第154話 最弱の武王、一年を振り返る
王都へ出発する前日の夜。俺は一人、自分専用の訓練場に立っていた。
外では、明日の支度をする者たちの足音が聞こえている。馬小屋では馬の状態を確かめ、倉庫では旅に必要な荷が馬車へ積み込まれていた。
だが、この訓練場へ入ることは、誰にも許していない。今夜だけは、一人で確かめたかった。
鑑定の儀から、間もなく一年。あの日から積み重ねてきたものを。
「まずは、肉体から確認するとしよう」
夜の強化を意識して抑え、筋力と感覚を昼と同じ状態へ戻す。今確かめたいのは、時間帯に左右されない俺自身の基礎だ。
一年前、この身体は訓練場を五周走っただけで足がもつれ、拳を百回打つことさえできなかった。筋肉も、骨も、魔力の通り道も未熟。六十年以上かけて積み重ねた技術を使おうとしても、身体の方がまるでついてこなかった。
それでも、毎日鍛えた。
走る。打つ。蹴る。受ける。倒れる。立ち上がる。
限界まで正しく身体へ負担をかけ、食べ、休み、《超再生》によって傷ついた箇所を以前より強く作り直す。
一年前と、やっていることは変わらない。だが、積み重ねた時間は、一か月ではなく一年だ。
軽く息を吐く。
「《縮地》」
地面を蹴った。
一歩。
それだけで、身体が訓練場の端まで移動する。
床を踏み抜くことも、止まり切れずにたたらを踏むこともない。身体の軸を一切ぶらすことなく、望んだ場所へつま先を置く。
一年前、三歩先へ進むだけで止まり切れなかった《縮地》は、もはや普段の足の運び方へ組み込めるほど身体になじんでいた。
腰ほどの高さがある訓練用の岩へ右手を添える。
「《破砕》」
小さくつぶやく。音はしなかった。拳を打ち込む必要さえない。
手のひらから通した衝撃が岩の内部へ広がり、手を離した瞬間、細かな砂となってその場へ崩れ落ちた。
続けて右手を開く。
「《崩刃》」
指先から伸びた闘気が、薄い刃へ変わる。
一年前は、肘から先より短い刃をわずかな時間保つことしかできなかった。
今は違う。
闘気の刃は俺の背丈を超えて伸び、意思に従って長さと厚みを変える。右手を振れば細くしなり、離れた訓練人形の首へ巻きついた。
力を込める直前に止める。今夜は、成果を確認するために来たのだ。明日の朝までに、訓練人形を作り直させるためではない。
闘気を収め、両手を見下ろす。
通常の状態でも、身体能力だけでAランク上位。全身へ闘気を解放すれば、短い時間ではあるがSランク上位へ届く。
武王だった頃には遠く及ばない。魔王はもちろん、十二魔将の一柱にすら、今の俺では勝てないだろう。それでも、十二歳へ戻った直後と比べれば、見違えるほど強くなった。
冒険者となって十か月。Cランクから始まり、商隊を救い、《黒鎧虎》を倒し、魔の森深部から生還した。そして、Sランク下位指定魔物《地竜》を倒し、王国史上最年少のAランク冒険者となった。
ルナ、アイゼン、ガルムはBランク。俺たち四人は、ギルド本部からAランクパーティとして正式に認められた。
右眼の《鑑定眼》も、一年前よりずっと多くのものを見抜ける。
《破砕》《崩刃》《縮地》。そして、空間魔法。
武王だった頃の力を、まだ一部ではあるが、確実に取り戻し始めている。
「ぐふふふっ……」
口元から、懐かしい笑いが漏れた。
いかん。一年前も、同じような笑い方をした覚えがある。
俺は一度、頬を引き締めた。
「……いや、これは正当な評価だ」
他に聞いている者はいない。自分の成果を、自分で認めることまで傲慢というわけではないはずだ。
もう一度、この一年で成し遂げたことを思い返す。
「ぐふっ、ぐふふふふっ」
駄目だった。どうしても、口元が緩む。
だが、一年前とは違う。あの時、俺が喜んでいたのは、自分の身体が予想以上に強くなったことだった。
今、うれしいのは、それだけではない。
父上は、一年前よりも領地の未来を明るく語るようになった。母上は、俺が食卓へ着いても心配そうに顔色をうかがわなくなった。カイルは、分からないことがあれば俺の部屋へ聞きに来る。リリアは、俺が依頼から戻るたび、真っ先に廊下を駆けてくる。
使用人たちも、俺の足音を聞いて身を固くすることはない。
騎士団には新たな仲間が増え、武器や防具も宿舎も整った。魔の森に近い村には守りの柵と警鐘が設けられ、避難小屋と共同倉庫も作られた。街道と橋は修理され、食料や傷薬の蓄えも増えている。
鳳凰商会は近隣の領地へ支店を広げ、フェニックス傭兵団も多くの商人や村から信頼されるようになった。
グレイグ、ベッツ、フェル、ティアナ。セルジュ、ロイド、ゲオルグ。ほかにも、この一年で多くの者と出会った。
そして――。
ルナ、クロウ、アイゼン、ガルム。
滅びた世界で失った四人が、今は同じ領地で、共に笑い、食事をし、鍛えている。
一年前の俺は、まず自分が強くならなければ、何も始まらないと考えていた。俺が誰よりも強くなり、勇者と聖女が魔王へ届く道を開けば、今度こそ世界を救えると思っていた。
今は違う。
俺一人では、ここまで来られなかった。
父上が、俺を信じて自由に動かせてくれた。ダリオとルークをはじめとする騎士たちが、俺の訓練に付き合ってくれた。オルドとトーマが、領主学と男爵家の仕事を教えてくれた。仲間たちが、俺一人では見つけられないものを探し、届かない場所へ手を伸ばしてくれた。
そして、毎日大量の食事を用意し、水分と休息を管理し、俺の身体を作り続けてくれた者がいる。
俺が夜明け前に起きれば、すでに軽食が用意されている。訓練を終えれば、飲み物と身体を拭く布が差し出される。傷が残っていないか確かめ、食べる量が足りなければ調理場へ走り、休息を削ろうとすれば笑顔のまま許さない。
冒険者の依頼へ出る時も、魔の森深部へ向かう時も、帰れば必ず同じ場所で待っていた。
女神ルミエラは、俺にもう一度戦う時間を与えてくれた。そして、この一年、その時間を最大限使えるようにしてくれたのは――。
「女神ニーナ様……」
思わず、胸の前で両手を合わせた。
いかん、いかん。一年前は、危ういところで踏み止まったはずだ。今回は完全に祈ってしまった。
俺は慌てて両手を下ろし、訓練場の入口を見る。
誰もいない。気配もない。
よかった。
今の姿をニーナに見られたら、王都へ着くまで、まともに顔を合わせられなくなるところだった。
「……感謝しているだけだ。何もおかしくはない」
誰に言い訳をしているのか、自分でも分からない。だが、一人の時くらいはよいだろう。
六十年以上戦い続けた武王にも、他人には見せられない姿の一つや二つはある。
訓練場の隅に置いていた上着を取り、その場を後にする。
自室の机の上では、王都へ持っていく書類が俺を待っていた。その中には――勇者と聖女、この一年の歩みを記した二人の記録もあった。




