第16話 最弱の武王、鍛え直す7
夕食を終えた時には、俺の前に積まれていた料理のほとんどが消えていた。肉を三皿。魚を一皿。卵と豆のスープを二杯。パンは、いくつ食べたか覚えていない。
「アレス」
席を立とうとした俺へ、父上が声をかけた。
「これから、また旧演武場へ行くつもりか?」
「はい」
父上の眉間にしわが寄る。
「肉体鍛錬は行いません。座ったままできる魔力操作だけです」
「どれくらい行う?」
「長くとも二時間ほどを予定しています」
「予定、か」
父上は疑わしそうな目で俺を見る。
「就寝時刻は守ります。明朝の訓練に支障が出るほど、魔力を使うつもりもありません」
「先ほども言ったが、今のお前の判断は信用しきれん」
「承知しています」
否定はできない。父上から見れば、今朝五周で倒れかけた息子が、その日のうちに十一時間の訓練計画を持ち出したのだ。警戒されて当然だろう。
父上は、俺の後ろに控えていたニーナへ視線を向けた。
「ニーナ。夜食を持っていく時に、アレスの様子を確認してくれ。無茶をしているようなら、すぐに知らせてほしい」
「かしこまりました、旦那様」
「俺の言葉より、ニーナの判断を信じるのですか?」
「今のお前と比べるならな」
即答だった。
「ニーナ、お願いね」
母上も微笑みながら、ニーナへ声をかける。
「はい。お任せください」
「分かりました。では、ニーナに止められた時も従います」
「必ずだぞ」
「はい」
返事をしてから、俺は食堂を出た。
◇
外へ出ると、日はすでに沈んでいた。西の空にわずかな赤みが残り、屋敷の窓から漏れる灯りが庭を淡く照らしている。昼間の熱は消え、吹き抜ける風が火照った身体に心地よかった。
旧演武場へ入り、扉の脇に置かれたランタンへ火を灯す。石壁に囲まれた演武場には、風の音しか聞こえない。昼間より気温は下がっているが、魔力操作を行うだけなら問題はなかった。
俺は地面へ布を敷き、その上に座った。
昼の訓練を切り上げてから時間も経ち、食事を取ったことで、魔力はかなり回復している。改めて確かめてみれば、十二歳という年齢にしては、かなり恵まれた魔力量だ。
どうやら俺は幼い頃から、年齢以上の魔力を持っていたらしい。以前の俺は、その恵まれた力を鍛えようともせず、持て余していたということだ。
だからといって、無駄に使っていいわけではない。明朝の鍛錬へ支障を残さない範囲で行う必要がある。
夜の訓練で鍛えるのは、量ではなく精度だ。
目を閉じ、胸の奥へ意識を向ける。
小さな器の中に、温かな水がたまっているような感覚。それが、現在の俺が持つ魔力だった。
その一部を細い糸へ変え、右肩へ流す。上腕から肘へ。肘から前腕へ。手首を通り、手のひらまで。
そこで一本だった流れを、五本へ分けた。
親指。人差し指。中指。薬指。小指。
「……均等にはならないか」
親指へ流れる魔力が多い。反対に、小指へ向かう流れは途中で消えかけている。
武王だった頃なら、全身を巡る魔力を何百もの流れへ分け、それぞれを別々に制御できた。今は、わずか五本に分けるだけでも意識が乱れる。
一度、魔力を手のひらへ戻す。今度は、一本ずつ順番に流した。
親指へ流し、止める。人差し指へ流し、止める。
五本すべての経路を確かめてから、再び同時に魔力を流す。先ほどよりは均等になった。だが、まだ親指が強く、小指が弱い。
何度も繰り返す。
流す。止める。戻す。分ける。
わずかな偏りを感じ取り、そのたびに修正する。やがて、五本の指へほぼ同じ量の魔力を流せるようになった。
次は、それを指先から身体の外へ出す。
魔力は身体の外へ出した瞬間、急速に拡散する。それを意志の力で留め、形を与える。
右手の五本の指先に、淡い白色の光が灯った。
属性を持たない俺の魔力は白い。
親指の光は豆粒ほど。小指の光は、それよりわずかに小さい。形もゆがんでいる。
俺は五つの光を指先から離し、手のひらの上へ移動させた。
一つ。二つ。三つ。
四つ目を浮かせた瞬間、最初の一つが弾けた。淡い光の粒となり、夜の空気へ溶けていく。
「四つが限界か」
正確には、三つを維持したまま四つ目を作るだけの集中力が足りない。魔力そのものは残っている。問題は、それぞれの形と位置へ同時に意識を向けられないことだ。
もう一度、最初から始める。
今度は、光を動かさない。五本の指先で維持することだけに集中する。
五つの光が灯る。
一呼吸。二呼吸。三呼吸。
薬指の光が揺らいだ。意識を向けると、今度は親指の光が膨らむ。親指を抑えれば、小指の光が消えかける。
まるで、穴の空いた水袋を両手で塞いでいるようだった。
それでも、何度も繰り返すうちに、維持できる時間は少しずつ伸びていった。三呼吸が五呼吸へ。五呼吸が八呼吸へ。
指先に軽いしびれを感じたところで、魔力を体内へ戻す。
外へ出した魔力は、そのまま散らせば失われる。だが、形を保ったまま身体へ戻せば、消費を抑えられる。これもまた、魔力操作の基本だ。
俺は右手で行った操作を、今度は左手で繰り返した。右手よりもさらに不安定だった。利き手ではないため、魔力を動かす感覚がわずかに鈍い。
左手の五本を終えた後は、両手同時。十本の指先へ、均等に魔力を流す。
「っ……」
頭の奥に、鈍い痛みが走った。
十の流れを同時に制御しようとした瞬間、右手と左手が魔力を奪い合うような状態になった。右を安定させれば左が乱れ、左へ意識を向ければ右の流れが途切れる。
俺はすぐに魔力を止めた。ここで無理に続ければ、魔力ではなく意識の方が先に限界を迎える。
身体の傷なら《再生》で修復できる。だが、集中力の消耗まで、すべて元どおりになるわけではない。
呼吸を整え、目を閉じる。
焦るな。今日できないことが、明日もできないとは限らない。
今の俺に必要なのは、一度だけの成功ではない。同じことを何度でも正確に再現できる基礎だ。
再び、胸の奥から魔力を引き出す。
右手に五本。左手に五本。
十本を一度に操ろうとするのではなく、まず両方の親指へ流す。次に人差し指。中指、薬指、小指。
左右を一組として意識する。一つずつ組み上げ、十本すべてへ魔力を行き渡らせる。
十の指先に、淡い白色の光が灯った。
一呼吸。二呼吸。三呼吸。
今度は崩れない。
四呼吸目に左の小指が揺らぎ、五呼吸目で薬指の光が消えた。そこから連鎖するように、残りの光も形を失った。
「五呼吸か」
最初にしては悪くない。
もう一度行おうとした時、閉じた扉の向こうから、微かな足音が聞こえた。
俺は気配を確かめながら、もう一度、十本の指先へ魔力を流した。
扉が静かに開く。
籠を持ったニーナが演武場へ入り、すぐに足を止めた。琥珀色の瞳が、俺の指先に灯る光へ向けられている。
俺は左右の指先から、魔力を離した。十の小さな光が、両手の間へ浮かび上がる。
形を保てたのは、ほんの一瞬だった。三つがすぐに弾け、残りも次々と淡い光の粒へ変わる。最後に残った一つを手のひらへ戻し、俺は息を吐いた。
「いつから見ていた?」
「申し訳ございません。お声をかけると、集中を妨げてしまうかと思いまして……」
「謝る必要はない」
ニーナは扉のそばに立ったまま、光が消えた空間を見つめている。
「今のが気になるのか?」
「はい。とても……きれいでした」
ニーナはそう答えた後、少し恥ずかしそうにうつむいた。
仮に以前の傲慢な俺が訓練をしていれば、ニーナは邪魔にならないよう、夜食だけを置いてすぐに立ち去っていただろう。興味があったとしても、それを口にすることはなかったはずだ。
俺は、この少女が何を好み、何に心を動かされるのかさえ知らなかった。
「魔法を使っていらしたのですか?」
「いや。魔法になる前の魔力を、そのまま動かしていただけだ」
「魔力を、そのまま……」
「魔法は、魔力へ形と性質を与えて現象を起こす。火を生み出す。水を作る。風を動かす。今のものには、そのどれもない。ただ、魔力を丸めて浮かせただけだ」
俺は右手を開き、指先から少量の魔力を放った。
淡い光が一つに集まり、小さな球となって手のひらの上へ浮かぶ。先ほどより制御する数が少ないため、形は安定している。
ニーナが、わずかに身を乗り出した。
「触れてみるか?」
「よろしいのですか?」
「ああ。ただし、ゆっくり指を近づけろ」
ニーナは籠を地面へ置き、恐る恐る人差し指を伸ばした。
指先が光の球へ触れる。
「温かい……」
「魔力そのものに熱があるわけではない。俺の魔力が、お前の身体の感覚へ触れているだけだ」
光の球を、ニーナの指先に沿ってゆっくり動かす。ニーナの瞳も、それを追って動いた。
普段の控えめな表情とは違う。幼い子どものような、隠しきれない好奇心が浮かんでいる。
「アレス様」
「何だ?」
「私にも、このようなことができるのでしょうか?」
昨日まで俺を恐れていた少女が、初めて自分の意志で新しい力へ手を伸ばしている。
その問いを、曖昧な慰めで終わらせるつもりはない。
ニーナの小さな《種火》に、どれほどの可能性が眠っているのか。
今、ここで確かめよう。




