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怠惰で傲慢だった貴族がやり直しで世界を救う  作者: 雅
第十一章 勇者、聖女の成長2編

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第145話 壁を埋める好敵手

勇者セレスティア・グランベル視点


 若い付き人が、丁寧に畳まれた新しい布を差し出した。


「あの時に頂いた布は、今も大切に保管しております。こちらは、その代わりにと……」


「返さなくて構いません」


「ですが――」


「あれは、返してもらうために渡したものではありません。手が治ったのであれば、それで十分です」


 付き人は自分の右手を見つめ、それからうれしそうに笑った。


「はい。ありがとうございます、セレスティア様」


 三か月余り前に見た、おびえた笑顔ではない。


 子爵と付き人が来客を迎える広間から出ていく。その背中を見送り、扉が閉じた後も、しばらく誰も言葉を発しなかった。


「お父様」


「何だい?」


「私、驚きました」


「奇遇だね。父もだ」


 以前と同じ答えに、思わず笑ってしまった。


「レオナルド。今度は、娘の前でも問題のない感想です」


 お母様もほほ笑んでいる。


「最近、デボルト領が急速に改善しているという報告は届いていたよ。不当に取り立てた税を返し、違法賭博や人身売買に関わった者を捕らえ、井戸や街道を直した。それだけではない。領民の訴えを聞くため、デボルト子爵自身が毎日街へ出ているそうだ」


「あの方が、自分で?」


「以前の彼を知る者ほど、信じられないだろうね。私も、報告だけなら何か裏があるのではないかと疑っていた」


「今日の姿を見れば、すべて本当なのかもしれません」


 お母様が言った。


「まだ、そう決めるには早いよ」


 お父様は慎重だった。けれど、その声に以前のような冷たさはない。


「改革は、一日だけ善人のふりをすれば済むことではない。苦情を聞き、損を引き受け、昨日まで自分へ従っていた者を裁かなければならない。それを続けて初めて、領民からの信頼を取り戻せる」


「では、まだ信用しないのですか?」


「信用は、これから積み上げるものだよ。ただし――」


 お父様は、扉の向こうへ目を向けた。


「積み上げようとしている者の手を、最初から払いのけるつもりもない」


 私も、同じ気持ちだった。今も以前のように苦手なのかと問われれば、まだ分からない。けれど今日の子爵は、私を《勇者》と呼ぶだけではなかった。私が何を喜ぶのかを考え、分からないことは分からないと認めた。


 初めて、モルガン・デボルトという一人の人と話したような気がした。


 ◇


 デボルト子爵が帰って間もなく、王都からの使者が到着した。赤い封蝋には、ルミナリア王家の紋章が刻まれている。お父様は使者から受け取った親書を執務室で開き、お母様と私を呼んだ。


「《勇聖奉告式》の日取りが、正式に決まったよ」


 その一言で、胸が高鳴った。


「本当ですか?」


「ああ。勇者と聖女が女神ルミエラに選ばれてから、間もなく一年になる。王国中の人々へお前とリシア殿下を正式に紹介し、女神へ感謝をささげる奉告式が、王都で行われる」


「リシアに会えるのですね!」


「もちろん。奉告式の主役が一人足りなければ、始められないからね」


 リシアと直接会うのは、鑑定の儀式より前が最後だ。手紙は何度も交わしてきたけれど、顔を見て話せる日を、ずっと待っていた。


「出発は、いつですか?」


「十二日後だ」


「では、今日から準備を――」


「話は、まだ終わっていないよ」


 立ち上がりかけた私へ、お父様が楽しそうに言った。


「もう一人、同じ日に王都へ招かれる者がいる」


 誰なのかを聞く前に、分かった。


「アレス君ですか?」


「相変わらず、その名には反応が早いですね」


 お母様の声が、少しだけ楽しそうだった。


「大切な好敵手ですから」


「まだ一度も会っていないけれどね」


「まだ会っていなくても、私にとって大切な好敵手であることに変わりはありません」


 自分でも少しおかしなことを言っている気がした。けれど、お父様は笑うだけで、否定はしなかった。


「アレス・アークハルト君は、魔の森の奥でSランク下位指定魔物《地竜》を退治した」


「……地竜?」


 聞き間違えたのかと思った。


「あの、竜の?」


「翼は持たないが、竜種に連なる魔物だよ。硬いうろこと、とても丈夫な身体を持ち、退治には複数のAランク冒険者を含む大部隊が必要とされている」


「それを、アレス君が?」


「ルナ殿、アイゼン殿、ガルム殿という三人の仲間と共にね。四人で地竜を倒し、魔の森の奥の地図と、これまで知られていなかった魔物の情報まで持ち帰ったそうだ」


 お父様は、もう一枚の書面を私へ差し出した。冒険者ギルド本部から王家へ提出された報告書の写しだった。


 アレス・アークハルトを、Aランク冒険者へ昇格させる。


 ルナ、アイゼン、ガルムを、Bランク冒険者へ昇格させる。


 そして四人を、正式なAランク冒険者パーティとして認定する。


 何度読んでも、書かれている文字は変わらなかった。


「Aランク……」


 国境を守るグランベル家で育った私は、冒険者のランクがどれほど重いものなのか知っている。Aランク冒険者は、世界のどの国へ行っても下級貴族に近い立場として大切に扱われる。Aランクパーティとなれば、世界全体でも数えるほどしかいない。国の重要な秘密に関わるようなS級依頼を任されることさえある。


 それに、アレス君はわずか十二歳で到達した。


「先を越されました」


 口から出たのは、その言葉だった。


「最初に出る感想が、それなのかい?」


「だって、Aランクです。私はまだ、冒険者ですらありません」


「セレスティアは勇者ですよ」


 お母様がおだやかに言った。


「勇者であることと、アレス君がAランクになったことは別です」


 悔しい。


 驚いた。


 それ以上に、うれしかった。


 壁へ貼った報告書の中で、アレス君は何度も私の想像を追い越してきた。二人の騎士を素手で倒し、十二歳でCランク冒険者になり、商隊を救い、《黒鎧虎》を倒し、Bランクへ昇格した。


 そして今度は、地竜を倒してAランクになった。


 同じ日に鑑定の儀式を受けた少年が、私の知らない場所で、誰よりも速く前へ進み続けている。


「それで、アレス君も王都へ来るのですね?」


「陛下が、その功績に対し褒賞を授けるため、ガレスと共に招かれた。奉告式と同じ日に、褒賞を授けられる予定だ」


「本当に?」


「本当に」


「急に中止になったりは?」


「王命だからね。東部で余程の事態が起きない限り、来るだろう」


「では、会えるのですね」


 胸の奥が、先ほどより強く高鳴った。


 リシアに会える。


 そして、アレス君にも会える。


 壁へ並んだ報告書ではなく、同じ場所に立つ本人へ。


「セレスティア」


 お母様に呼ばれ、顔を上げる。


「ずいぶんとうれしそうですね」


「はい。リシアに会えますから」


「それだけですか?」


「アレス君にも会えます」


 正直に答えると、お母様は満足そうにほほ笑んだ。


「最初に何を話すのですか?」


「きちんとご挨拶をします」


「その後は?」


「訓練試合を申し込みます」


「やはり、そうなるのですね」


「もちろんです。今の私とアレス君の間に、どれほどの差があるのか確かめます」


「地竜を倒したAランク冒険者だよ?」


 お父様の口元が、楽しそうに上がっている。


「だからこそです」


「負けるとは考えないのかい?」


「負けるかもしれません」


「ずいぶんと素直だね」


「ですが、戦う前から負けたことにするつもりはありません」


 報告書を胸の前で握りしめる。すぐにでも訓練場へ走りたかった。あと十二日。その間にできることは、まだいくらでもある。


「もう行ってもよろしいですか?」


「どこへ?」


「訓練場です」


「やはり、そうなるのだね」


 お父様が笑い、お母様は小さく息を吐いた。


「先ほど、準備を始めると言っていませんでしたか?」


「先に訓練をします。荷造りは夜でもできます」


「夜は淑女教育です」


「では、その後に」


「睡眠も、勇者には必要ですよ」


「分かっています。今は訓練の時間です!」


 報告書を持ったまま執務室を飛び出そうとして、扉の前で止まった。振り返り、姿勢を正す。


「お父様、お母様。失礼いたします」


「はい。行ってらっしゃい」


「廊下は走らないように」


「はい!」


 扉を閉じてから、廊下をできる限り速く歩いた。


 自室へ寄り、受け取った報告書を机の上へ大切に置く。壁に残ったわずかな空きは、今夜、この一枚で埋まるだろう。


 けれど、今は報告書を眺めている時間ではない。王都で初めてアレス君本人と向き合う前に、少しでも強くなっておきたかった。


 出発まで、あと十二日。その時間を、驚いているだけで終えるつもりはなかった。


「まずは、騎士二十人」


 小さくつぶやき、私は訓練場へ向かった。

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