第167話 勇者がもぎ取った一撃
『婚約破棄され、冒険者パーティも追放されたモブ貴族です~前世の知識と転生特典で借金を返して楽しく生きるつもりが、いつの間にか英雄になりそうです~』
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先ほどとは比べものにならない速さで、セレスの姿がかき消える。わたくしの目で追えたのは、青い光の残像だけだった。
「消えたっ」
誰かが叫ぶ。
甲高い音が響く。アレス様が初めて腕を上げ、闘気をまとわせた右手の甲で、振り下ろされた剣の腹を受け流していた。
「つかまえた!」
セレスが笑う。剣を流された勢いへ逆らわず、その場で身体を回転させた。青い髪が円を描き、回転の勢いを乗せた蹴りがアレス様の脇腹へ迫る。
アレス様の左手が、足首へ添えられる。つかんではいない。ほんのわずかに軌道を変えただけだった。
「えっ?」
蹴りが空を切り、セレスの身体が傾く。しかし、倒れない。片手を床へつき、そのまま跳ねるように距離を取ると、着地と同時に再び剣を構えた。
「今のも避けるんだ」
「よい連携でした」
「褒めても、次は止めないよ」
「楽しみにしております」
アレス様の両足が、わずかに開いた。左足を前へ出し、両手を胸の前で軽く開く。
初めて、構えた。それを見たセレスの笑みが、さらに深くなる。
「おお……」
観覧席の騎士たちから、期待のこもった低い声が漏れた。それまで動きを追うのに精一杯だった者たちも、一斉に身を乗り出している。
「ここからだな」
ローガン殿がつぶやく。ダリオ殿は無言でうなずき、二人から片時も目を離さなかった。
「やっと、戦ってくれるんだね」
「最初から、そのつもりです」
「さっきまでは避けてただけでしょ?」
「セレス様の剣を知る必要がありました」
「もう分かった?」
「おおよそは」
「私の剣は、そんなに簡単じゃないよ」
セレスが踏み込み、同時にアレス様の姿も消えた。二つの影が訓練場の中央で交差し、剣と拳が触れ合うたび、乾いた衝撃音が響く。
アレス様の手のひらが剣の腹へ触れる。セレスは刃を引き、次の斬撃へつなげた。拳が肩へ迫れば、身を沈めて足元をなぐ。アレス様が宙へ浮くと、その着地点へ剣が突き込まれる。
空中では避けられない。そう思った。
けれど、アレス様は迫る剣の腹へ足先を触れさせ、その力を使って空中で身体の向きを変えた。黒い訓練着が翻り、着地した時にはセレスの背後にいた。
「後ろです!」
わたくしが声を上げるより早く、セレスが振り返りながら剣をなぐ。だが、アレス様はすでに離れていた。
観覧席から大きなどよめきが起こった。王国騎士たちでさえ二人の姿を追い切れず、衝撃音が響くたびに「おおっ!」と声を上げている。
「剣を受けたのではない。セレスの剣が突き込まれる勢いまで、自分の動きへ変えたのか」
レオナルド伯父様の瞳が、驚きと喜びに輝く。
「速さだけではない。相手の攻撃まで、自分の動きの一部にしている。あれほど無駄のない動きは、そう見られるものではないね」
その隣で、ガレス男爵は驚きながらも、どこか誇らしそうにアレス様を見つめていた。
「リシア、教えちゃ駄目だよ!」
「も、申し訳ありません!」
「リシア様のお声がなくても、今の一撃は防がれておりました」
「分かってるけど、アレス君はどっちの味方なの?」
「味方、ですか?」
アレス様が本当に分からないという顔をする。戦いの途中だというのに、観覧席からまた笑い声が漏れた。
「セレス! 今は模擬戦へ集中してください!」
「分かってる!」
セレスが剣を構え直す。けれど、その表情には少しもいら立ちがない。ローガン殿との模擬戦でも、レオナルド伯父様との魔法戦でも見たことがないほど、楽しそうに笑っている。
「もっと速くしても大丈夫ですか?」
アレス様が尋ねた。
「もちろん!」
「では、参ります」
アレス様の身体から、淡い闘気が立ち上った。空気が変わる。
強い。そのような言葉だけでは足りなかった。圧倒的な力を持つヴィクトル団長やレオナルド伯父様と向き合った時、周囲の空気は重くなる。
アレス様の闘気は、それとは違う。どこまでも澄み切り、研ぎ澄まされていた。一見すれば静かで穏やかだが、触れれば何もかも貫いてしまう。そのような恐ろしさがある。
ヴィクトル団長が目を見開き、ローガン殿の表情から笑みが消える。ダリオ殿だけは、知っていたように腕を組んでいた。
「闘気の量に目を奪われてはならない。恐ろしいのは、あの制御だ。拳、足、体幹へ、必要な瞬間だけ闘気を巡らせている」
ヴィクトル団長は、アレス様の一挙一動を見逃すまいと目を凝らしていた。
「しかも、セレスが受け切れる強さへ正確に抑えている。力が大きいだけでは、あの戦い方はできないね」
レオナルド伯父様の声は弾んでいたが、戦況を見つめる目は鋭いままだった。
「あれで、どの程度なのだ?」
父の問いへ、ダリオ殿が答える。
「アレス様にとっては、まだ入り口にございます」
「あれで……」
クラウディウス王子の声が漏れた。わたくしも、無意識に両手を胸の前で重ねていた。
怖いわけではない。アレス様ならば、セレスを傷つけない。そう信じている。それでも、目をそらすことができなかった。
次の瞬間、アレス様がセレスの目の前にいた。
「――っ!」
セレスが剣を立てる。拳が刀身へ触れ、爆発したかのような音が響いた。セレスの身体が後ろへ押し出され、両足が石床へ二本の線を刻む。それでも、剣は手放していない。
「受け止めたぞ!」
騎士の一人が叫び、それを合図に「消えた!」「おおおっ!」「速すぎて、追えないっ!」「なんという戦いだ!」と口々に歓声が湧き上がった。
「見事だ、セレスティア!」
父も席から身を乗り出し、力強い声を送る。ヴィクトル団長の口元にも、ほんのわずかに笑みが浮かんでいた。
「重い……!」
声は苦しそうなのに、口元は笑っていた。アレス様が踏み込む。
右の拳を、セレスが剣で受ける。左の手のひらは、身体をねじって避ける。足元を狙う払いには、剣を床へ突き立て、それを支えに跳び越えた。
アレス様の攻撃は、一つ一つが速く、重い。ただ力任せに放っているのではない。セレスが受ければ次の体勢を崩し、避ければその先へ次の攻撃が置かれている。まるで、何手も先まで決められているかのようだった。
セレスは防ぐだけで精一杯になっている。それでも、青い瞳はアレス様から少しも離れない。拳を受け、攻撃を避けるたび、セレスの動きが変わっていく。
最初は力で受け止めていた拳を、わずかに剣の角度を変えて流す。二度続けて狙われた足元は、三度目には攻撃が始まる前に退く。アレス様の肩が動いた瞬間には、剣を防御へ戻していた。
「速くなっている……」
ユリウスお兄様がつぶやいた。
「セレスティアが、か?」
「はい。アレス殿の動きへ、戦いながら適応しています」
「同じ受け方を二度としていない。追い詰められながら、アレス殿の拳を学んでいる。……あれが《勇者》か」
ヴィクトル団長の声には、感嘆が混じっていた。
わたくしにも分かる。セレスは、今この瞬間にも強くなっている。教えられたわけではない。アレス様の拳を受け、避け、追い詰められる中で、その動きを自分のものへ変えようとしている。
「すごいです、セレス……」
胸が熱くなる。幼い頃から、セレスは誰よりも負けず嫌いだった。転べば、同じ場所で二度と転ばない。一度できなかったことは、できるまで繰り返す。そのセレスが、今は自分より強い相手を見つけ、心から戦いを楽しんでいる。
「アレス君!」
セレスが剣を振り抜き、アレス様が半歩下がった。
「こんなに楽しいの、初めて!」
青白い闘気が、さらに強く燃え上がり、セレスの姿が再び消える。
正面からの突きを、アレス様が首を傾けて避けた。その動きを待っていたように、セレスが剣から左手を離し、空いた手でアレス様の右腕をつかもうとする。アレス様が腕を引いた、その一瞬。
セレスは踏み込んでいた右足を軸に身体を回し、剣の軌道を強引に変えた。狙いは、最初から突きではない。避けた先へ、横なぎの刃が迫る。
アレス様の黒髪が、わずかに舞った。
一本。切れた黒髪が朝日にきらめきながら、二人の間へ落ちていく。
「届いた……!」
セレスの顔が輝き、アレス様は驚いたように目を見開いていた。
「見事です」
心からの言葉だと分かった。
「届いた!」
フィリップ王子が思わず立ち上がった。次の瞬間、「おおおおおっ、凄いぞ!勇者様!」という歓声が観覧席から爆発する。ユリウスお兄様も目を見開き、クラウディウス王子さえ肘掛けから身を起こしていた。
「今の一撃は、アレス君が譲ったものではない。避けた先へ本命を置き、セレスが戦いの中で組み立てた一撃だ」
レオナルド伯父様は、満足そうに目を細めた。
「よく届かせたね。だが、アレス君の流れは崩れていない」
娘の成長を喜びながらも、その視線はすでにアレス様の重心へ戻っている。父も力強くうなずき、ローガン殿は固く拳を握っていた。ガレス男爵とダリオ殿も、予想を越えた一撃に目を細めている。
「まだ終わってないよ!」
セレスが、さらに前へ出る。だが、今度はアレス様が待っていなかった。踏み込んだセレスの手首へ手のひらが添えられ、剣の勢いが横へ流される。体勢を崩したセレスの懐へ、アレス様の肩が入った。
次の瞬間、セレスの身体が宙へ浮いていた。投げられたのだ。
それでもセレスは剣を離さず、空中で身体を丸める。受け身を取り、そのまま立ち上がろうとした。
速い。けれど、アレス様はさらに速かった。セレスが片膝をついた時には、目の前へ闘気をまとった拳が止まっていた。まゆの間まで、指一本。
もし、その拳が振り抜かれていれば――考える必要もなかった。
「そこまで!」
ヴィクトル団長の声が響き、訓練場から音が消える。アレス様の拳からも闘気が消えた。
セレスは片膝をついたまま、目の前にあった拳を見つめている。悔しそうには見えなかった。驚き、興奮、そして、これまで見たことがないほどの喜び。いくつもの感情が、青い瞳の中で輝いていた。
「勝者、アレス・アークハルト」
ヴィクトル団長が告げると、観覧席から大きな拍手が起こった。父も母も、王子たちも両家の両親も、二人の戦いを称えている。
その拍手はすぐに、二人の名を呼ぶ歓声へ変わった。
「見事だった!」
「勇者セレスティア!」
「アレス殿!」
騎士たちが惜しみなく声を上げる。父は二人へ拍手を送り、レオナルド伯父様とガレス男爵も誇らしげにうなずいていた。ローガン殿とダリオ殿も、それぞれが仕える家の若者へ、惜しみない拍手を送っている。
だが、セレスはその音も聞こえていないように、アレス様だけを見つめていた。
「負けちゃった」
「はい」
「そこは、もう少し慰めてくれてもいいんじゃない?」
「セレス様は、慰めを望んでおられますか?」
「ううん」
セレスは笑った。
「次は、勝ちたい」
「私も負けるつもりはありません」
アレス様が手を差し伸べる。セレスはその手を見た後、迷わずつかんだ。軽く引かれて立ち上がり、二人の距離、そして顔が近づく。
「おけがはありませんか?」
「大丈夫」
そう答えたセレスの声が、ほんのわずかに上擦った。頬が赤い。激しく動いたからだろう。そう思った。
けれど、セレスの胸元に重ねられた手と、アレス様からそらせなくなっている瞳を見て、別の考えが浮かぶ。
まさか――。
「セレス?」
「な、何?」
「いえ……」
今のセレスは、昨日初めてアレス様を目にした時のわたくしと、よく似ている。
「リシア様。セレス様の状態を見ていただけますか?」
「はい」
アレス様が振り返る。戦いの途中とは違う、穏やかな瞳と目が合った。今度は、わたくしの鼓動が大きく跳ねる。
何も変わっていない。模擬戦が終わっても、わたくしはアレス様と話すだけで、この有り様だった。
すぐそばにいるセレスを見る。セレスも胸元へ手を置いたまま、アレス様を見つめている。どうやら、困っているのはわたくし一人ではなくなったらしい。
けれど、安心したはずの胸の奥で、新しい問いが芽を出していた。
セレスとわたくしを同時に惑わせる、この高鳴りの名は何なのだろう。
少しでも面白い、先が気になると思っていただけましたら、
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