第185話 預けられた二人
レオが、静かに口を開いた。顔を上げると、レオは目を閉じ、何かを考えていた。その内容は、尋ねるまでもない。セレスティア様をどうするのか。女神のお告げは、勇者と聖女をアークハルトの地へ、と告げている。リシア殿下だけを送ることはできない。
だが、父親として即答できるほど、軽いことでもない。グランベル家の一人娘。ヴァルガ帝国と向き合う辺境伯領の希望。そして、王国にただ一人の勇者。長い沈黙の後、レオが目を開いた。
「セレスも行かせます」
いつもの柔らかな声だった。だが、その言葉には、わずかな揺らぎもなかった。
「よいのか、レオナルド」
陛下が尋ねる。
「女神は、勇者と聖女を、と告げたのでしょう。リシア殿下だけを送り、セレスを残すことはできません」
「しかし」
「不安がないと言えば、うそになります」
レオが、苦笑した。
「昨日、セレスが救出作戦へ加わったと聞いた時は、すぐにでも連れ戻したいと思いました。団長の指示で待機し、救援要請を受けて動いたと分かっても、父親としては気が気ではありませんでした」
「ならば、なぜ」
「同時に、誇らしくも思ったからです」
レオは、娘がいる方角を見るように、壁の向こうへ目を向けた。
「あの子は、自分の力を見せたいから向かったのではありません。友人を守り、人質を救うために、自分の風が必要だと知って向かった。戦える者として、少しずつ正しい判断ができるようになっている」
セレスティア様は、勇者だ。いつまでも父親の後ろで守られていることはできない。いずれは、多くの者を守るため、誰よりも危険な場所へ立たねばならない時が来る。レオも、それを分かっている。
「アークハルト領には、魔の森がある」
レオが、私を見る。
「せっかくの機会だ。セレスに、そこで多くのことを経験させてほしい」
「魔の森で、か?」
「もちろん、いきなり深層へ連れていけと言っているわけではないよ」
それは当然だ。来年には十四歳になっているとはいえ、いくら勇者であろうと、魔の森の深層は少女が簡単に足を踏み入れてよい場所ではない。
「実戦でしか学べないことがある。魔物の跡の見つけ方、森の中での動き方、仲間との連携、傷ついた者を連れて戻る判断。グランベル領で教えられる戦いとは、また違うものだ」
「それは、そうだが」
「アレス君と、その仲間たちが一緒なら、これ以上の教師はいないだろう?」
地竜と直接戦ったのは、アレス、ルナ、アイゼン、ガルムの四人だけだ。魔の森の深層でSランク下位指定魔物と遭遇し、誰一人欠けることなく生還した。四人は今、冒険者ギルド本部から正式に認められたAランクパーティでもある。魔の森で経験を積ませる相手として、確かにこれ以上の者たちはいない。
「リシア殿下にも、救護院や大神殿では得られない経験になるはずです」
レオが続ける。
「森の中では、治療に必要な物も、使える時間も限られる。神聖魔法があるからこそ、どこで力を使い、どこで温存するかを知っておくべきでしょう」
陛下は、難しい顔で腕を組んだ。娘を魔の森へ入れる。先ほど、アークハルト領へ預けると決断したばかりとはいえ、すぐにうなずける話ではない。
「危険なことはさせられぬ」
「危険を一つも経験させずに、聖女として生きていけると思われますか?」
レオの問いに、陛下は答えなかった。
「もちろん、無謀なことをさせろとは申しません。ガレスとアレス君が安全だと判断した範囲でよいのです。ですが、一か月を屋敷の中だけで過ごさせるために、女神が三人を集めるとも思えない」
「……そうだな」
陛下は、長く息を吐いた。
「リシア本人も、望むだろう」
「間違いなく」
「止めても、セレスティアと二人でアレス君についていきそうだ」
「それも、間違いありませんね」
二人とも、自分の娘のことをよく分かっている。私は来年の一か月を思い、今から少し恐ろしくなってきた。アレスだけでも、気づけばこちらの想定を超える。そこへ勇者と聖女が加わる。三人がそろった時、どのようなことが起きるのか、私には想像もできない。
「ガレス」
今度は、レオが真っ直ぐに私を見た。
「私からも頼む。セレスを預かってほしい」
「……ああ」
爵位も、立場も関係ない。唯一無二の親友から、娘を託されている。
「任せろ、レオ」
私も、真っ直ぐに答えた。
「リシア殿下も、セレスティア様も、アークハルト家の客人として、必ず無事にお返しする」
「ありがとう」
レオが、わずかに目を細める。
「それと、できれば一か月後には、もう少し強くして返してくれるとうれしい」
「お前は、最後までそれを言うのだな」
「セレスなら、きっと望むからね」
娘を心配しながらも、その成長を止めない。それが、レオなりの父親としての覚悟なのだろう。
◇
「もう一つ、頼みがある」
陛下が、私へ向き直った。
「リシアとセレスティアの移動と、一か月の護衛を、アレス君が率いるAランクパーティへ依頼したい」
「アレスたちへ、王家から直接依頼を?」
「ああ。ただし、正式な依頼書へ勇者と聖女の名は記さぬ。時期が来たら、冒険者ギルド本部を通じて、王家の極秘護衛任務として指名する」
「ルナ殿たちには、どこまで伝えるのです?」
「護衛する相手と、目的地、期間。それだけだ」
女神のお告げを隠したまま、仲間へ命を預ける。一瞬、それでよいのかと考えた。だが、女神自身が、女神のお告げを伝えてよい者を定めている。アレスも、すべてを話せない苦しさを背負うことになるだろう。
それでも、ルナ、アイゼン、ガルムならば、必要なことだけを告げられたとしても、アレスを信じて力を貸してくれる。四人が築いてきた信頼を、私は近くで見てきた。
「アレスたちであれば、任務を受けると思います」
「父親としてではなく、領主として見ても、任せられるか?」
陛下の問いに、私は一度考えた。息子だから信じる。それだけでは、国王の問いへの答えにならない。
「はい」
私は、はっきりとうなずいた。
「アレス個人の力だけではありません。ルナ殿は、誰よりも早く周囲の異変を見抜く。アイゼン殿とガルム殿は、戦いだけでなく、護衛として常に守るべき者の位置を考えて動きます」
地竜と戦った時も、四人は互いの力を理解し、足りない部分を補った。
「四人であれば、どの道を選ぶことになっても、必ずお二人をアークハルト領までお守りします」
「そうか」
陛下が、静かに息を吐いた。それでも、その表情から不安は消えない。当然だ。どれほど強い者へ任せても、娘を危険から完全に遠ざけられるわけではない。陛下は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。私とレオも立とうとした。
「そのままでよい」
「しかし」
「ガレス。これは、国王としての命令ではない」
陛下は卓の横へ回り、私の前で足を止めた。
「一人の父親としての願いだ」
次の瞬間、国王陛下が、男爵である私へ深く頭を下げた。
「リシアを――私の娘を、どうか守ってほしい」
「陛下!」
私は椅子を蹴るように立ち上がった。国王が臣下へ頭を下げる。本来、あってはならないことだ。
「お顔をお上げください!」
「答えを聞くまでは上げぬ」
「すでに、承ると申し上げました!」
「それは、臣下としての答えであろう」
違う。今、陛下が求めているのは、男爵の言葉ではない。同じ子を持つ父親としての約束だ。私は息を整え、頭を下げたままの陛下へ向き直った。
「命に代えましても――とは、申しません」
陛下が、わずかに顔を上げた。
「私が命を落とし、それで役目を果たしたつもりになることはいたしません。アレスにも、自分を犠牲にして二人を守れとは言いません」
守るために死ぬのではない。守り、勝ち、生きて帰す。アークハルト家が魔の森を前に、代々貫いてきたことだ。
「リシア殿下も、セレスティア様も、アレスも、その仲間たちも。必ず全員、生きてお返しいたします」
私は、陛下の目を真っ直ぐに見た。
「アークハルト家当主として。そして、アレスの父親として、お約束します」
陛下は、しばらく私を見つめていた。やがて、ゆっくりと身体を起こす。
「頼んだぞ、ガレス」
「はい」
「私からも頼む」
隣を見ると、レオまで頭を下げていた。
「レオ」
「辺境伯としてではない。セレスの父親としてだ」
いつも笑っている男が、今は真剣な顔で私へ頭を下げている。
「娘を頼む」
「……ああ」
胸の奥へ、重いものが落ちた。だが、それは押し潰されるような重さではない。二人から預けられた、信頼の重さだった。
「必ず、無事に帰す」
もう一度、同じ言葉を告げた。今度は国王でも辺境伯でもない、二人の父親へ向けて。
なぜ女神は、アークハルトの地を選んだのか。来年の秋、アレスと勇者、聖女を待つものは何なのか。答えはまだ、誰にも分からない。
それでも、預けられた信頼だけは決して裏切らない。何が待ち受けていようと、託された二人も、アレスも、その仲間たちも、誰一人欠けさせずに生きて帰す。胸の奥で、その決意だけが静かに燃えていた。




