第183話 三人の父親
陛下は国王として報告書を読んでいる。それでも今夜は、数字や結果だけでなく、そこに暮らす者たちの様子を知りたいようだった。
橋が直った日に、村の子どもたちが何度も向こう岸とこちら側を走っていたこと。新しい共同倉庫へ最初の麦が運び込まれた時、年老いた村長が深く頭を下げたこと。騎士団へ新しい防具を渡した時、若い騎士たちがその夜遅くまで互いの姿を見せ合っていたこと。その一つ一つを話すたび、陛下は穏やかにうなずいた。
「よい領地になっているようだな」
「まだ、足りぬものばかりです」
「領主が満足した時から、領地は衰える。足りぬものが見えているうちは大丈夫だ」
「その言葉、覚えておきます」
「それにしても」
レオが、杯を揺らしながら口を挟んだ。
「その多くに、アレス君が持ち帰った魔物素材が役立っているのだろう?」
「ああ」
「一年余り前、君は随分とアレス君のことで悩んでいたね」
「……そうだな」
鑑定の儀を受ける前のアレス。傲慢で、家の名を振りかざし、家族や使用人たちさえおびえさせていた息子。あの頃の私は、どうすればあの子を正しい道へ戻せるのか、答えを見つけられずにいた。
「それが、十二歳十一か月でAランクへ昇格するとはな」
陛下が、胸がいっぱいになったようにつぶやいた。
「正直に申し上げれば、今でも時折、信じられなくなります」
「息子の力がか?」
「それだけではありません」
強くなったこと。領地へ大きな利益をもたらしたこと。魔物に襲われた者を救い、仲間から信頼されるようになったこと。そのすべてが、私にはうれしい。だが、最もうれしいのは、家族と過ごす時のアレスの顔が変わったことだ。
「以前のあの子は、屋敷の中にいても、一人でした」
私は、杯の中の酒へ目を落とした。
「自分から皆を遠ざけておきながら、誰も自分を理解しないと思っていたのでしょう。今は違います。カイルもリリアも、兄が帰る日を指折り数えて待っている。使用人たちは、あの子を恐れるのではなく、無茶をしないか心配している。騎士たちも、自分たちの誇りとして、あの子を見ています」
「そして、二人の少女からも大切に思われている」
陛下が、何気ない口調で付け加えた。
「……はい?」
顔を上げる。陛下は杯へ口をつけながら、こちらを見ている。その目が、わずかに笑っていた。
「リシアは、この一年、アレス君のことばかり考えていた」
聞き間違いかと思った。
「リシア殿下が、でございますか?」
「そうだ」
「アレスのことを?」
「そう言っている」
確認すればするほど、陛下の笑みが深くなる。
「アレス君がCランク冒険者となったと聞けば、どのような試験だったのか知りたがる。商隊を救ったと聞けば、けが人はいなかったのかと尋ねる。魔の森へ入ったと聞いた時には、しばらく祈りの時間が長くなった」
「それは……」
「地竜を倒したという報告が届いた日など、食事の席でも上の空だった。無事だと書かれているにもかかわらず、傷を負ってはいないか、疲れてはいないかと、私へ尋ね続けたよ」
アレスとリシア殿下が初めて顔を合わせたのは、今回の王都訪問だ。それまで、二人は一度も会ったことがない。同じ日に特別な力を授かった者。最初は、ただそれだけの興味だったのかもしれない。だが、届く報告の中でアレスのことを知り、少しずつ思いを強くしていったのだろう。
「今回、実際に会ってみて、少しは落ち着くかと思っていた」
「違ったのですか?」
「前より酷くなった」
陛下が、深いため息をついた。
「目を離せばアレス君の話をしている。今朝も、自分を助けてくれたこと、人質を救うために先頭へ立ったこと、無茶をしながら自分には無茶をするなと言ったことを、何度聞かされたか分からん」
「無茶をしながら、リシアへ無茶をするなと言うところまで、よく似ているね」
レオが楽しそうに笑う。
「陛下。ご安心ください。夢中なのは、リシア殿下だけではありませんよ」
「セレスティア様も、ですか?」
私が尋ねると、レオは当然のようにうなずいた。
「うちの娘も、アレス君に夢中でね」
「レオまで何を言い出す」
「何を言い出すも何も、事実だよ。以前から、アレス君の話をする時だけは分かりやすかった。普段なら途中で席を立つような長い報告も、アレス君の名が出れば最後まで聞いていたからね」
「セレスティア様は、勇者として同じ日に選ばれた者を気にしていただけではないのか?」
「ガレス。本気で言っているのかい?」
あきれたような目を向けられた。
「では、君は昨日からのセレスを見て、何も気づかなかったのかな?」
「いや……」
気づかなかったわけではない。ただ、父親であるレオの口から、娘が息子に夢中だとはっきり告げられると、どう答えればよいのか分からない。
「今回会ってから、さらに夢中になったようだ」
レオは、笑みを浮かべたまま続ける。
「アレス君がヴィクトル団長と一合交えれば、一番近くで見ている。危険な場所へ向かえば、自分も行くと言って聞かない。助けられれば顔を赤くし、褒められれば一日中うれしそうにしている」
「最後のものは、今日だけで一日中だったか分からないだろう」
「父親には分かるものだよ」
「そういうものか」
「君も父親だろう?」
「年頃の娘を持つ父親にしか、分からないこともある」
私には娘もいるが、リリアはまだ幼い。いつか、リリアも誰かへあのような目を向けるのだろうか。想像した途端、胸の奥が落ち着かなくなった。
「ガレス」
レオが、杯を卓へ置いた。笑みは消えていない。だが、青い瞳の奥に宿る光が、わずかに鋭くなった。
「冗談半分で聞いてほしいのだけれど」
「半分は本気なのだな」
「もちろん」
レオが、にこやかに告げる。
「アレス君が、うちの娘を泣かせたら許さないからね」
「待て。なぜ私へ言う」
「父親だからだよ」
「アレス本人へ言ってくれ」
「今から言えば、あの子はセレスの気持ちを知ってしまうだろう?」
「それでは、私にどうしろというのだ」
「父親として、しっかり見ていてほしい」
「無理だ。アレスは領地にいる時でさえ、気づけば魔の森へ入っている」
「地竜を見失わないのに、私の娘の気持ちは見失うのかい」
「そもそも、あの子はまだ何もしていない」
「だから心配なのだ」
今度は、陛下まで同じことを言い出した。
「リシアがあれほど分かりやすく思いを向けているのに、アレス君は疲れているのだと思っているらしい」
「実際、昨夜は神聖魔法を何度も使っておられましたから」
「ガレス。お前まで同じことを言うのか」
陛下の声が低くなる。国王ではなく、娘を案じる父親の目だった。
「私からも言っておく」
「陛下まで、ですか」
「アレス君がリシアを泣かせた時は、たとえお前の息子でも簡単には許さん」
「お二人とも、話が早すぎます」
「早くないとも」
「早くない」
レオと陛下が、ほとんど同時に答えた。王国の東を守る辺境伯。王国を治める国王。どちらも、戦場や政の場では、わずかな迷いも見せない男だ。その二人が、娘のこととなると、十三歳の少年一人にこれほど心を乱されている。私もリリアの父親なのだから、いつか二人の気持ちを理解する日が来るのかもしれない。だが、今は困るだけだった。
「アレスへ、二人を泣かせないよう命じればよいのですか?」
「それは違う」
陛下が、すぐに否定した。
「心は、王命で決めるものではない」
「私も、セレスに誰を好きになれとは言わないよ」
レオの声からも、からかう色が薄れる。
「娘の気持ちは娘のものだ。アレス君の気持ちも、アレス君のものだ。それを親が決めるべきではない」
「ならば、私にできることはありません」
「分かっている」
陛下が、小さく笑った。
「だから、半分は冗談だ」
「残る半分が重すぎます」
「娘を持つ父親の言葉だ。受け止めろ」
私は答えに困り、残っていた酒を一息に飲んだ。のどの奥が熱くなる。それでも、胸にあるのは戸惑いだけではなかった。かつてのアレスは、家族からさえ恐れられていた。カイルとリリアを泣かせ、使用人たちをおびえさせ、誰かに慕われることなどなかった。その息子が今、勇者と聖女から、これほど大切に思われている。父親として、誇らしくないはずがない。
「アレスは、二人の思いに気づいていないのでしょう」
「間違いなくね」
「あれほど露骨なのに、どうして分からぬのだ」
陛下が、本気で不思議そうにつぶやいた。
「ですが、あの子は、誰かの思いを軽んじるような人間ではありません」
二人が、私を見る。
「もし、いつか二人の気持ちを知る時が来れば、きっと真剣に考えます。どのような答えを出すかまでは、父親である私にも分かりません。それでも、あいまいな言葉で二人の心をもてあそぶようなことだけはしない。それは、私が保証します」
陛下は、しばらく黙って私を見つめていた。やがて、表情を和らげる。
「そうだな。あの子が、そのような少年ではないことは、私も分かっている」
「私もだよ」
レオもうなずいた。
「だからこそ、セレスがあれほど夢中になることを、心から反対できないのだろうね」
「リシアも同じだ」
父親としては心配だ。だが、娘が選んだ相手がアレスであることには、二人ともほっとしている。冗談の裏にあった本心が分かり、私もわずかに肩の力を抜いた。
「しかし、二人同時とはな」
私が思わずつぶやくと、陛下とレオが同時に黙った。今度は、私が言うべきことを間違えたらしい。
「いえ。今の言葉は忘れてください」
「忘れられるものか」
「まったくだね」
困り果てた私を見て、二人が笑う。私も最後には、笑うしかなかった。穏やかな笑い声が、小さな客間に広がる。だが、それが途切れると、胸の奥に最初から残っていた疑問が、再び静かに浮かび上がった。
陛下は、本当にこの話をするためだけに、人払いした部屋へ私たちを呼んだのだろうか。卓の上では、まだ封を切られていない二本目の酒が、魔道灯の光を鈍く映していた。




