第155話 過去にはなかった未来
自室へ戻ると、机の上には王都へ持っていく書類が積まれていた。その一番上に置かれていたのは、鳳凰商会グランベル支店から届いた報告書だ。
椅子へ座り、最後のページまで目を通す。
勇者セレスティア・グランベル。
この一年、グランベル辺境伯軍の任務へ加わり、何度も実戦を経験している。剣術も魔法も目覚ましい速さで成長し、今では並の騎士二十人を相手にしても、まるで寄せつけない。辺境伯家騎士団のローガンからも、剣術で何度か一本を取ったらしい。
実戦を経験するたび、《勇者》の力が急速に目覚めている。
「順調だな」
報告書を机へ置き、息を吐いた。
滅びた世界で、勇者セレスティアは十六歳の時、帝国軍の大侵攻を撃退した。その後に王都へ招かれ、父であるグランベル辺境伯と共に国王暗殺のぬれ衣を着せられた。自らの無実を証明し、父を救うために降伏し、そのまま処刑された。
俺は、勇者セレスティアと一度も会ったことがない。その強さも、どのような人物だったのかも、人づてに聞いただけだ。
だが、今のセレスティアは、少なくとも以前の歴史と同じか、それ以上の速さで成長している。
机の脇には、王都で集められた情報も置かれていた。
聖女リシア・フォン・アルトリア。
救護院へ足を運び、負傷した者たちを治療している。一人ずつ治すだけではない。今では複数の負傷者を同時に癒やし、その回復も、王都の治癒師たちが言葉を失うほど速いという。
《結界》や神聖魔法の加護も、着実に力を増している。王都では、すでに《聖女の奇跡》と呼ばれていた。
「こちらも、順調か」
リシアも、滅びた世界では十六歳で命を落とした。国王と共に暗殺され、その死が王国崩壊の始まりとなった。
セレスティアも、リシアも、生きている。力を伸ばしている。そして、俺と同じ時期に王都へ集まろうとしている。
このようなことは、滅びた世界では一度もなかった。
十三歳を迎える前の俺が、Aランク冒険者として国王陛下から招かれることも。セレスティアとリシアが、《勇聖奉告式》――勇者と聖女の誕生を女神と国の人々へ報告する儀式――で、王国中へ正式に紹介されることも。
三人が、同じ場所へ集まることも。
何一つ、以前の歴史にはなかった。
歴史は、確実に変わっている。
望んだ通りだ。俺は、同じ滅びへ進まないために過去へ戻った。以前と違う未来を作るため、この一年、行動し続けてきた。だから、歴史が変わったことは喜ぶべきだ。
だが、知っている歴史から外れれば外れるほど、俺の記憶は未来を知るための答えではなくなっていく。起きるはずだった事件が起きないこともあれば、存在しなかった事件が起きることもある。
救った者が、別の誰かの行動を変える。倒した敵がいなくなれば、別の敵が動く。俺たちが強くなれば、敵もまた、以前とは違う手を選ぶかもしれない。
順調だからこそ、慢心してはならない。
「変わったものだな、俺も」
一年前までの俺は、怠惰で傲慢だった。自分は男爵家の跡取りなのだから、周囲が従うことは当然だと思っていた。何の努力もせず、自分には特別な力があるはずだと信じ、思い通りにならなければ他人のせいにした。
今は、思い通りに進んでいる時ほど、何かを見落としていないかと考えている。
七十年以上生きたから変わったのか。滅びた世界で、すべてを失ったから変わったのか。あるいは、十二歳へ戻り、もう一度周囲の者たちと向き合えたからなのか。
おそらく、そのすべてだろう。
机の上へ右手を置く。傷一つない手だ。この一年で、何度骨が折れ、筋肉が裂けたか分からない。地竜の牙に腹を貫かれた傷さえ、今は跡形も残っていない。
《超再生》。
改めて考えれば、あまりにも強力な力だ。肉体を癒やすだけではない。失った右眼を、以前とは異なる《鑑定眼》として再生した。滅びた世界で身につけた技術の記憶を《追憶》で鮮明に呼び戻し、他者や壊れた武具まで《再生》する。
滅びた世界で数十年鍛え続けた結果だとしても、一つのギフトが持つ力としては、あまりにも常識から外れている。
そして、数百年前。勇者の仲間として魔王と戦った初代《武王》も、《再生》の力を持っていた。
勇者セレスティア。聖女リシア。《超再生》を持つ俺。その前には、同じ再生の力を持ち、勇者と共に戦った初代《武王》がいる。
近くには、《料理》スキルを持ち、俺の身体を誰よりも理解してくれるニーナがいた。父上は、突然変わった俺を疑いながらも、最後には信じて自由に動かせてくれた。ダリオたち騎士団があり、魔の森という実戦の場があり、隣にはグランベル辺境伯領がある。
俺が強くなり、仲間を集め、世界を救うために動くには、あまりにも恵まれた環境だった。
「もしかして……」
女神ルミエラは、俺を過去へ戻すよりも前から、勇者と聖女、そして俺を中心に、世界を救うための仲間や準備を整えていたのではないか。俺が知らなかっただけで、最初から必要なものは近くにそろっていたのではないか。
そう考えた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
もし、そうだったのなら。
滅びた世界で、俺は何をしていた。
セレスティアとリシアが生きていた十六歳まで、俺は怠惰で傲慢なまま、何一つしなかった。ニーナがいなくなっても探そうとせず、家族が離れていっても自分の行いを省みなかった。
努力を始めた時には、何もかもが遅すぎた。勇者は処刑され、聖女は暗殺され、家族も領地も失われていた。
俺がもっと早く動いていれば。周囲にいた者たちへ手を伸ばしていれば。あの世界は、滅びずに済んだのではないか。
俺が怠惰で傲慢だったことも、世界が滅びた一因だったのではないか。
そんな考えが、わずかに頭をよぎる。
「……やめろ」
自分へ言い聞かせる。
答えの出ないことを考え続けても、過去は変わらない。女神がどこまで用意していたのかも、以前の俺が早く動けば本当に世界を救えたのかも、今の俺には分からない。
すべて自分のせいだと思うことも、別の形の傲慢なのかもしれない。世界は、一人の行いだけで滅びたわけではない。
魔王がいる。十二魔将がいる。魔王教がいる。人の欲と争いもある。
だが、俺にできることがあったのも事実だ。
ならば、今度はやる。
精一杯、できることを積み重ねる。知らない未来を恐れて立ち止まるのではなく、想定外が起きることまで考えて備える。
それしかない。
俺はセレスティアとリシアの報告書を重ね、王都へ持っていく書類の中へ入れた。
「今度は、遅れない」
胸の奥に生まれた迷いが、静かに消えていく。
◇
翌朝。
屋敷の正門前には、王都へ向かう馬車と騎馬が並んでいた。
王都へ行くのは、俺と父上、そして母上。身の回りの世話をするニーナ。騎士団長ダリオと、護衛として選ばれた騎士たちだけだ。
母上は男爵夫人として、父上と共に王家の正式な場へ出席する。カイルとリリアは領地へ残る。そして、ルナたち四人にも留守を頼むことにした。
「断る!」
正門前へ、ルナの声が響き渡った。
「わらわも王都へ行くぞ!」
「昨日、話しただろう」
「聞いたうえで断っておる!」
ルナは旅の服を身につけ、王家に伝わる小さなマジックバッグを肩へ掛けていた。誰にも頼まれていないのに、行く準備だけは完璧に終えている。
その後ろには、クロウ、アイゼン、ガルムが立っていた。
クロウは普段と変わらない穏やかな顔をしている。だが、よく見ればマントの下へ短い旅に必要な道具をそろえていた。アイゼンも剣を下げている。ガルムに至っては、大盾を背負っていた。
「お前たちも行くつもりだったのか?」
「姫様がお供なさるのであれば、私も参ります」
「王都の連中が、お前に何もしないとは限らない」
「護衛は、多い方がよい」
三人が順に答えた。
「Aランクパーティを、わざわざ離す必要もなかろう」
ルナが胸を張る。
「王都までわらわたちがついていけば、道中で何が出ようと――」
「だからこそ、残ってほしい」
俺が言うと、ルナの言葉が止まった。
「俺と父上、母上が王都へ行く。グランベル辺境伯とセレスティアも、同じ時期に領地を離れる」
アークハルト男爵領とグランベル辺境伯領。二つの領地は隣り合い、魔の森と帝国という、二つの脅威から王国東部を守っている。
その両方から、当主と主力の一部が王都へ向かう。
「俺たちが留守の間、何も起きないとは限らない」
昨日までなら、ここまでの警戒はしなかったかもしれない。だが、歴史は変わっている。以前と同じことしか起きないと考える方が危険だ。
だからこそ、最も信頼できる者たちへ託す。
「アークハルト領とグランベル領。二つの領地と、そこで生きるすべての者を、お前たち四人に任せたい」
単なる留守番ではない。俺たちが命を懸けて守ってきた場所と、帰るべき場所のすべてを預けるということだ。
俺は、四人の返事を待った。




