第165話 三人で歩く最初の一歩
少し驚いた。セレスも同じだったらしく、目を丸くしている。
「地竜との戦いを聞かれると思っていました」
「それは、先ほどセレス様が聞きたそうにしておられました」
「もちろん聞くよ」
「では、その後で私の話もします」
アレス様が果実水の杯へ手を伸ばした。その動きを見ただけで、後ろに控えていたニーナさんが一歩進み、空になりかけた水差しを交換する。
「ありがとう、ニーナ。ちょうど腹が減っていた」
「はい。王都への移動でお疲れかと思い、焼き菓子も多めにご用意しております」
「助かる」
アレス様は果実水を一口飲むと、迷わず焼き菓子を一つ取った。地竜を倒したAランク冒険者が、専属侍女の用意した菓子をうれしそうに味わっている。
セレスが、興味深そうにニーナさんを見る。
「ニーナさん、だったよね」
「はい。ニーナ・ベルと申します」
「アレス君の手紙や報告で、何度かお名前を見たの。毎日の食事を作ってるんだよね?」
「屋敷では料理長や調理場の皆様と一緒に、旅の間は私が用意しております」
「アレス君って、どれくらい食べるの?」
「セレス」
わたくしが止めようとしたが、ニーナさんは真剣な顔で考え始めた。
「訓練の量によって変わりますが、騎士の方の三人分ほどです。大きなけがをした後は、五人分ほど召し上がることもあります」
「五人分……」
セレスがアレス様の身体を見る。
「どこに入るの?」
「私にも分かりません」
ニーナさんが答えると、アレス様がわずかに眉を寄せた。
「二人で話を進めないでくれ」
「アレス様は、食べることもお好きですから。訓練の後は、いつもたくさん召し上がります」
「ニーナまで、私の食事量を詳しく話さなくてよい」
「申し訳ございません。ですが、たくさん召し上がってくださるとうれしいものですから」
ニーナさんが小さく笑う。
「実際、美味いからな」
アレス様もそう答え、もう一つ焼き菓子を手に取った。二人の間には、主従という言葉だけでは説明できない信頼がある。
「ニーナは、私がここまで強くなるために、誰よりも力を貸してくれた者です」
「アレス様?」
突然そう言われ、ニーナさんのこはく色の瞳が大きく開いた。
「毎日の食事だけではありません。訓練の量も、休む時間も、私以上に把握しています。ニーナがいなければ、今の半分も鍛えられなかったでしょう」
「そのような……私は、自分の役目をしていただけです」
「その役目を、毎日欠かさず続けることが難しい」
昨日、ヴィクトル団長がセレスへ。今日、母がアレス様へ。そして今、アレス様がニーナさんへ。同じ思いを伝えていた。
「素晴らしい方なのですね」
わたくしが言うと、ニーナさんの頬が赤くなった。
「もったいないお言葉にございます」
「本当にそう思います。アレス様が、何より信頼していらっしゃることも分かりました」
「はい」
答えたのは、ニーナさんではなくアレス様だった。迷いのない返事に、ニーナさんの顔がさらに赤くなる。
「ア、アレス様。お飲み物を、もう一度確認してまいります」
「水差しなら、今交換したばかりだが」
「確認してまいります」
ニーナさんは空ではない水差しを持ち、早足であずまやを離れた。アレス様が不思議そうにその背中を見る。
「何か、問題があったのでしょうか」
「アレス君」
セレスが真剣な顔で呼ぶ。
「何でしょうか?」
「戦い以外のことには、少し鈍いんだね」
「どういう意味ですか?」
「今は、分からなくてもよいと思います」
わたくしが答えると、アレス様はさらに分からないという顔をした。思わずセレスと一緒に笑ってしまう。アレス様は、わたくしたちが笑う理由を尋ねないまま、焼き菓子を美味しそうに口へ運んだ。
その姿は、報告書に記されていた王国最年少のAランク冒険者でも、地竜を拳で打ち砕いた武闘家でもない。信頼する侍女が用意した菓子を味わい、同じ年の少女二人に笑われる、十三歳の少年だった。
それから、三人で多くのことを話した。セレスは、国境で帝国兵と戦ったことを話した。怖かったことも隠さなかった。アレス様は笑わず、ただ真剣に聞いていた。
「怖いと思えることは、大切です」
「大切なの?」
「恐れを知らなければ、自分だけでなく、後ろにいる者まで危険へ巻き込みます。怖くても動かなければならない時はある。ですが、怖くないふりをする必要はありません」
「勇者でも?」
「勇者だからこそ、です」
セレスは少しだけ目を伏せた後、うれしそうにうなずいた。わたくしも、治せなかった患者のことを話した。アレス様は、治せなかったことより、その後に何をしたのかを尋ねた。
「残された指を動かすための治療を続けています。職人の方々にも相談し、道具の持ち手を変えていただきました」
「ならば、まだ途中なのですね」
「まだ途中なのですか?」
「その方を救えたかどうか、今決める必要はありません。もう一度仕事ができた時、初めて答えが出るのかもしれません」
治せなかった日を、終わりだと思っていた。けれど、まだ途中。その言葉によって、胸の奥へ残っていた重さが、少しだけ軽くなった。
アレス様も、ご自分の一年を話してくださった。冒険者登録の特別試験。初めて受けた護衛依頼。魔の森で出会った仲間たち。そして、地竜との戦い。
セレスは何度も身を乗り出し、地竜の大きさや動き、最後の一撃について尋ねた。
「頭部のうろこを、拳で?」
「《破砕》を内部へ通しました」
「私の剣でも、斬れるかな?」
「闘気を刃先へ集中できれば、今のセレス様でも傷はつけられると思います」
「倒すことは?」
「お一人では難しいです」
「でも、アレス君は倒したんでしょ?」
「一人ではないと言ったはずです」
「じゃあ、明日勝ったら、次は私も地竜を倒す」
「順番がおかしくありませんか?」
「おかしくないよ」
セレスは、もう明日の模擬戦に勝つつもりでいる。アレス様もそれ以上否定せず、わずかに笑った。
陽が傾き、あずまやの中へ差し込む光が赤くなっていた。最初は遠慮がちだった言葉も、いつの間にか途切れなくなっている。
まだ聞きたいことは、いくらでもあった。アレス様の右眼に時折宿る不思議な光のこと。十三歳とは思えない考え方を、どこで身につけたのか。何を急ぎ、何へ備えているのか。そして、初めてわたくしとセレスを見た時、なぜあれほどほっとした顔を見せたのか。
けれど、今すべてを尋ねる必要はない。今日、ようやく会えたのだから。これから、何度でも話すことができる。
「そろそろ、ガレス様たちの打ち合わせも終わる頃です」
戻ってきていたニーナさんが告げた。
「そうですか」
アレス様が立ち上がる。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「明日の朝、中央訓練場で待ってるね」
セレスも立ち上がった。
「分かりました」
「武器は、本当に何も使わないんだよね?」
「使いません」
「魔法は?」
「明日は体術と闘気だけにします」
「私も、剣術と闘気だけにする」
「セレス、光魔法や雷魔法を使わなくてよいのですか?」
「最初は、同じ条件で戦いたいの」
「私は剣を持っておりませんが」
「アレス君の拳は、地竜のうろこを壊すんだよ。私の剣より危険でしょ?」
「それは否定できませんね」
二人の間に、すでに明日の戦いへ向けた空気が生まれている。けれど、不思議と怖くはなかった。どちらも、相手を傷つけたいのではない。自分の力がどこまで届くのか。相手がどのような道を歩いてきたのか。言葉とは違う方法で、確かめようとしているだけだ。
「わたくしも見届けます」
「もちろんだよ」
セレスが答える。
「リシアには、一番近くで見ていてもらうからね」
「結界を張る役目ではありませんよね?」
「……念のためだよ」
「やはり、訓練場を壊すつもりではありませんか」
「壊さないよ」
「できれば、壊さないでください」
アレス様の言葉に、三人で笑った。あずまやを出る直前、アレス様が足を止める。
「セレス様。リシア様」
振り返る。名前には敬称が添えられている。それでも初めて会ったばかりとは思えないほど、その呼び方が自然に感じられた。
「お二人が、無事に今日まで歩いてこられたことを、うれしく思います」
まただ。初対面の相手へ向けるものとは思えない、深い安心。セレスも、不思議そうにアレス様を見ている。
「私たち、今日初めて会ったんだよ?」
「分かっています」
「じゃあ、どうして?」
アレス様は、ほんのわずかに目を伏せた。
「勇者と聖女が同じ時代に現れたと知ってから、ずっと、お二人が無事に成長されることを願っていました」
うそではない。けれど、それだけではないような気がした。
「これからは、離れた場所から願う必要はありません」
わたくしは言った。
「何か心配なことがあるのなら、わたくしたちへ直接お話しください」
「一人で考えるより、三人で考えた方が、きっといい答えが出るよ」
セレスも続ける。
アレス様は、少し驚いたようにわたくしたちを見た。やがて、その表情へ穏やかな笑みが浮かぶ。
「そうですね」
その声は先ほどまでよりも柔らかく、王女と勇者ではなく、同じ年のわたくしたちへ向けられたものに思えた。
「その時は、お二人の力を貸してください」
「はい」
「任せて」
その日、勇者と聖女と、一人の武闘家が、初めて同じ場所へ立った。
剣を交えたわけではない。大きな敵と戦ったわけでもない。ただ互いを呼ぶ言葉を交わし、これまで歩いてきた道を話し、これからは力を借りると約束した。それが、三人で歩く最初の一歩になった。
そして翌朝――その一歩の先で、勇者の剣と武闘家の拳が、初めて互いの歩いてきた道を語り合う。




