第168話 手加減への怒り
わたくしはセレスを長椅子へ座らせ、治癒魔法をかけた。重傷はない。手のひらにわずかな擦り傷があり、拳を受けた衝撃で両腕に軽いしびれが残っているだけだった。アレス様は、本当に最後まで力を操作していたのだ。
観覧席では、戦いを見届けた騎士たちが、今も興奮を抑えきれない様子で言葉を交わしていた。
「最後の切り返し、見えたか?」
「黒髪が舞って、ようやく届いたと分かった」
「それを投げ、寸前で拳まで止めたのだぞ……」
決着の瞬間に上がった歓声の余韻が、まだ訓練場に残っていた。
「もう一度やりたい」
治療を受けながら、セレスが言う。
「今すぐですか?」
「できれば」
「駄目です」
答えたのは、わたくしとローズ伯母様とミレイユの三人だった。声がきれいに重なる。
「まだ動けるよ」
「動けることと、続けてよいことは別です」
「でも、次ならもっと――」
「セレス」
ローズ伯母様が名前を呼ぶ。
「……今日は、やめておきます」
セレスが大人しく引き下がった。その様子を見て、アレス様が小さく笑う。
「次もお相手します」
「本当?」
「はい。私も、セレス様との模擬戦から学ぶことがありました」
「アレス君にも?」
「戦いの途中で、あれほど動きを変えられたのは久しぶりです。最後の一撃も、私が最初に見たセレス様の剣にはなかったものでした」
「だったら、次は髪じゃなくて、ちゃんと一本取るから」
「楽しみにしております」
セレスの頬が、また赤くなる。今度は、激しく動いたからではない。治癒を終えた身体からは熱も引き、呼吸も落ち着いている。それなのにアレス様が笑いかけるたび、胸元へ置いた手へ力が入っていた。
「アレス殿」
ヴィクトル団長が近づいてくる。
「はい」
「見事だった。セレスティア様もな。十二――いや、十三歳の模擬戦とは思えぬものを見せてもらった」
「ありがとうございます」
「ありがとうございます!」
「特にセレスティア様。追い詰められてからの変化は見事だった。あの最後の一撃は、私でも初見ならばわずかに対応が遅れただろう」
「おおっ!」
観覧席の騎士たちが一斉に沸いた。王国最強と呼ばれるヴィクトル団長が、十三歳のセレスの一撃を公に認めたのだ。
ローガン殿は腕を組んだまま大きくうなずき、レオナルド伯父様は隠しきれない笑みを浮かべていた。父も満足そうに、セレスへ目を向けている。
セレスが驚き、すぐにうれしそうな笑顔を浮かべる。
「では、次はヴィクトル団長とも戦ってもらえますか?」
「まずは身体を休められよ」
「次に会った時でもいいです」
「その時は、考えよう」
「約束ですからね!」
「おおっ!団長が!」
今度は、観覧席の騎士たちが期待の声を上げた。勇者と王国最強の模擬戦が、いつか本当に見られるかもしれない。
ユリウスお兄様とフィリップ王子は目を輝かせ、クラウディウス第一王子も興味深そうにヴィクトル団長へ視線を向けていた。ヴィクトル団長が一度咳払いすると声は収まったが、誰の顔からも期待は消えていなかった。
ヴィクトル団長は返事をせず、今度はアレス様へ向き直った。
「そして、アレス殿。セレスティア様は、戦いながら何度も動きを変えた。それでも、そなたは一度も主導権を手放さなかった」
ヴィクトル団長の鋭い視線が、アレス様へ注がれる。
「危険な一撃だけを封じ、セレスティア様が力を出せる間合いは残していた。大きな力の差と、それを扱う技量がなければできぬことだ」
「ありがとうございます」
「だが、それでも、そなたはまだ相当の力を隠しているな」
訓練場の空気が、わずかに変わる。父や宰相、テオドール侯爵まで、二人の会話へ耳を傾けていた。
「隠していたわけではございません。模擬戦に必要な力だけを使いました」
「では、先ほどが全力ではないことは認めるのだな?」
「はい」
「先ほど以上があるというのか……」
父の低い声が、静まり返った観覧席へ落ちた。騎士たちの間に、抑えきれないどよめきが広がる。
レオナルド伯父様は笑みを消さなかった。楽しげだった瞳に、《雷帝》として強者を見定める鋭さが加わっていた。ガレス男爵とダリオ殿が驚いていないことが、アレス様の言葉を何より確かなものにしていた。
アレス様はごまかさなかった。観覧席が、静かになる。
「どの程度だ?」
「申し訳ありません。一人の相手へ全力を向ける機会は、長らくありませんでした」
淡々とした言葉だった。自慢しているようには、少しも聞こえない。だからこそ、誰もすぐには言葉を返せなかった。
王国最年少のAランク冒険者。Sランク下位指定魔物である地竜を倒した少年。わたくしたちは、その手柄を知っていた。それでも、まだアレス様の本当の強さを知らない。
「セレスは、私の想像を越えるほど強くなっていた。それでもアレス君は、最後まで技の名を一つも口にしていない。……まだ底が見えないな」
レオナルド伯父様は、娘の成長を喜びながら、その先にいるアレス様をまっすぐに認めていた。けれど、瞳に浮かんでいるのは称賛だけではない。《雷帝》としての好奇心が、隠しきれないほど輝いている。
「ガレス。いつか、私も一度アレス君と戦ってみたい」
「やめておけ」
ガレス男爵の返事は早かった。
「今すぐとは言っていないよ。少し、どこまで通じるか確かめたいだけだ」
「お前がその顔で言う『少し』を信用できるほど、付き合いは浅くない」
「長い付き合いだけあって、よく分かるね」
レオナルド伯父様は小さく笑った。それでもアレス様を見る目は、いつか本当にその力を確かめたいと願う、戦う者の目だった。
セレスの青い瞳に、怒りが宿った。敗北したことよりも、自分がアレス様の全力を引き出せなかったことが悔しいのだろう。
「アレス君」
セレスが立ち上がった。
「だったら、いつか私が、アレス君に全力を出させるよ」
迷いのない声だった。
「今日より強くなって、次も、その次も戦って。いつか絶対に」
アレス様が、セレスを見る。その目に浮かんだのは、子どもの無謀な夢を聞いた者の笑みではなかった。一人の武人が、未来の好敵手へ向けるような、真剣な目。
「お待ちしております、セレス様」
セレスが息をのんだ。また胸元を押さえている。わたくしには、その理由が少しだけ分かる気がした。
◇
模擬戦から戻った後、セレスはわたくしの寝室へついてきた。自分の部屋へ戻るようミレイユから言われても、「リシアと話があるから」と譲らなかった。
侍女たちが着替えを手伝い、飲み物を用意して部屋から下がる。二人きりになった途端、セレスは寝台へ倒れ込んだ。
「セレス。汗を流したばかりなのですから、髪を乱さないでください」
「だって、疲れたんだもん」
「先ほど、もう一度戦えるとおっしゃっていたでしょう?」
「あの時は戦えたよ。でも、今はもう駄目」
セレスが寝台の上であお向けになる。天蓋を見つめ、何も言わない。
いつものセレスなら、模擬戦の後は最初から最後まで、自分が何を考え、相手がどのように動いたのかを話し続ける。今日も話したいことは、いくらでもあるはずだ。それなのに、妙に静かだった。
「どうしたのですか?」
「分からない」
「何がです?」
「ずっと、胸がどきどきしてるの」
やはり。
「模擬戦の疲れではありませんか?」
「最初は、私もそう思った。でも、リシアに治してもらって、呼吸も戻ったのに、アレス君を見るとまた速くなるんだよ」
セレスが胸元へ手を置く。
「手を引いてもらった時なんて、戦ってる時よりすごかった」
そこまで正直に言われると、わたくしまで恥ずかしくなる。
「アレス君の拳が速かったから、身体がまだ驚いているのではありませんか?」
「今、私が昨日リシアへ言ったことと同じ言い訳をしてない?」
「言い訳ではありません」
「じゃあ、リシアもまだ緊張してるだけ?」
「……わたくしの話はしていません」
セレスが身体を起こし、じっとわたくしを見る。
「ねえ、リシア」
「何ですか?」
「これって、恋なのかな?」
胸の奥へ、ちくりと小さな痛みが走った。けれど、嫌ではなかった。セレスがアレス様を素晴らしいと思ったことが、なぜかうれしくもある。
わたくし自身の心さえ分からないのに、セレスの気持ちへ答えを出すことなどできなかった。
「わたくしにお尋ねにならないでください」
「どうして?」
「わたくしも、分からないからです」
「やっぱり、リシアも?」
「何のことでしょう」
「アレス君を見ると、どきどきするんでしょ?」
「……少しだけです」
「少し?」
「少しです」
「昨日、窓から見た時、『は、はい』ってなってたよ」
「セレス」
「謁見の時も、庭のあずまやで名前を呼ばれた時も、ずっと顔が赤かった」
「セレスも、先ほどから同じです」
「私は、今日初めてだよ」
「いつからかは、関係ありません」
「私は戦ってから。リシアは見た瞬間」
「その言い方はやめてください」
「やっぱり、一目ほれ?」
「違います!」
思わず、強く否定した。セレスが楽しそうに笑う。
「リシア、声が大きいよ」
「セレスが、おかしなことを言うからです」
「でも、私もよく分からない」
笑いを収めたセレスが、自分の右手を見つめる。先ほどまで、アレス様の手を握っていた手。
「アレス君と戦ってる時、すごく楽しかった。どれだけ速くしても避けられて、今までできなかったことが、戦ってる途中でできるようになって」
「はい」
「負けたのに、悔しいだけじゃないの。もっと戦いたい。もっと強くなって、次は驚かせたい」
セレスの頬が、わずかに赤くなる。
「それに……戦ってない時のアレス君のことも、もっと知りたい」
「戦っていない時も?」
「うん。何が好きなのか。いつもどんな訓練をしてるのか。どうしてあんな考え方をするのか。私たちが無事でよかったって、どうしてあんな顔で言ったのか」
それは、わたくしも知りたいと思っていたことだった。
「好敵手として気になるだけかもしれない。初めて負けたから、興奮してるだけかもしれない。恋なのかもしれない。でも、今はまだ分からない」
セレスは、そこで言葉を止めた。青い瞳が、真っ直ぐにわたくしへ向けられる。
「ただ、アレス君に、昨日よりずっと心を引かれてる。それだけは分かるよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあった小さな痛みが、少しだけ強くなった。これが、やきもちなのかもしれない。けれど、セレスへ隠したくはなかった。
「わたくしもです」
「え?」
「アレス様のことを、もっと知りたいと思っています」
口にすると、胸がさらに速く鳴った。自分へ言い聞かせていた言葉が、少しずつ崩れていく。
一目ほれではない。尊敬していた相手へ会えたから。想像していたより整った方だったから、驚いただけ。
何度繰り返しても、アレス様の黒髪や目、名前を呼ぶ声を思い出すだけで胸が高鳴る。
「では、二人で確かめましょう」
「何を?」
「この気持ちが何なのか。そして、アレス様がどのような方なのか」
「うん!」
セレスがうれしそうにうなずく。
「でも、次に模擬戦を申し込むのは私だからね」
「わたくしは模擬戦を申し込むつもりはありません」
「じゃあ、アレス君と話すのは?」
「それは、わたくしもご一緒します」
「抜け駆けはなしだよ?」
「セレスこそ」
二人で見つめ合う。やがて、どちらからともなく笑った。
勇者と聖女。誰もが、わたくしたちをそう呼ぶ。けれど今は、初めて知った胸の高鳴りに戸惑う、ただの十三歳の少女だった。
わたくしは、姿を見た瞬間に。セレスは、剣と拳を交えた末に。始まり方は違っても、二人の心には同じ少年の姿があった。
それが恋なのか。まだ、この時のわたくしたちには分からなかった。
ただ一つ、確かなことがある。セレスにとって、今日の模擬戦は初めて心から負けることを楽しめた戦いだった。そしてアレス様は、昨日よりもずっと大きな存在として、わたくしたち二人の胸へ残った。
けれど、その思いを向けられたアレス様が、わたくしたちの変化にまるで気づいていないことを、この時のわたくしたちはまだ知らなかった。




