第166話 初めて心躍る戦い
翌朝、王宮中央訓練場へ着いた時には、アレス様はすでにそこにいた。
昨日の礼装とは違い、身につけているのは黒を基調とした簡素な訓練着だ。腰に剣はなく、手甲さえつけていない。朝日を受けた黒髪が、さらりと揺れる。ただ立っているだけなのに、どうしても目がそこへ引き寄せられてしまう。
胸が、とくんと鳴った。昨日から何度、同じことを繰り返しているのだろう。これは一目ほれなどではない。報告書の中で尊敬していた方と実際に会えた緊張が、まだ残っているだけだ。そう言い聞かせても、鼓動は少しも聞き分けてくれなかった。
「早いね、アレス君!」
隣にいたセレスが、勢いよく駆けていく。
「おはようございます、セレス様。リシア様」
アレス様がわたくしたちへ向き直り、穏やかに頭を下げた。
「お、おはようございます、アレス様」
名前を呼ばれただけで、また胸が跳ねる。昨日よりは落ち着いて話せると思っていたのに、まるで駄目だった。
「リシア、どうしたの?」
「何でもありません」
「少し顔が赤いよ?」
「朝日がまぶしいだけです」
セレスが空を見上げた。
「太陽、まだあっちだけど」
「セレス。模擬戦の前に、準備をした方がよいのではありませんか?」
「そうだった!」
セレスの関心が、すぐに模擬戦へ戻った。助かったと胸の内で息をつくと、アレス様と目が合った。
「体調が優れないのであれば、無理はなさらないでください」
「だ、大丈夫です。ご心配には及びません」
「そうですか」
アレス様がほほえむ。なぜ、笑いかけられただけで鼓動が速くなるのだろう。昨日までのわたくしは、自分の心がこれほど思いどおりにならないものだとは知らなかった。
◇
中央訓練場は、王国騎士団が大規模な演習を行うために造られている。円形の敷地は広く、周囲には頑丈な石壁が巡らされていた。その内側へ、王宮魔術師たちが何重もの防護結界を張っている。
最初は、わたくしと両家の者たちだけで見届ける予定だった。しかし、王国最年少のAランク冒険者と勇者の模擬戦が行われると知り、見学を望む者が増えたらしい。
訓練場を見下ろす観覧席には、父と母、クラウディウス第一王子、ユリウスお兄様、フィリップ第三王子が座っていた。
宰相アルフォンス・ベルクハルト公爵とテオドール・ヴァレンティス侯爵は、父から少し離れた席で言葉を交わしていた。どちらも穏やかな表情を保っているが、視線はすでに訓練場の中央へ向けられている。
反対側にはレオナルド伯父様とローズ伯母様、その隣にはガレス・アークハルト男爵とエレナ夫人が並んでいた。グランベル家の騎士団長ローガン殿とアークハルト家の騎士団長ダリオ殿も、互いの主家の後ろへ立っている。
セレスの専属侍女ミレイユと、アレス様の専属侍女ニーナさんは、少し離れた場所から主の様子を見守っていた。
観覧席の後方には、見学を許された近衛騎士と王国騎士たちが並んでいる。普段は規律正しく声を抑えている者たちも、王国最年少のAランク冒険者と勇者の一戦を前に、期待を隠しきれていなかった。
そして、審判を務めるのは王国騎士団長ヴィクトル・クラウゼン。王国最強と呼ばれる方だ。
「ずいぶん、増えたね」
セレスは驚くどころか、楽しそうに笑っている。
「今からでも、場所を変えますか?」
アレス様が尋ねる。
「ううん。誰が見てても同じだよ」
「分かりました」
「アレス君こそ、緊張しないの?」
「見られることには、慣れておりません」
そう答えながらも、アレス様に緊張している様子はなかった。観覧席から、父や母、王子たちが見ている。王国の重臣も、王国最強の騎士もいる。普通ならば、立っているだけでも身体が固くなるはずだ。
しかし、アレス様の立ち姿は、昨日王宮前へ到着した時と何一つ変わらない。肩の力は抜け、呼吸も穏やかだった。
セレスもまた、笑顔を崩していない。
むしろ、これから始まる戦いへの期待を抑えきれないように、青い瞳を輝かせていた。
「両者、前へ」
ヴィクトル団長の声が訓練場へ響く。セレスとアレス様が中央へ進み、わたくしも二人のそばまで行って状態を確認する。
セレスが手にしているのは、王国騎士団が模擬戦で使う刃引きの長剣だ。刀身には強化の術式が刻まれ、闘気をまとわせても簡単には折れない。
アレス様は、本当に何も持っていなかった。
「改めて確認する」
ヴィクトル団長が、二人を見る。
「セレスティア様は剣術と闘気のみ。アレス殿は体術と闘気のみ。魔法の使用は禁止。相手が戦闘を続けられないと判断した時、降参した時、もしくは私が止めた時点で決着とする。異論はあるか」
「ありません」
「ありません」
「武器を破壊するほどの攻撃と、急所を狙う攻撃は禁止する。これは模擬戦だ。互いの力を確かめる場であり、傷つけ合う場ではない」
ヴィクトル団長の視線が、特にセレスへ向けられた。
「分かってます」
「昨日、王宮の壁を傷つけた者も、同じことを言っていた」
「あれは少し力の加減を間違えただけです」
「今日も間違えぬようにな」
観覧席から、小さな笑い声が聞こえた。ローズ伯母様は額へ手を当て、レオナルド伯父様は愉快そうに笑っている。アレス様の口元も、わずかに緩んだ。
「アレス君、今笑ったでしょ?」
「いいえ」
「絶対に笑った」
「お気のせいです」
「よそ見をするな」
ヴィクトル団長に言われ、セレスが慌てて正面へ向き直った。
「リシア様」
アレス様に呼ばれた。
「はい」
「念のため、結界から離れていてください」
「わたくしも結界を張ります」
「危険はないようにいたします」
「アレス様がお気をつけになっても、セレスが同じとは限りません」
「リシア!」
「昨日、訓練場は壊さないと約束したでしょう?」
「壊さないよ」
「でしたら、わたくしが結界を張っても困りませんよね?」
「……お願いします」
セレスが少しだけ頬を膨らませた。わたくしは二人から距離を取り、訓練場の外周へ《結界》を重ねる。淡い光が、円形の訓練場を包み込んだ。
「きれいだね」
セレスがつぶやく。アレス様も、広がる光を見上げていた。
「これほど広い《結界》を、一瞬で……」
驚きの混じった声だった。その反応が、少しだけうれしい。
「お二人が遠慮なく戦えるよう、この一年間、わたくしも鍛えてきたのです」
「ありがとうございます、リシア様」
アレス様が真っ直ぐにわたくしを見る。また胸が跳ねそうになり、今度は先に視線をそらした。
「準備は整ったな」
ヴィクトル団長が右手を上げる。
セレスが剣を構えた。先ほどまでの明るく無邪気な笑顔が消え、青い瞳が鋭く細められる。右足をわずかに引き、剣先をアレス様ののど元へ向けた。
何度も見てきたセレスの構えだが、一年前とはまるで違う。重心はどの方向へも動ける位置に置かれ、剣先には揺らぎ一つない。対するアレス様は両手を自然に下ろしたままで、構えてすらいないように見える。
「アレス君。最初から本気で来てね」
「それはできません」
「どうして?」
「本気で攻撃すれば、模擬戦にはなりません」
セレスの眉が上がる。
「それ、私が弱いって言ってる?」
「違います。私の技は、人ではなく魔物を倒すために磨いたものが多いのです」
「じゃあ、私が大丈夫だと思った分だけ出して」
「承知しました」
「絶対に、後悔させるから」
セレスの口元へ、挑むような笑みが浮かぶ。
ヴィクトル団長の右手が鋭く振り下ろされた。
「始め!」
石床を蹴る音が一つだけ響き、次の瞬間には、セレスがアレス様の目の前へ迫っていた。
速い。一年前、セレスと模擬戦をした王宮騎士は、その最初の踏み込みに反応することさえできなかった。銀色の刃がアレス様の肩口へ走る。それでも、アレス様は動かない。
「アレス様!」
思わず声が出た。刃が訓練着へ触れる、その直前、アレス様の身体がわずかに沈む。剣が黒髪の上を通り過ぎた。避けたのは、ほんの指二本分。
「おおっ!」
刃が空を切った瞬間、観覧席の後方に並ぶ騎士たちから短い歓声が上がった。
「今の間合いから、かわしたのか」
父が思わず身を乗り出す。ローガン殿も目を細め、レオナルド伯父様の顔には期待に満ちた笑みが浮かんだ。対して、ガレス男爵とダリオ殿は声を上げず、アレス様の足元から視線を離さなかった。
セレスは止まらない。
横なぎから手首を返し、斜めに斬り下ろす。受けられることを想定した連撃ではない。初撃を避けた相手を、そのまま追い詰めるための剣だ。
アレス様の上体が揺れる。一歩もその場から離れないまま、刃だけが身体の脇を通り過ぎていく。
右、左、胸元、脚。
セレスの剣は、まるで何人もの剣士が同時に斬りかかっているかのように、途切れることなくアレス様へ襲いかかった。
それでも、届かない。アレス様は大きく跳ぶことも、後ろへ逃げることもしなかった。足の位置を半歩変え、肩を傾け、首をわずかに動かす。それだけで、すべての刃が空を切る。
「おおおおっ!」
今度は一段大きな歓声が起こった。騎士たちは、途切れなく銀色の剣を振るうセレスと、その刃の狭間に立ち続けるアレス様を交互に見つめている。
「セレスは、剣が届かないことを気にしていない。避けられるたび、アレス君がどう動くかを見ている」
レオナルド伯父様は楽しそうに目を細めながら、二人の攻防を冷静に追っていた。
「だが、セレスが一手進むたび、アレス君はさらにその先へいるな」
娘の成長を喜ぶ声と同じだけ、アレス様への素直な称賛がにじんでいた。父も大きくうなずき、ガレス男爵の口元には誇らしげな笑みが浮かんでいる。
「何だ、あの避け方は……」
観覧席で、フィリップ王子がつぶやいた。
「剣を見てから避けていません」
答えたのは、ヴィクトル団長だった。
「踏み込み、腰、肩、肘。セレスティア様の身体すべてを見て、刃が通る場所を先に知っています」
「一度でも読み違えれば、刃を受ける距離だ。反応が速いだけではない。斬撃が来る前に、すでに読み切っている」
「そんなことができるのか?」
「少なくとも、あの少年はしています」
ヴィクトル団長の目が、先ほどまでより鋭くなっていた。セレスは一歩下がり、それでも笑っていた。
「すごいね、アレス君」
「セレス様も」
「まだ一度も拳を振ってないよ?」
「初撃から今まで、同じ速さの斬撃は一つもありませんでした。私の反応を見ながら、わずかずつ変えていらっしゃる」
「分かってたんだ」
「はい」
「じゃあ、これは?」
セレスの身体から、青白い闘気が立ち上った。風が巻き起こり、青い髪が大きく揺れる。魔法ではない。セレス自身の生命力を練り上げた、純粋な闘気だ。
セレスが床を踏む。すさまじい音と共に石が砕け、青白い光が弾けた。
「おおおおおっ!」
石の砕ける轟音を追うように、この日一番の歓声が上がった。騎士たちは拳を握り、父も三人の王子も身を乗り出している。
「闘気を強めても、剣先にぶれがない。……強くなったね、セレス」
レオナルド伯父様は、娘の成長を喜ぶように目を細めた。けれど視線はすぐに、構えを変えないアレス様へ戻る。
「それでも、アレス君は呼吸一つ乱していない。まだ、セレスの力を見極める側にいるな」
声は冷静だったが、その瞳には次の攻防を待ちきれないような光が宿っていた。ローガン殿も満足そうにうなずく。ガレス男爵とダリオ殿も、先ほどよりわずかに身を乗り出していた。誰もが、次の一合を待っている。
その瞬間、わたくしは悟った。
――ここからが、二人の本当の戦いなのだ。




