第160話 明日、三人が出会う
顔を上げると、セレスがうれしそうに笑っていた。
「でも、まだ治せない傷もあります」
口にした途端、ラウルの失われた指が浮かんだ。
「治癒魔法では、失われた手足を元へ戻すことはできません。先日も、二本の指を失った職人の方が運び込まれました」
「手紙には、書いてなかったね」
「書こうとはしたのですが、どのように書けばよいのか分からなかったのです」
治せなかった。
けれど、何もできなかったわけでもない。その人の悲しみも、わたくしの悔しさも、短い言葉にはできなかった。
「『聖女様でも治せないのか』と、尋ねられたのです」
「……はい」
「皆は、聖女なら何でも治せると思っています。治せない方がいるたび、期待を裏切ることになるのではないかと、今でも怖くなります」
セレスは、すぐには何も言わなかった。ただ、長椅子の上へ置いていたわたくしの手へ、自分の手を重ねた。
「私も、手紙に書けなかったことがある」
いつも明るい声が、少しだけ低くなる。
「初めて国境で戦った時、本当は怖かった」
セレスの指が、わずかに強くわたくしの手を握る。
「魔物じゃない。帝国の兵士が、私へ剣を向けたの。私も剣を振った。相手が倒れた時、しばらく動けなかった」
手紙には、初陣で帝国兵を退けたことが明るく書かれていた。兵士を救えたこと。自分の魔法が通用したこと。悔しかったことや、次はもっと上手く戦うという決意。
その裏にあった恐怖を、セレスは一度も書かなかった。
「勇者なんだから、怖がっちゃいけないって思った。私が止まれば、後ろにいる兵士が傷つく。だから、平気な顔をして次の敵へ向かったの」
「セレス……」
「戦いが終わった後、手が震えた。剣をさやへ戻すこともできなかった」
セレスはうつむかなかった。けれど、その青い瞳には、今も消えていないものがあった。
「お父様とお母様には話した。ローガンも、何も言わずそばにいてくれた。でも、リシアには書けなかった。心配をかけたくなかったんだと思う」
「わたくしたち、隠し事はしないと約束したでしょう?」
「ごめんね」
「責めているのではありませんよ」
今度は、わたくしがセレスの手を握った。
「わたくしも、治せなかった方のことを書けませんでした。隠したかったわけではなくて、言葉にできなかったのです」
「私も、同じ」
「では、今から話しましょう。どれだけでも」
「うん」
「怖かったと、何度言ってもよいのですよ」
「勇者でも?」
「勇者だからといって、苦しい時まで笑っている必要はありません」
かつて、母がわたくしへ言ってくれた言葉だった。
「わたくしの前では、勇者でなくてもよいのです」
セレスの瞳がわずかに潤む。
「リシアも、私の前では聖女でいなくていいよ」
「はい」
「治せない人がいて、悔しかったら、悔しいって言って」
「はい」
「皆に期待されるのが怖ければ、それも話して」
「セレスもですよ」
「分かってる」
どちらからともなく、もう一度抱きしめ合った。先ほどより、ずっと静かに。
勇者と聖女。
王国の希望。
女神に選ばれた二人。
その呼び名がどれほど重くなっても、二人きりの時だけは、以前と同じ名前で呼び合える。それだけで、また明日から歩けるような気がした。
しばらくして、セレスがわたくしの肩へ顔を乗せたままつぶやいた。
「それで、アレス君には何を聞くの?」
「……急に話が変わりましたね」
「大切な話だよ」
身体を離すと、先ほどまで潤んでいた青い瞳が、好奇心で輝いていた。
「手紙には、会ってから話すって書いてあったよね」
「覚えていたのですか?」
「当然でしょ。王都へ来るまで、ずっと気になってた」
「アレス様が、なぜ誰か一人の死を最初から諦めてはならないと考えるようになったのか。それをお尋ねしたいです」
「それだけ?」
「それだけ、とは?」
「地竜をどうやって倒したのか、どれくらい強いのか、何が好きなのか、普段は何をしているのか。聞きたいことがたくさんあるよ」
「それは、セレスがすべて尋ねるのでしょう?」
「もちろん!」
「でしたら、わたくしは聞いているだけで十分です」
セレスが、じっと顔を見つめてくる。
「何ですか?」
「リシアって、アレス君のことを話す時だけ、少し顔が赤くなるよね」
「なっていません」
「なってるよ」
「セレスこそ、手紙へアレス様のお名前を何度書いたか覚えていますか?」
「数えてたの?」
「数えなくても、よく分かるほど多かったです」
「私は、好敵手として気になってるだけ」
「わたくしも、同じ年にこれほどのことを成し遂げた方として興味があるだけです」
「私は模擬戦を申し込む」
「わたくしはお話をします」
「どっちが先?」
「ご挨拶が先です」
「その後だよ」
「お話です」
「模擬戦!」
しばらく見つめ合う。
先に笑ったのは、セレスだった。
「じゃあ、一緒に会いに行こう!」
「はい?」
「最初の挨拶も、お話も一緒。その後で、私が模擬戦を申し込む」
「最初から、そのつもりでした」
「それなら決まり!」
セレスが満足そうにうなずく。
「リシアは、私が戦うところを一番近くで見ててね」
「神聖魔法の加護は使いませんよ」
「まだ頼んでないよ」
「今、頼もうとしていました」
「少しだけ考えた」
「駄目です。最初から公平に戦ってください」
「じゃあ、アレス君が私より強かったら、リシアが次に戦って」
「なぜ、そうなるのですか?」
「二人で一勝すれば、引き分けでしょ」
「二対一です」
「同時には戦わないよ」
「そういう問題ではありません」
話しても、話しても、尽きなかった。いつの間にか長椅子から寝台へ移り、二人で並んで横になっていた。セレスのために用意された寝台は、部屋の反対側にある。けれど幼い頃も、どちらかの部屋へ泊まるたび、結局は一つの寝台へ潜り込んで朝まで話した。
今夜も同じだった。
天蓋の向こうに、月の光が淡く差し込んでいる。
「リシア」
「何ですか?」
「明日、本当に会えるんだよね」
「はい」
「どんな人かな」
「報告書に書かれているままの方なら、きっと、とても真っ直ぐな方です」
「でも、地竜を拳で倒すんだよ?」
「真っ直ぐ殴ったのかもしれません」
「それは、かなり真っ直ぐだね」
暗がりの中で、二人同時に笑った。
「眠れそう?」
「分からない」
「わたくしもです」
「じゃあ、眠くなるまで話そう」
「もう十分に話したと思います」
「まだ一年分の半分も話してないよ」
「それは、わたくしも同じです」
セレスの手が、布団の中でわたくしの手を探した。指を重ね、握り返す。
それからも、わたくしたちは一年分の言葉を交わし続けた。けれど、いつしか声は小さくなり、重ねた指の温もりだけが残った。
眠りへ落ちる直前、胸に浮かんだのは、報告書の中でしか知らない少年の姿。
次に目を覚ませば、いよいよ三人が初めて同じ場所へ立つ日が始まる。




