」
「女神のお告げを六人以外へ漏らさぬためには、仕方がなかった」
「セレスも一緒です」
レオが、面白そうに言う。
「それはそれで、別の心配がある」
「二人がいるのであれば、むしろ何も起きないでしょう」
「レオナルド。お前は、随分と余裕だな」
「娘を信じていますから」
「アレス君は?」
「信じていますよ」
「では、なぜ先ほど、娘を泣かせたら許さぬなどと言った」
「信頼と心配は、別のものです」
レオが、当然のように答えた。陛下は不満そうだったが、反論できなかった。私も同じ気持ちだ。アレスがリシア殿下の部屋で不敬な振る舞いをするなど、考えてもいない。
だが、何の心配もないかと聞かれれば、別の問題がある。
「おそらく、陛下が心配なさるようなことにはなりません」
私が言うと、陛下がこちらを向いた。
「なぜ、そう言い切れる?」
「アレスだからです」
「それでは分からぬ」
「あの子は今頃、女神のお告げの言葉と来年の魔の森について考えています。隣にいる二人がどのような顔で自分を見ているかなど、気づいてもいないでしょう」
陛下が黙る。レオも黙った。やがて、二人が同時にため息をついた。
「それはそれで、心配だ」
「本当にね」
「私はどうすればよいのですか」
今夜、何度目か分からない言葉が出た。二人は顔を見合わせ、それから声を上げて笑った。張り詰めていた空気が、わずかに和らぐ。陛下が二本目の酒を開けた。
「今夜は、もう少し付き合え」
「明日も予定があるのでは?」
「国王を誰だと思っている。多少寝不足でも、顔には出さん」
「昨夜も一睡もしておられないでしょう」
「昼に少し眠った」
「私と同じですね」
「ならば、問題ない」
「どのような理屈ですか」
そう言いながらも、私は差し出された杯を受け取った。レオも、自分の杯を中央へ出す。
「来年の秋、子どもたちが無事に戻ることに」
陛下が言った。
「まだ出発もしていませんよ」
レオが笑う。
「だからこそ、今から願うのだ」
私も杯を上げた。
「願うだけではありません」
二人が、私を見る。
「必ず、そうします」
陛下が目を細め、レオも静かにうなずいた。三つの杯が、小さな音を立てる。
来年の秋、子どもたちを無事に迎え、送り出す。そのためにできることを、今から始めよう。
ただ一つ、女神が九月十五日から十月十五日までの一か月を選んだ理由だけは、私たちには分からなかった。




