第151話 聖女が築いた救護院
直後、神官の一人が石積みの下へ倒れ込んだ。もちろん、本当に挟まれているわけではない。けれど、助け出す手順を間違えれば、実際の現場では崩れた石がさらに落ちてくる。
地面へ杖を触れさせた。
「崩れないよう、支えてください」
土属性の魔力が地面へ広がる。石積みの下から土が盛り上がり、二本の太い支柱となって崩れた石や木を固定した。
「今です」
二人の聖騎士が神官役の男性を引き出す。その瞬間、演習場の反対側から三つの光弾が飛んできた。
自分だけなら、横へ避けられる。しかし、背後には負傷者役の神官がいる。
胸の前で聖印を結び、一息で《祈祷》を行う。一年前は、心と魔力を整えるだけで長い時間が必要だった。今は、呼吸一つで雑念を沈めることができる。
「《結界》」
白銀の光が、わたくしと背後の神官を包み込んだ。半球状の障壁へ光弾が当たり、三度続けて白い波紋が広がる。
結界は消えない。揺らぎさえ、ほとんどなかった。
「お見事です」
攻撃役の神官が杖を下ろす。
「お二人を守る広さでも、三発すべてを防がれました」
「ですが、これ以上広げると強度が落ちます」
自分一人を守る結界なら、さらに強くできる。けれど、今のわたくしが確実に守れるのは、自分と、もう一人までだった。無理に三人、四人と包めば、一撃ごとの負担が増え、長くは保てない。
「まずは一人を、確実に守る。それでよろしいのです」
老神官が告げた。
「一年前の殿下は、ご自分を守る結界さえ、一度の攻撃で失っておられました」
「はい」
「次は、聖騎士たちへ神聖魔法の加護を」
六人の聖騎士が、わたくしの前へ並んだ。一人ずつであれば、難しくはない。今求められているのは、全員へ同時に加護を与え、その力を均等に保つことだ。
胸の前で手を組む。
「女神ルミエラよ。人々を守るために剣を取る者たちへ、どうか御加護をお与えください」
祈りに応じ、白銀の光が足元へ広がった。六人の聖騎士の身体へ、淡い光が一つずつ昇っていく。鎧の表面に聖印が浮かび、すぐに消えた。
「身体が軽い……」
「魔力の流れまで、先ほどより安定しています」
聖騎士たちが、驚いたように自分の手を見つめる。
神聖魔法による加護は、傷を治すものではない。身体の動きを助け、恐怖や邪気への抵抗を高め、魔力を乱されにくくする。以前は一人へ与えるだけで精一杯だった。今は六人へ同時に施しても、誰か一人の光だけが弱くなることはない。
「この状態で、訓練場を二周してください」
老神官の指示を受け、聖騎士たちが走り出す。いつもより明らかに速い。けれど、わたくしは喜ぶより先に、六人の魔力の揺らぎへ意識を向けた。
一人目。
二人目。
三人目……六人目。
全員の加護が、同じ強さで保たれている。
「五分は維持できそうです」
「一年前は、一人へ一分にも届きませんでした」
褒められるとうれしい。それでも、六人で終わりではない。セレスが戦う場所では、もっと多くの騎士や兵士が剣を取る。いつか、その全員を支えられるようになりたい。
そして、まだ会ったことのないアレス様も。
地竜の前へ立つほど危険な戦いをするのなら、その背中へ加護を届けられるようになりたい。そう考えた瞬間、胸の奥へ小さな熱が生まれた。
三か月前。大神殿で祈りをささげていた時、わたくしは初めて《神託》を受けた。その時に見た光景を思い出す。
暗い空。
大地を覆う、数え切れないほどの黒い影。
その前へ、一人で立っていた少年。
顔は見えなかった。名前も、場所も分からなかった。けれど、王都へ届く報告書を読むたび、あの背中とアレス様の姿が重なっていく。
地竜を倒したからではない。
誰か一人が死ぬことを、最初から諦めてはならない。使えるものをすべて使い、それでも届かなかった最後に命を懸ける。
その言葉を知った時から、ずっと。
「リシア殿下?」
老神官に呼ばれ、我に返る。
「申し訳ございません。少し考え事をしていました」
「新たな《神託》でございますか?」
周囲の空気が変わった。神官も聖騎士も、わずかに緊張した顔でわたくしを見る。
「いいえ」
はっきりと答えた。
「何も聞いてはいません。以前に見たものを、思い出しただけです」
「承知いたしました」
老神官は、それ以上尋ねなかった。父が命じたとおり、大神殿では《神託》を無理に求めることも、意味を決めつけることも禁じられている。
今は、分からないものを考え続けるより、目の前のことへ力を尽くすべきだ。
「次の訓練をお願いします」
◇
午後は、大神殿に隣接する救護院へ移った。広い治療室には、八つのベッドが円を描くように並べられている。
以前の救護院では、患者は到着した順に一つの廊下へ並び、空いた神官が順番に治療していた。その方法では、浅い傷の者を治している間に、急いで処置すべき重傷者が待たされることがある。治癒魔法を使える神官が、薬で治せる傷へ貴重な魔力を使ってしまうこともあった。
半年をかけて、大神官長や老神官、治癒師や薬師と話し合い、仕組みを変えた。患者が運び込まれた時点で、まず容体を確認する。
命に関わる者。すぐに治療すれば後遺症を防げる者。薬と縫合で対応できる者。安静にして待つことのできる者。
色の違う札をベッドへつけ、誰が見ても優先順位を分かるようにした。治療内容と使った薬、治癒魔法の回数も、すべて記録する。
最初は、聖女がいるのだから全員を直接治せばよいと言う者もいた。けれど、わたくし一人の魔力には限りがある。
神官、治癒師、薬師、見習い。
皆ができることを分け、必要な者へ必要な治療を届けた方が、ずっと多くの命を救える。
「準備が整いました」
治癒師の言葉にうなずく。
今日、中央の六つのベッドへ横たわっているのは、建築現場の足場が崩れたことで負傷した職人たちだ。試みるのは、離れた場所にいる複数の患者を同時に癒やす《範囲治癒》。
打撲。浅い裂傷。足首などをひねって痛めた傷。折れたあばら骨。
傷の位置も、深さも違う。一年前なら、一人ずつ手をかざし、すべて治し終えるまでに半日かかっただろう。
今は違う。
六つのベッドの中央へ立ち、杖を床へ置いた。深く呼吸する。
自分の魔力を広げるのではない。一人一人の身体を感じ取り、治すべき場所だけを白い糸で結んでいく。
「女神ルミエラよ。傷つき、痛みに耐える者たちへ、癒やしの光をお与えください」
白銀の光が、床を静かに流れた。
一つ。
二つ。
三つ……六つ。
六つのベッドが、同時に光へ包まれる。患者たちの驚く声が重なった。
「温かい……」
「痛みが、消えていく」
目を閉じたまま、魔力を細かく分ける。裂傷には、傷口が正しく塞がる分だけ。足首などをひねって痛めた傷には、腫れたり傷ついたりした筋へ。折れたあばら骨には、ずれた骨を動かさないよう、治癒師が整えた位置のままゆっくりと。
全員へ同じ量を流してはいけない。必要な力は、一人ずつ違う。一人の治療を終えるたび、その者へつないだ光の糸を閉じ、残る患者へ魔力を回す。
やがて、最後の一人から痛みの強い揺らぎが消えた。半年前なら一人ずつ治して半日を要した傷が、わずかな時間ですべて癒えていた。
「終わりました」
光を収める。治療師たちが、すぐに一人ずつ状態を確かめていく。
「裂傷は完全に塞がっています」
「足首の腫れもありません」
「あばら骨もきれいにつながっています。深く息を吸ってみてください」
職人が恐る恐る息を吸った。痛みにゆがんでいた顔が、驚きへ変わる。
「痛くねえ……」
治療室へ、安心の声が広がった。壁際で見守っていた神官たちが、祈るように手を組む。
「六人を、同時に……」
「これが、聖女の奇跡……」
その言葉は、王都中で何度も聞いた。
けれど、六人が癒えた光の向こうには、まだ七つ目のベッドが残されている。そこに横たわる若い職人の右手には、厚い布が巻かれていた。
そして、失われた二本の指だけは――《聖女の奇跡》でも、元へ戻すことができなかった。




