第170話 一合だけの勝負
互いに一度だけ攻撃を放ち、その技を比べる。純粋な力比べではない。だが、わずか一合だからこそ、互いの技量がはっきり表れる。
「分かりました」
「アレス様」
ダリオが、俺の名を呼ぶ。
「どうした?」
「お止めはいたしません。ただし、ここは客室でございます」
当然だ。俺たちは、王国騎士団が使う内庭の一つへ移動した。中央訓練場よりずっと狭い。それでも、一合を交わすには十分な広さがある。
内庭は一時的に他の者の利用を禁じられ、周囲にはヴィクトル団長が信頼する近衛騎士が二人立った。俺の側からは、ダリオとニーナが見届ける。ヴィクトル団長は、騎士服の上へ訓練用の胸当てだけを着けた。余計な観客はいない。
「木剣になさいますか?」
ダリオが尋ねた。
「いや」
ヴィクトル団長は、腰の剣へ手を置いた。
「使うのは、これだ」
ニーナの表情がわずかに強張る。ダリオは止めなかった。
剣士が長く使い続けた剣は、その者の身体の一部に近い。木剣へ持ち替えれば、間合いも重さもわずかに変わる。王国最強の本当の一合を見るならば、あの剣でなければ意味がない。
俺は、《鑑定眼》を開いた。右眼の奥が、かすかに熱を持つ。
ヴィクトル・クラウゼン。
王国騎士団長。
《鑑定眼》に映ったのは、《剣術》、《闘気》、《身体強化》、《剣理》、《見切り》、《戦場把握》、《統率》。さらに、《斬撃耐性》、《刺突耐性》、《疲労耐性》、《精神耐性》まで身につけている。
魔法も、特別な固有ギフトもない。
だが、剣技、肉体、闘気、経験。そして、一人の敵から戦場全体まで見渡す力。そのすべてを、常人では届かない領域まで磨き上げていた。
中でも目を引くのは、《剣理》と《見切り》。
《剣理》は、王国中の流派に触れ、その長所と本質を理解し、自らの剣へ取り込んだ者にだけ宿る力。《見切り》は、相手の視線、呼吸、重心、筋肉、闘気のわずかな動きから、次の一手を読み取る力だ。
未来を予知しているわけではない。
何度もの死線を越えて積み重ねた経験が、二つのスキルへ昇華している。
《鑑定眼》には、スキルをどこまで使いこなしているかまでは映らない。それでも、その立ち姿を見れば十分だった。
王国最強。
大げさな呼び名ではない。
「何か見えたか?」
ヴィクトル団長が尋ねる。
「お強い方だと、改めて分かりました」
「それだけか?」
「王国最強と呼ばれる理由も」
「そなたに言われても、素直には喜べぬな」
ヴィクトル団長が剣を抜いた。静かな音だった。たださやから刃が離れただけなのに、周囲の空気が張り詰める。
剣先が下がる。右足が前。構えだけを見れば、隙だらけだった。頭も、肩も、胸も空いている。どこへ攻撃しても届きそうに見える。
違う。どこへ踏み込んでも、あの剣が先に届く。攻める者へ、好きな場所を選ばせる構えだ。
「剣へ闘気はまとわせぬ」
ヴィクトル団長が告げる。
「そなたも、闘気は使わずに受けよ」
「承知しました」
俺は左足を前へ出し、両手を軽く開いた。先ほど、セレス様へ見せたものと同じ構え。しかし、意識は違う。
セレス様の剣は、俺へ届かせるための剣だった。ヴィクトル団長の剣は、敵を斬るための剣だ。たとえ一合であっても、油断すれば血を見る。
「いつでもよい」
ヴィクトル団長の言葉へうなずく。
風が止まった。内庭から、すべての音が消える。
ヴィクトル団長は動いていない。それなのに、首筋へ刃を当てられているような感覚があった。俺がどちらへ動いても、その瞬間に剣が来る。
ならば。先に、その場所へ入る。
石床を踏んだ。同時に、ヴィクトル団長の姿が消える。
銀の線が見えた。横なぎ――そう見せた突きだ。さやから抜いた時には下がっていた剣先が、最短の軌道で俺の胸へ伸びてくる。
速い。セレスの最後の一撃よりも。
俺は半歩だけ右へ踏み、身体を傾けた。刃が訓練着の表面をかすめる。そのまま剣の内側へ入り、右手でヴィクトル団長の手首へ触れ、突きの軌道をわずかに外した。
左の手のひらを胸へ向ける。
届く。
そう思った瞬間、ヴィクトル団長の手首が返った。外へ流したはずの剣が、俺の脇腹へ戻ってくる。
無理に引き戻したのではない。俺が手首へ加えた力を使い、剣を回したのだ。
さすがだ。俺は左の手のひらを止めない。ヴィクトル団長も、剣を止めなかった。二つの攻撃が交差する。
次の瞬間。俺の手のひらは、ヴィクトル団長の胸当てへ触れていた。ヴィクトル団長の刃は、俺の脇腹へ触れる寸前で止まっている。
内庭へ、静けさが戻った。
「……そこまで」
声を発したのはダリオだった。ヴィクトル団長が剣を引く。俺も手のひらを下ろし、一歩離れた。
「おけがはございませんか?」
ニーナが、すぐに駆け寄ってくる。
「大丈夫だ。刃は触れていない」
訓練着にも傷はなかった。
「私の負けだな」
ヴィクトル団長が言った。
「いいえ。実戦であれば、私も無傷では済みませんでした」
「そなたの手のひらが先だ」
「防具の上からです。私が打ち抜くより先に、団長の剣が脇腹へ届いていた可能性もあります」
「それは、そなたが左手しか使わなければの話だ」
ヴィクトル団長の視線が、俺の右手へ向く。俺の右手は、最後まで手首へ添えたままだった。
「あの場で右の拳を使うことも、肘で腕を折ることもできただろう。それに、そなたは剣を壊す力も隠している」
「禁止されておりましたので」
「だから、私の負けだ」
ヴィクトル団長はそう言うと、剣をさやへ納めた。悔しがってはいない。むしろ、楽しそうだった。
「王国最強と呼ばれて長いが、一合でここまで内側へ入られたのは久しぶりだ」
「私は、団長の剣を完全には外せませんでした」
「十三歳の少年に慰められるほど、落ちぶれてはおらぬ」
低い笑い声が響く。
「アレス殿。そなたが、ただ強いだけではないことは分かった」
笑みが消える。ヴィクトル団長の目が、真っ直ぐに俺をとらえた。
「誰に、その体術を教わった?」
答えられない問いだった。俺の体術は、六十年以上の戦いの中で身につけたもの。師は一人ではない。
戦った騎士。共に戦った冒険者。拳を交えた獣人。そして、俺を殺そうとした魔族や魔物。そのすべてが、今の俺を作っている。
「多くの方から学びました」
「名は?」
「申し訳ありません。許可なく、お名前を明かすことはできません」
うそではない。名を明かす許可など、得られるはずもなかった。すでに、この世にいない者も多い。
ヴィクトル団長は、しばらく俺を見つめていた。
「分かった。これ以上は聞かぬ」
「ありがとうございます」
「だが、もう一つだけ教えよ」
「何でしょうか」
「そなたは、何を恐れている?」
予想していなかった問いだった。
「恐れている、とは?」
「先ほどの模擬戦で、そなたはセレスティア様を見ているようで、常に周囲も見ていた」
ヴィクトル団長が、中央訓練場の方角へ目を向ける。
「観覧席。出入口。結界を張る魔術師。王族の背後に立つ近衛騎士。誰かが動くたび、わずかに意識を向けていた」
気づかれていたか。
「戦いの途中だけではない。昨日の謁見でも同じだ。そなたは、王宮へ招かれた十三歳の少年の目をしておらぬ」
ヴィクトル団長の声は静かだった。責めているわけではない。答えを急かしてもいない。
「何かが起きると、考えているのか?」
時律の禁約。俺は、過去へ戻った事実を誰にも伝えられない。これから起こる未来を、そのまま教えることもできない。
だが、俺が何を恐れているのか。それだけならば、話せる。
「失うことです」
口にした瞬間、滅びた世界の光景を思い出す。
崩れた屋敷。燃える領地。守れなかった家族。倒れた仲間。勇者も、聖女も、世界樹も失い、何も残らなかった世界。
「守れるだけの力を持ちながら、気づくのが遅れ、手が届かなくなることを恐れています」
「だから、常に周囲を見るのか」
「はい」
「王宮の中でも?」
「王宮だからこそ、です。何かが起きてからでは、遅いのです」
失ってからの後悔では、何一つ取り戻せない。
そのことを、俺は誰よりも知っている。
俺の答えを聞いても、ヴィクトル団長は視線を外さなかった。
ただ黙って、俺の胸の内を見定めようとしていた。




