第184話 女神が告げた名
陛下が二本目の酒へ手を伸ばす前に、レオの笑みがわずかに変わった。杯を卓へ置く。先ほどまでと同じ、穏やかな顔。だが、その瞳だけが、鋭く陛下をとらえていた。
「ところで、陛下」
声も変わらない。
「我々をお呼びになったのは、娘たちの恋の話をするためだけではありませんね?」
部屋の空気が、一瞬で変わった。私は陛下を見る。陛下は驚かなかった。むしろ、レオが切り出すのを待っていたようだった。
「やはり、気づいたか」
「気づかない方が難しいでしょう」
レオが、卓の上へ視線を落とす。
「世話役も侍女も下げ、近衛騎士一人だけを扉の外へ置いている。宰相にも、ヴィクトル団長にも声をかけていない。そのうえ、アレス君、セレス、リシア殿下を別室へ集めた」
そこまで言うと、再び陛下を見る。
「二つの部屋で、同じ話をするためではありませんか?」
「相変わらず、よく見ている」
「それが辺境伯の仕事ですから」
「先ほどまで、酒を飲むことしか考えていないように見えたがな」
「酒を飲みながらでも、考えることはできますよ」
私も、呼び出しが通常ではないことには気づいていた。だが、レオは部屋へ入った時から、そこまで考えていたらしい。やはり、切れ者だ。
陛下は、ゆっくりと杯を置いた。そのまま卓の側面へ手を伸ばし、埋め込まれた魔道具へ触れる。かすかな魔力が広がり、壁だけでなく、床と天井までを包み込んだ。
「これより先の話は、この部屋から一言たりとも漏らさぬ」
盗聴と探知を防ぐ結界。王が心から信頼する者だけを招く部屋には、それに相応しい魔道具が備えられているらしい。
「今日、リシアが女神のお告げを受けた」
その一言で、酔いが消えた。
「女神のお告げ……でございますか」
思わず言葉が元へ戻る。陛下も、今度は崩せとは言わなかった。
「いつです?」
レオが尋ねる。
「夕刻だ。すべての公式行事を終え、部屋へ戻った後、一人で女神ルミエラへ祈りをささげていた時だという」
「リシア殿下だけが、声を?」
「そうだ」
陛下がうなずく。
「聖女の印が光を放ち、周囲の音が消えた。その中で、女神の声を聞いたと話している」
「内容を、お聞かせいただけますか?」
私が尋ねると、陛下はすぐには答えなかった。扉を見る。近衛騎士が外にいることを分かっていながら、声が漏れないことを確かめるような視線だった。
「これから話すことは、この部屋の外へ決して漏らしてはならない」
低く、重い声。
「妻にも、家臣にも、側近にもだ。書き残すことも許さぬ」
エレナにも話せない。レオも、ローズ夫人へ明かすことはできない。陛下でさえ、王妃や宰相へ伝えないつもりなのだ。
「それも、女神のお告げの一部なのですか?」
「そうだ」
陛下は一度目を閉じ、リシア殿下から聞いた言葉を確かめるように、ゆっくりと告げた。
「女神ルミエラは、リシアへこう告げた」
部屋が静まり返る。
「『来たる年の秋、勇者と聖女をアークハルトの地へ』」
自分の領地の名が、女神の言葉として告げられた。その重さをすぐには受け止められなかった。
「『九月十五日より十月十五日まで、彼の地に留まれ』」
一日でも、数日でもない。秋の一か月。
「『勇者と聖女は、アレス・アークハルトと共にあれ』」
今度は、息子の名。勇者と聖女。そして、アレス。三人が同じ日に特別な力を得たことを、偶然ではないと思ったことはある。だが、女神自身が三人へ共にあれと告げたのだ。
「最後に、こう続いた」
陛下の声が、さらに低くなる。
「『この言葉は、王、レオナルド、ガレス、アレス、セレスにのみ伝えよ』」
女神のお告げを受けたリシア殿下。そして、今、この部屋にいる三人。別室に集められた、アレスとセレスティア様。六人。だから、二つの部屋に分けたのか。
「ほかには?」
レオが尋ねる。
「それだけだ」
「来年の秋、何が起きるのかは」
「告げられていない」
「なぜアークハルト領なのかも?」
「分からぬ」
「リシア殿下は、女神へ問いかけたのですか?」
「尋ねたそうだ。だが、答えはなかった。言葉を告げた後、光は消え、周囲の音も元へ戻った」
来年の九月十五日から十月十五日。アークハルト領。その時、何が起きる。真っ先に思い浮かぶのは、魔の森だ。私たちアークハルト家は、代々、あの森から現れる魔物を食い止めてきた。森の深部には、今も人の知識が及ばない場所がある。アレスたちが地竜と戦ったのも、魔の森の深層だ。
勇者と聖女の力が必要となる何かが、来年の秋に森で起きるのか。それとも、昨日の魔王教のような者たちが、王都ではなくアークハルト領で動くのか。考えても、答えは出ない。
「ガレス」
レオに呼ばれ、顔を上げた。
「今、魔の森で大きな異変は起きているかい?」
「報告は受けていない」
「魔物の数や動きは?」
「アレスが冒険者として森へ入り始めてから、以前より詳しく把握できるようになった。少なくとも、今は異常があるとは聞いていない」
「来年までに何かが変わる可能性は?」
「否定はできない」
魔の森の変化を、一年以上前に正確に予測することなどできない。大量発生した魔物が森の外へあふれることもあれば、強力な魔物が縄張りを変えたことで、周囲の魔物が押し出されることもある。
「女神のお告げには、戦えとも、逃げよともない」
レオは、一つずつ言葉を確かめている。
「アークハルトの地へ向かい、一か月留まり、三人で共にあれ。それだけです」
「ああ」
「ならば、我々が勝手に意味を決めつけるべきではないでしょう」
「しかし、何も備えないわけにはいかぬ」
陛下の声には、国王としての苦悩と、父親としての不安が混じっていた。
「リシアを王都から一か月離す。それも、真の理由を誰にも明かさずにだ。国王として考えれば、簡単に決められることではない」
聖女は、王女である以前に、王国すべての民にとって希望の象徴だ。一か月も王都を離れれば、王宮も大神殿も、理由を求める。移動には護衛が必要となる。王女一人が旅をするだけでも、何十人もの人間が動くのが普通だ。まして、勇者まで同行する。隠し通すことは容易ではない。
「だが、一人の父親としては、女神の言葉を無視することなどできぬ」
陛下が、拳を握った。
「昨日、私は娘を失っていたかもしれない。どこにいるかも分からぬ敵が、今も再びリシアを狙っているかもしれぬ。そのような時に受けた女神のお告げだ」
だからこそ、リシア殿下をアークハルト領へ送り出すことにも不安がある。王都から遠く離れた、魔の森に面する領地。女神の言葉を信じたい。だが、父親として、娘を危険へ近づけることになるのではないかという恐れも消せないのだろう。
「私は、決めた」
陛下が私を見た。
「来年九月十五日から十月十五日までの一か月、リシアをアークハルト領へ預ける」
その目に、迷いは残っていた。迷いながらも、国王として、父親として、決断した者の目だった。
「ただし、大掛かりな訪問にはしない。王女の行幸として知らせれば、行く先々に人が集まり、敵にも居場所を教えることになる」
「極秘で移動させるおつもりですか?」
「ああ。表向きの理由は、必要な者へだけ伝える。女神のお告げの存在と、三人をアークハルト領へ集める真の目的は、女神に示された六人だけの秘密とする」
「護衛には、どこまで知らせるのです?」
レオが尋ねる。
「王家からの極秘依頼として、勇者と聖女をアークハルト領へ護衛することだけだ。女神のお告げについては明かさぬ」
「移動を隠すためには、人数も抑える必要がありますね」
「そのつもりだ」
陛下がうなずく。
「二人は、合流するまで別々に動かす。具体的な道と合流場所は、時期が近づいてから決める。今から計画を広げれば、その分だけ秘密を知る者が増える」
確かに、一年以上先に通る道を今決めても、街道や周囲の状況は変わる。大切なのは、アークハルト領に滞在する期間と、誰が真の理由を知るのかを、今ここで定めることだ。
「ガレス」
陛下が、改めて私の名を呼んだ。
「一か月の間、リシアを預かってもらいたい」
国王から、王女を託される。しかも、聖女を。男爵家へ預けるには、あまりにも重い願いだ。だが、女神はアークハルトの地を選んだ。そして、アレスと共にあれと告げた。その意味が分からなくとも、私に拒むという選択はなかった。
「承知いたしました」
私は、椅子へ座ったまま深く頭を下げた。
「アークハルト家と領地のすべてをもって、リシア殿下をお迎えいたします」
言葉にした瞬間、国王の娘を預かる責任が、現実の重さとなって胸へ落ちた。それでも、守り抜くという決意に迷いはない。
だが、女神が告げたのは聖女だけではなかった。勇者と聖女を、アークハルトの地へ。その言葉のすべてを受け止めるには、まだ一つ、答えのない沈黙が残っていた。その時、静かな声が、頭を下げたままの私を引き止めた。
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『婚約破棄され、冒険者パーティも追放されたモブ貴族です~前世の知識と転生特典で借金を返して楽しく生きるつもりが、いつの間にか英雄になりそうです~』
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