第152話 二人と同じ場所へ
最初は浅い傷一つ治せず、光を出すことさえできなかった。失敗し、学び、同じ訓練を何度も繰り返した。患者の身体について学び、薬師から薬草を教わり、治癒師の処置を見て、魔力を無駄にしない方法を考えた。
そのすべてを、人々は奇跡と呼ぶ。
間違いではないのかもしれない。女神ルミエラから与えられた力がなければ、できなかったことだ。それでも、奇跡という言葉だけで、この一年に積み重ねたものまで見えなくなってしまうことには、少しだけ寂しさを感じた。
「聖女様」
七つ目のベッドから、弱い声がした。
足場から落ちた石材に右手を挟まれ、二本の指を失った若い職人だ。出血は、すでに治癒師が止めている。
わたくしはベッドのそばへ座り、厚い布に覆われた手を見つめた。
「わたくしの治癒魔法でも、失われた指を元へ戻すことはできません」
期待を持たせるような言い方は、してはならない。
「傷口を塞ぎ、痛みを和らげることはできます。ですが、欠損した身体を再び生み出すことは、今の治癒魔法ではできないのです」
「聖女様でも、ですか?」
「はい」
答えると、若者は目を伏せた。
胸が痛む。治してあげたい。できることなら、失った指を元へ戻し、何もなかったように家へ帰してあげたい。
けれど、できないことをできると言えば、その人は偽りの希望へすがり続けることになる。
「申し訳ございません」
「どうして、聖女様が謝るんです」
若者が、力なく笑った。
「俺が足元をよく見ていなかったんです。命があっただけでも――」
「命が助かったのだから、悲しんではいけないとは思いません」
若者が顔を上げた。
「指を失ったことが悲しいなら、悲しいと言ってよいのです。悔しいなら、悔しいと言ってください」
「ですが……」
「そのうえで、これからできることを一緒に考えましょう」
救護院には、身体の一部を失った者へ新しい仕事を紹介する者がいる。利き手を失った職人へ、反対の手で道具を扱う訓練を教える者もいる。使いやすい形へ道具を作り直す工房とも、すでに話を始めていた。
治癒魔法で指を戻すことはできない。けれど、できないからといって、そこで手を離す必要はない。
「あなたのお名前を教えていただけますか?」
「ラウルです」
「ラウル。傷を治した後、救護院の相談役を紹介します。どのような仕事をしてきたのか、これからも続けたいことは何か、聞かせてください」
「……はい」
ラウルの目から、一筋の涙が流れた。
布の上へ両手をかざす。白い光が、傷ついた右手を優しく包み込んだ。
失われた指は戻らない。それでも、残された手を守ることはできる。痛みを取り除き、明日へ進むための力を渡すことはできる。
治療を終えて立ち上がると、老神官が静かに頭を下げていた。
「本日、直接お救いになったのは七名でございます」
「はい」
「しかし、殿下がお作りになった仕組みによって治療を受けた者は、今日だけで四十三名おります」
「わたくし一人で作ったものではありません」
「承知しております。それでも、皆の知識と力をつないだのは、リシア殿下です」
答えることができなかった。
聖女の奇跡。
そう呼ばれるより、その言葉の方が、ずっとうれしく感じられた。
◇
王宮へ戻ったのは、夕刻だった。自室で着替えを終えると、母の侍女から家族用の小食堂へ来るよう伝えられた。
部屋へ入ると、父と母、ユリウスお兄様がすでに席についている。母とわたくしたちが、父を交えて食事をする時に使う、あまり広くない部屋だ。
国王、第二王妃、第二王子、第一王女。肩書だけを並べれば、王国の行く末を話し合う場のように聞こえる。
けれど、今、父の前に置かれているのは政務書類ではなく、母に隠れて食べようとして見つかった蜂蜜菓子だった。
「お父様。また夕食の前に甘い物を召し上がっているのですか?」
「一つだけだ」
「三つ目です」
母が静かに告げた。
「アリアーヌ。数えていたのか?」
「陛下が、何度同じことをなさるか確認しておりました」
兄が顔を逸らしている。笑いをこらえているのだろう。
「ユリウス。何か言いたいことがあるのか?」
「いいえ。私から申し上げることは何も」
「先ほど、台所から二つ持っていったのは誰でしたか?」
母の視線が兄へ移る。
「……父上に頼まれました」
「私を売るのか」
「王になる者は、事実を隠してはならないと教えてくださったのは父上です」
とうとうこらえきれず、小さく笑ってしまった。父は不満そうに蜂蜜菓子を皿へ戻した。
「リシアまで笑うのか」
「申し訳ございません」
「まったく反省していない顔だな」
「そのようなことはありません」
「聖女になってから、母上に似てきたと思わないか、ユリウス」
「私は以前から、よく似ていると思っております」
「二人とも、後でお話があります」
母がほほ笑む。父と兄が、そろって姿勢を正した。
家族の食事が終わると、侍女が一通の手紙を父の前へ置いた。冒険者ギルド本部の印。その印を見ただけで、誰に関する報告なのか分かった。
「アレス様のことですか?」
考えるより先に、名前が口から出ていた。兄がわずかに口元を上げる。母は何も言わなかったが、青紫の瞳を楽しそうに細めている。
「ああ」
父が封を開いた。
「アレス・アークハルト。十二歳十一か月。魔の森の奥の調査を行い、Sランク下位指定魔物《地竜》を退治。本部の審査により、正式にAランク冒険者へ昇格した」
すでに概要は聞いていた。それでも、父の口から正式な報告を聞くと、胸の鼓動が速くなる。
Aランク冒険者。
国境を越えても、下級貴族に準じる礼遇を受ける者。王国の騎士団であっても、簡単に命令することのできない力と実績を持つ存在。その地位へ、アレス様は一年もかからず到達した。
「同じ遠征へ参加した三名もBランクへ昇格。さらに、四人で登録したパーティは、冒険者ギルド本部からAランク冒険者パーティとして正式に認定された」
「Aランクパーティ……」
世界全体でも数が少ない。国の重要な秘密に関わるS級依頼を任されることさえある、特別な存在だ。
「地竜は、どれほどの大きさだったのですか?」
「報告では、全長二十歩を超えていたそうだ」
「二十歩……」
王宮の廊下へ横たえれば、端から端まで届いてしまう。そのような魔物を、アレス様は仲間とともに倒した。
「やはり、拳でうろこを砕いたのでしょうか」
小さくつぶやくと、兄が笑った。
「リシアも、セレスティアと同じことを気にするんだね」
「セレスもですか?」
「レオナルドから届いた返書に書かれていた。地竜の牙を素手で受け止めたのか、拳で頭を砕いたのかと、朝から質問が止まらなかったそうだ」
「セレスらしいです」
思わず頬が緩む。
「地竜をどのように倒したのか。どれほどの傷を負ったのか。報告には、詳しく書かれていない」
父の声がわずかに低くなった。
「ただし、アレスたちは全員、自分の足で帰還した。周囲の冒険者にも死者は出ていない」
その言葉に、胸をなで下ろす。まだ会ったこともない。それでも、報告が届くたび、危険な戦いをしていることが怖くなった。
今度は無事だった。では、次も無事だと誰が言えるのだろう。
父が手紙を机へ置いた。
「もう一つ、知らせがある。《勇聖奉告式》の日取りが決まった」
勇者と聖女が女神ルミエラから選ばれて一年を迎えたことを王国中へ示し、女神へ感謝をささげるための儀式。
つまり、セレスが王都へ来る。
手紙ではなく、直接顔を見て話すことができる。その日を思い描くだけで、胸が弾んだ。
けれど、父の知らせはそれだけではなかった。
「それほど心配なら、本人へ尋ねるとよい」
「尋ねる、とは?」
「アレス・アークハルトと、父ガレス・アークハルト男爵を王都へ招いた」
息をのんだ。
「アレス様が、王都へ?」
「ああ。Aランク昇格と地竜討伐の功績に対し、王国として正式な褒賞を授ける」
「いつですか?」
「《勇聖奉告式》と同じ時期だ」
父の答えを聞いた瞬間、胸の奥が大きく跳ねた。
セレスと再会する、その同じ王都へ。
報告書の中でしか知らなかったアレス様も、やって来る。




