第172話 《勇聖奉告式》へ
王都の空へ、三度目の鐘が鳴り響いた。
「アレス様、失礼いたします」
背後へ回ったニーナが、礼装のえりを整える。黒を基調とした上着には、アークハルト家の紋章と同じ銀糸の刺繍が施されていた。
普段の訓練着や冒険者装備より、ずっと動きにくい。腕を上げることも、腰を落とすこともできるが、少し大きく動けばしわが寄り、戦えば一刻も経たず破れるだろう。
「やはり、訓練着では駄目か?」
「駄目でございます」
即答だった。
「今日は《勇聖奉告式》だ。俺は主役ではない」
「アレス様も、地竜を倒してAランクへ上がった手柄を、皆の前でたたえられます」
「それは式の最後だろう?」
「最初でも最後でも同じでございます」
ニーナが俺の肩へわずかに手を置き、姿勢を正させる。
「それに、セレスティア様とリシア様も、今日のお姿を楽しみにしていらっしゃると思います」
「なぜ二人が、俺の礼装を楽しみにするんだ?」
尋ねると、ニーナは手を止めた。鏡越しに目が合う。
「……何でもございません」
「今の間は何だ?」
「こちらをお持ちください」
答えの代わりに、白い手袋を渡された。
王都へ着いてから、母上とニーナは時折このような反応をする。理由を尋ねても、二人とも教えてくれない。
何か大切なことを見落としているような気はするが、考えても分からないものへ時間を使うべきではない。今、考えるべきは《勇聖奉告式》だ。
「ニーナ」
「はい」
「頼んでいたものは?」
「こちらに」
ニーナが小さな紙片を差し出した。大神殿の簡単な見取り図に、式へ参列する王族や重臣の位置、王国騎士団と近衛騎士団の配置、正面以外の出入口と避難する道が記されている。
ヴィクトル団長へ警備の再点検を頼んだ後、父上を通じて用意してもらった最新版だ。今朝までに変更された箇所も反映されている。
すべてを記した詳細な図面ではない。客人である俺が知る必要のない通路や、警備上隠すべき場所は省かれている。それで十分だった。
一度目を通し、頭へ刻む。
紙片をニーナへ返す。
「もう、よろしいのですか?」
「覚えた」
「相変わらずでございますね」
ニーナは驚くこともなく紙片を折り畳み、火を灯したろうそく立てへ近づけた。炎が紙の端から広がり、文字が黒く崩れて灰へ変わっていくのを最後まで見届ける。
「そこまで警戒する必要があるのか?」
父上の声がした。振り向くと、父上と母上が隣室から姿を現す。
父上は男爵家当主としての礼装をまとい、腰には儀礼剣を下げている。母上は深い紅色のドレスに、アークハルト家の紋章を象った銀の飾りをつけていた。領地で見る姿とは違い、二人とも王国の大式典へ参列する貴族そのものだった。
「必要がないまま終わることが一番です」
「そうだな」
父上がうなずく。
「ヴィクトル殿から、最終の警備配置が整ったと連絡があった。命令が伝わる順番も、避難する道も再確認したそうだ」
「間に合ったのですか?」
「王国騎士団長の命令だ。昨日から今朝まで、確認に追われた騎士や神官は多いだろうがな」
「申し訳ないことをしました」
「ヴィクトル殿は、何も起こらなければ後で自らわびると言っていた。お前が気にすることではない」
父上はそう答えると、俺の姿を上から下まで見た。
「よく似合っている」
「ありがとうございます」
「本当に」
母上がうれしそうに目を細める。
「一年で随分と背も伸びましたね。黒い髪にも、よく似合っています」
「動きにくいですが」
「今日は戦うための服ではありません」
ニーナと同じことを言われた。
「それに、その姿をご覧になれば、お二人ともきっと――」
母上が、そこで言葉を止める。ニーナへ目を向けると、二人はなぜか小さくうなずき合った。
「お二人とも?」
「参りましょう、アレス。セレスティア様とリシア様をお待たせしてはいけません」
また、教えてもらえなかった。
◇
王宮の正面玄関には、すでに多くの者が集まっていた。
国王陛下とアリアーヌ第二王妃。三人の王子。セレスとリシア。レオナルド・グランベル辺境伯夫妻。
宰相アルフォンス・ベルクハルト公爵、テオドール・ヴァレンティス侯爵をはじめとする王国の重臣たち。白銀の鎧をまとったヴィクトル団長と、近衛騎士たちも並んでいる。
俺たちが到着すると、セレスが真っ先にこちらを向き、青い瞳を大きく見開いた。
「わあ……」
小さな声が聞こえた。
今日のセレスは、白と青の儀礼衣装をまとっていた。身体の線に沿う白い上着へ青い布を重ね、腰には勇者の剣を下げている。
一見すれば華やかな礼装だが、足運びを妨げる長い裾や、動きを制限する飾りはない。式典の途中で何かが起きても、すぐに剣を抜ける。セレスらしい装いだった。
「おはよう、アレス君!」
周囲に王族や重臣がいることを思い出したのか、駆け寄りはしなかった。それでも、声はいつもと変わらず明るい。
「おはようございます、セレス様」
「礼装、すごく似合ってる。黒も格好いいね!」
「ありがとうございます」
素直に礼を返すと、セレスの隣に立つリシアと目が合った。
白銀の髪は、淡い青色の宝石を散りばめた髪飾りでまとめられている。身につけているのは、純白に銀糸の刺繍を施した聖女の法衣。重ねられた薄布は朝の光を受けるたび、雪の表面のような柔らかな輝きを返していた。
右手には白銀の杖がある。普段の王女としての礼装も美しいが、大神殿へ向かう今の姿は、まるで女神像から抜け出してきた女神の使いのようだった。
「おはようございます、アレス様」
「おはようございます、リシア様」
「その……」
リシアの視線が俺の髪から胸元へ下り、すぐに顔へ戻る。
「とても、お似合いです」
「ありがとうございます。リシア様も、大変お美しいです」
「えっ」
青紫の瞳が大きく見開かれ、白い頬が見る間に赤く染まっていく。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です」
「またお顔が赤くなっていますが」
「本当に、大丈夫ですから」
リシアは胸元へ手を添えると、少しだけ顔をそらした。今朝は涼しい。大神殿へ入る前から体調を崩しているのであれば、無理をさせるべきではないのだが。
「アレス君」
セレスが、少しだけ頬を膨らませている。
「何でしょうか?」
「リシアだけ?」
「何がですか?」
「きれいだって言うの」
「セレス様も、大変お美しいと思います」
「本当?」
「はい。王都へ到着された時も美しいと思いましたが、今日の礼装もよくお似合いです」
セレスの頬まで、わずかに赤くなった。
「そ、そう。ありがとう」
「やはり、お二人とも体調が――」
「違うよ!」
「違います!」
二人の声が重なる。先日も同じことがあった。
すぐそばにいた母上が片手で口元を隠している。ニーナはうつむいているが、肩がわずかに揺れていた。
「何がおかしいんだ?」
尋ねても、ニーナは首を横へ振るだけだった。
「何でもございません」
やはり分からない。
「出発するぞ」
国王陛下の声が響き、王宮の正門が開かれた。門の外から、待ちわびた民の歓声が押し寄せる。
俺は祝福の道へ進むセレスとリシアを見ながら、警戒を解かずにその後へ続いた。これほどの光が集まる日だからこそ、影は紛れ込みやすい。
開かれた門の先、祈りの列に紛れた一人の男を――この時の俺は、まだ見つけていなかった。




