第164話 三人、初めて言葉を交わす
王宮の中庭にある小さなあずまやへ場所を移した。謁見を終えたとはいえ、第一王女と辺境伯令嬢、男爵家の跡継ぎが完全に三人きりになるわけにはいかない。
少し離れた場所には、わたくしの侍女とセレスの専属侍女ミレイユが控えている。アレス様の後ろには、先ほど馬車から降りる時に見かけたニーナさんが立っていた。
卓上には、果実水と焼き菓子が用意されている。けれど、誰もすぐには手を伸ばさなかった。昨日、セレスと二人きりになった時と同じだ。話したいことが多すぎると、最初の一言が難しい。
「改めて、ご挨拶申し上げます」
先に口を開いたのは、アレス様だった。
「アークハルト男爵家の跡継ぎ、アレス・アークハルトです。第一王女リシア殿下、勇者セレスティア様。お目にかかれて光栄にございます」
先ほどまで大勢の前で聞いていた声が、今はわたくしたちへ向けられている。それだけのことで、また胸が鳴った。落ち着かなければと思うほど、意識がアレス様へ向いてしまう。
「セレスティア・グランベル。私も、アレス君に会えるのを楽しみにしてたよ」
セレスは椅子から立ち上がると、右手を差し出した。
「よろしくね、アレス君」
貴族令嬢が男性へ握手を求めるのは、正式な作法とは少し異なる。けれど、セレスは剣を交える相手へ挨拶する時と同じように、真っ直ぐ手を伸ばしていた。
アレス様は一瞬だけその手を見た後、立ち上がって握り返す。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「それから、私のことはセレスって呼んで。皆からそう呼ばれてるの」
「承知しました。では、セレス様と」
「様もいらないよ?」
「それはできません」
「どうして?」
「勇者であり、辺境伯令嬢でもある方を、初対面で呼び捨てにはできません」
「私たちは同じ年だよ?」
「同じ年であっても、礼を欠いてよい理由にはならないと思います」
報告書から想像していたより、アレス様は礼儀を大切にする方らしい。
「じゃあ、セレス様で我慢する。その代わり、私はアレス君って呼ぶね」
「最初から、そう呼んでおられましたよね?」
「うん。だから、これで決まり」
アレス様がわずかに困った顔をする。それを見て、思わず笑ってしまった。
「ごめんなさい。つい笑ってしまいました」
「いえ」
「セレスは、一度決めると譲らないのです」
「リシアも同じでしょ?」
「わたくしは、セレスほどではありません」
「昨日、背の高さを一本半だって言い張ったのは誰だったかな?」
「二本ではありませんでした」
「ほら、やっぱり譲ってない」
アレス様の視線が、わたくしとセレスの間を往復する。やがて、その口元へ小さな笑みが浮かんだ。
「お二人が、親しい従姉妹同士だということは分かりました」
「一番の親友でもあるよ」
「はい。セレスは、わたくしにとって姉妹のような方です」
答えると、アレス様の表情が一瞬だけ柔らかくなった。
「そうですか」
短い言葉だった。けれど、なぜか心からほっとしているように聞こえた。その柔らかな表情へ目を奪われ、次の言葉が一瞬、出てこなくなった。
やはり、先ほど窓から見た時と同じだ。アレス様は、わたくしたちが元気でいることを確かめ、安心している。けれど、理由を尋ねることはできなかった。
わたくしは立ち上がり、王女としての礼を取る。
「リシア・フォン・アルトリアと申します。アレス様のことは、一年前から何度も報告書で拝見しておりました」
「私も、リシア殿下のお噂はアークハルト領で聞いております」
「公の場でなければ、わたくしのこともリシアとお呼びください」
「承知しました。では、リシア様とお呼びいたします」
「はい。それで構いません」
落ち着いたふりをして答えたものの、心の中はまるで落ち着いていなかった。アレス様の口から自分の名を呼ばれただけで、どうしてこれほどうれしいのだろう。
セレスが、わたくしとアレス様を見比べる。
「私がセレス様で、リシアもリシア様。うん、公平だね」
セレスが満足そうにうなずく。
「アレス様は、どのようにお呼びすればよいでしょう?」
「私に敬称は不要です。男爵家の跡継ぎにすぎませんから」
「じゃあ、私は今までどおりアレス君って呼ぶね。その方が呼びやすいし」
「わたくしは、アレス様と呼ばせていただきます」
「ですが――」
「一年前から何度もお名前を拝見してきたせいでしょうか。わたくしには、その呼び方が一番自然なのです」
アレス様は少し戸惑ったようだったが、やがて小さくうなずいた。
「分かりました。では、改めまして。セレス様、リシア様。よろしくお願いいたします」
「よろしくね、アレス君」
「はい。よろしくお願いいたします、アレス様」
アレス様の口から、改めて「リシア様」と呼ばれた。ただそれだけなのに、胸の奥が熱くなり、鼓動がまた速くなる。
やはり、長くお会いしたいと願っていた方だから。決して、一目ほれなどではない。わたくしは、もう一度自分へ言い聞かせた。
けれど、アレス様と言葉を交わすたびに胸が高鳴り、目が合うたびにその目から視線をそらしたくなる。こんなにも自分の心を思いどおりにできないのは、生まれて初めてだった。
別々の場所で、報告書と噂だけを通じて知っていた三人の、互いを呼ぶ言葉が決まった。
「じゃあ、挨拶は終わったね」
セレスが言う。
「それで、明日の模擬戦なんだけど――」
「早すぎます」
「リシアは、何を聞きたいの?」
「まずは、長旅でお疲れではないかと」
「身体に問題はありません」
アレス様が答えた。
「途中で荷馬車を直したそうですね」
「車輪を固定していた金具が折れていました。代わりになる部品を作り、王都まで走れるようにしただけです」
「金具を作ったのですか?」
「壊れた部品を《破砕》で整え、火魔法を使える騎士に熱してもらいました」
「そのような使い方もできるのですね」
「壊すだけでは、役に立たないこともありますから」
破壊の力を、直すために使った。強さとは、自分一人で敵を倒すことではない。今の短い言葉も、報告書に記されていた考え方と同じだった。
「アレス様」
わたくしは、ずっと尋ねたかったことを口にする。
「冒険者の特別試験で、勝てない魔物と遭遇した時のことを尋ねられたそうですね」
「はい」
「仲間の一人が足を折っていたとしても、最初から誰か一人が死ぬことを前提にするのは、判断ではなく諦めだと答えたと伺いました」
アレス様の表情から、わずかに笑みが消えた。
「なぜ、そのように考えられるようになったのですか?」
セレスも口を挟まず、答えを待っている。アレス様はすぐには話さなかった。
卓上に置かれた自分の右手を見つめる。傷一つない手だった。けれど、その目には、もっと多くの傷を知っている者のような深い色が浮かんでいた。
「誰かを置いていけば、助かる可能性が高くなることはあります」
静かな声だった。
「戦いでは、誰かを犠牲にしなければ全員が死ぬ場面もある。きれい事だけで、すべての命を救えるとは思っていません」
聖女であるわたくしへ向けるには、厳しい言葉だった。けれど、うそはなかった。
「それでも、誰を捨てるか考えるのは、使えるものをすべて使った後でよいはずです。道を変える。敵を引きつける。けが人を背負う。助けを呼ぶ。罠を作る。まだ何か考えられるのに、最初から一人を置いていくと決めれば、その者が助かる可能性はなくなる」
「可能性が、わずかでもあれば?」
「捨てたくありません」
迷いのない答えだった。
「考えることをやめれば、諦めるのは簡単です。だから私は、最後まであがきたい。届かないかもしれなくても、手を伸ばしてからでなければ、諦めたくないのです」
最後まであがく。その言葉が、胸の奥へ深く沈んだ。
聖女でも治せないのかと、ラウルに尋ねられた日のことを思い出す。失われた指を、わたくしの治癒魔法で元へ戻すことはできなかった。
けれど、痛みを取り除くことはできた。傷を塞ぎ、残された指を動かすための治療へつなぐこともできた。職人として生きる別の方法を、一緒に考える者たちもいた。
救えなかったものだけを見て、何もできなかったと思う必要はない。使えるものを、すべて使う。アレス様の言葉に背中を押され、わたくしは救護院の治療方法を変えた。
「アレス様の言葉を聞いて、わたくしは治癒師や神官、薬師の方々と協力するようになりました」
「私の言葉で?」
「はい。一人で届かないなら、皆の力を借りればよいのだと気づきました。治療を受けられる方も、以前より増えています」
「それは、リシア様が考え、行動した結果です」
「きっかけをくださったのは、アレス様です」
アレス様は、少し困ったように目を伏せた。褒められることに慣れていないのだろうか。
「ありがとうございます」
そう告げると、アレス様はもう一度わたくしを見た。
「こちらこそ」
「なぜ、アレス様がお礼をおっしゃるのですか?」
「私の言葉が、本当に誰かを助けることにつながったと知ることができました」
その表情には、強さを褒められた時より、ずっと素直な喜びが浮かんでいた。この方は、本当に自分が強くなることだけを考えているのではない。
「今度は、私が聞いてもよろしいですか?」
アレス様が言う。
「何でしょう」
「お二人が、どのような一年を過ごしたのか。王都とグランベル領で、何を見て、何を考えたのか。教えていただけますか」
そう言って、アレス様はわたくしたち二人を真っ直ぐに見つめた。その目が知ろうとしていたのは、勇者や聖女としての力ではない。わたくしとセレス自身が歩いてきた、この一年だった。




