第182話 父親たちの密約
ガレス・アークハルト男爵視点
事件の翌日。王宮では、《勇聖奉告式》に続くすべての行事が、予定どおり行われた。正確には、予定どおりに見えるよう行われた、と言うべきだろう。《勇聖奉告式》を狙った男が捕らえられたことも、その夜に六人もの人質が救出されたことも、民には伏せられている。
勇者と聖女が女神像の前で誓いを立てた祝いの日に、王都のどこかで恐ろしい企みが進められていた。そのような話を広めれば、民を無用におびえさせるだけではない。魔王教を恐れるあまり、何の関係もない者同士が疑い合うことにもなりかねない。
王国騎士団が調べ続ける一方、表では何事もなかったかのように祝いの行事が進められた。
各地から集まった貴族や神官との対面。王国騎士団、大神殿、冒険者ギルドからの祝いの言葉。勇者と聖女へ、王国各地の代表から贈られる品々。そして夜には、王宮の大広間で祝いの会が開かれた。昨夜から一睡もしていなかった者たちは、朝の会議を終えた後、それぞれわずかな時間だけ身体を休めた。私も迎賓館へ戻り、昼前まで眠った。
それでも、身体の奥には重い疲れが残っていた。十三歳になったばかりの子どもたちも、同じはずだ。だが、セレスティア様とリシア殿下は、集まった者たちの前で疲れた様子を見せなかった。セレスティア様は、祝いの言葉を述べる騎士や冒険者へ真っ直ぐな目を向け、一人ずつの言葉へ丁寧に耳を傾けていた。
リシア殿下は、大神殿から訪れた神官たちだけでなく、王都の救護院や孤児院を代表して招かれた者たちとも言葉を交わしていた。
二人とも、昨日までとはわずかに顔つきが変わっているように見えた。自分たちの命が狙われた。名も知らない者たちが、そのために家族を人質に取られた。
そして、自分たちの力で、その命を救った。恐ろしい経験だったはずだ。だが、二人はおびえるのではなく、自分の力が何のためにあるのかを、昨日より深く理解したのだろう。勇者と聖女。その名に相応しい二人だと、私は心から思った。
もっとも――。
祝いの会の間、二人の視線が何度も同じ場所へ向かっていたことにも、私は気づいていた。アレスは、王国史上最年少のAランク冒険者として、私たちとは別の席へ招かれていた。王国騎士団の中心人物や冒険者ギルド本部の立場の高い者に囲まれ、次々と声をかけられている。
あの子は失礼のないように応じていたが、時折、助けを求めるようにニーナの方を見ていた。ニーナは少し離れた場所に控え、アレスと目が合うたびに、笑顔で小さく首を横へ振っている。
自分で対応なさってください、ということらしい。戦うことならば、相手が地竜であろうと迷わない。だが、大勢の貴族から褒められることには、今も慣れていないようだ。
そんなアレスを、セレスティア様は楽しそうに見つめている。リシア殿下も、誰かと話しながら、気づけばアレスの方へ顔を向けていた。
一昨日の模擬戦でも感じたことだが、二人がアレスへ向ける目は、友人や仲間へ向けるものとは少し違う。エレナは、もっと早くから気づいていたらしい。
『あなたは、そういうところだけは昔から鈍いのですから』
そう言われた時は心外だったが、今は否定できない。もっとも、最も気づかなければならない本人は、私よりずっと鈍い。
セレスティア様が近づけば、何か用があるのだと思う。リシア殿下が頬を赤くすれば、神聖魔法を使った疲れを心配する。あれほどわずかな気配や動きから敵の攻撃を見抜くというのに、自分へ向けられる好意だけは、どうして見えないのだろう。
そのことを考えていると、アレスがこちらを見た。目が合う。私は何でもないというように杯を上げた。アレスはわずかに首をかしげ、それから目の前にいる老貴族との会話へ戻った。まだ、知らせる必要はないだろう。父親の口から聞くようなことでもない。
いや。
そもそも、私が正しく理解している保証もない。そう自分へ言い聞かせながら、杯へ口をつけた。
◇
祝いの会を終え、迎賓館へ戻ろうとしていた私のもとへ、王家の使者が訪れた。
「国王陛下が、ガレス・アークハルト男爵閣下へ、少しお時間を頂きたいとおっしゃっています」
「今からか?」
「はい。非公式の場にございます」
使者の手に、手紙はなかった。国王の親書による正式な呼び出しではなく、言葉だけの呼び出し。それだけで、通常の話ではないと分かる。
「承知した。すぐに伺う」
そう答えると、使者はもう一つ付け加えた。
「レオナルド・グランベル辺境伯閣下も、同じ場所へお越しになります」
レオも。昨夜の事件について、何か新しい事実が分かったのだろうか。だが、それならば、宰相アルフォンスやヴィクトル王国騎士団長も呼ばれるはずだ。なぜ、私とレオだけなのか。
「アレスは?」
「アレス様は、リシア殿下の自室へお招きされております」
「殿下の自室へ?」
思わず聞き返した。十三歳とはいえ、男爵家の跡継ぎが、夜に王女の私室へ招かれる。通常であれば、決して許されることではない。
「セレスティア様もご一緒です。国王陛下より、特別に許可が出されております。部屋の外には近衛騎士と侍女長が控えますが、中へ入るのは御三方のみと伺っております」
「三人だけで、何を話すのだ?」
「申し訳ございません。私には知らされておりません」
当然だろう。使者の表情を見る限り、本当に何も知らない。アレスたち三人。国王陛下と、レオと、私。まるで、わざと二つに分けられたようだった。胸に小さな不安を覚えながら、私は使者の後へ続いた。
◇
案内されたのは、謁見の大広間でも、会議室でもなかった。王宮の奥にある、小さな客間。王が、心から信頼する者だけを招くための部屋だという。
広さは、アークハルト家の応接室と大きく変わらない。壁には歴代国王の絵ではなく、王国各地の穏やかな風景画が掛けられている。中央に置かれた丸い卓も、豪華ではあるが、相手へ王らしい重みを見せるためのものではなかった。
椅子は三つだけ。卓の上には、一本の酒と、三つの杯。料理も、薄く切った、煙でいぶした肉と、木の実、チーズが少し置かれているだけだった。扉の外には近衛騎士が立っている。
だが、部屋の中に世話役も侍女もいない。
「来たか、ガレス」
国王陛下は、すでに礼装を脱いでいた。濃い紺色の上着をまとい、卓の前へ座っている。王冠もなければ、腰に儀礼剣も身につけていない。向かいには、レオがいた。こちらも辺境伯としての正装ではなく、普段着に近い姿だ。
「遅かったね、ガレス」
「呼び出しを受けて、すぐに来た」
「それでも、私の方が早かった」
「部屋が近かっただけだろう」
「それを含めて、私の勝ちだよ」
相変わらず、何でも勝負にしたがる男だ。だが、その軽口を聞き、わずかに肩の力が抜けた。
「国王陛下におかれましては――」
「待て」
礼を取ろうとした私を、陛下が片手で止めた。
「今夜、その挨拶は不要だ」
「しかし」
「ここへ、お前たち二人を配下として呼んだのではない。少なくとも、酒を飲んでいる間くらいは、もう少し崩してくれ」
そう言われても、相手は国王だ。男爵である私が、簡単に言葉を崩せる相手ではない。私が迷っていると、レオが楽しそうに口を挟んだ。
「陛下。ガレスに急な変化を求めても無理ですよ。昔から、こういうところだけは妙に堅い男ですから」
「お前が崩しすぎなのだ」
「ほら、今の言い方でよいではないか」
陛下が笑った。どうやら、最初からレオと二人で私をからかうつもりだったらしい。
「……承知しました」
「まだ堅いな」
「これ以上は、お許しください」
「まあよい。座れ」
残っていた一つの椅子へ腰を下ろす。陛下は自ら酒瓶を手に取り、私の杯へ金色の酒を注いだ。
「陛下。私が」
「だから、今夜はよいと言っている」
次にレオの杯へ酒を注ぎ、最後に自分の杯を満たす。
「昨日は、多くのことがあった」
陛下が、私とレオの杯を見た。
「それでも、失われずに済んだ命がある。勇者と聖女の《勇聖奉告式》も、無事に終えることができた。まずは、そのことに」
「はい」
「そして、子どもたちが無事に今日を終えたことに」
三つの杯が、中央で小さな音を立てる。一口飲む。口に含んだ途端、豊かな香りが広がった。アークハルト領では、まず手に入らないほど上質な酒だ。
「よい酒ですね」
「先王が大切にしていたものだ」
思わず、杯を置きそうになった。
「そのような酒を、私などへお出しになってよろしいのですか?」
「私など、と言うな」
陛下の声から、笑いが消えた。
「王都には、多くの者がいる。私の言葉へうなずく者も、私を褒める者も、いくらでもいる。だが、国のために違うと思えば違うと言い、危険な場所を黙って守り続けてくれる者は多くない」
陛下は、私とレオを順に見た。
「お前たち二人は、私が背を預けられる数少ない者だ。今夜くらい、よい酒を共に飲ませてくれ」
「そのようにおっしゃっていただけるのであれば」
「私も、喜んでお付き合いしますよ」
レオはそう答えると、迷いなく二口目を飲んだ。
「レオ。少しは味わえ」
「味わっているとも。ガレスの倍の速さで味わえるだけだよ」
「お前は昔から、強い酒ほど水のように飲む」
「ガレスは昔から、一杯飲むたびに難しい顔をする」
「それはお前が飲みすぎるからだ」
二人で言い合っていると、陛下が声を上げて笑った。
「やはり、お前たちを二人で呼んで正解だった」
「陛下が楽しんでいただけたのであれば、何よりです」
「ガレス。そういうところだ」
また何か間違えたらしい。それでも、先ほどまで部屋にあったわずかな緊張は、いつの間にか消えていた。陛下は、アークハルト領までの旅について尋ねた。街道の様子、魔の森に近い村々、この一年で増やした騎士と領兵、新たに設けた見張り台と村ごとの避難場所。私は、領地で進めてきたことを一つずつ話した。
だが、陛下が私とレオを呼んだ理由が、領地の近況を聞くためだけではないことは分かっていた。杯を重ねて言葉が和らいでも、まだ口にされていない何かが、この場には残っている。
陛下は、私たちへ何を話そうとしているのか。減っていく酒を見つめながら、私はその時を待った。




