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怠惰で傲慢だった貴族がやり直しで世界を救う  作者: 雅
第十章 初代アークハルトの遺産編

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幕間 魔王教

 真っ黒な闇の中へ、一人の男が戻ってきた。


 男の足音も衣擦れも呼吸も、闇へ吸い込まれていく。壁も天井も見えない。それでも男は迷わず進んだ。


 何度訪れても、この場所を好ましいと思ったことはない。暗闇が理由ではなかった。魔の森深部にも、月の光さえ届かない場所はある。だが、ここには風も土の匂いも生き物の気配もない。生きるものを拒む、冷たい静寂だけが満ちていた。


 やがて、前方へ三つの紫黒い炎が浮かび上がる。


 炎は何も照らさない。


 ただ、その向こうに何者かがいることだけを示していた。


『遅かったな』


 右側の炎から声が聞こえた。


 男とも女とも、老人とも子どもとも判別できない声だった。


「申し訳ございません。確認すべきことが増えました」


 男は立ち止まり、片膝をついた。


 右の拳を床へ置き、深く頭を下げる。


『報告を』


「はっ」


 男が顔を上げると、三つの炎の間へ大陸の形をした淡い光が浮かび上がった。


 国境も、都市の名も記されていない。


 代わりに、各地へ小さな黒い点が灯っている。


 その数は、百を超えていた。


『帝国は』


「予定どおりです。種は根づきました」


『本人は気づいているか』


「いいえ。自らの考えだと信じています」


 地図の東側で、一つの黒い点が脈打つ。


「届く報告を疑い始め、周囲の者へのいら立ちも増しております。王国に対する警戒も、以前より明らかに強くなりました。ただし、今すぐ動かせば不自然さが残ります」


『急がせる必要はない』


 中央の炎から、別の声がした。


『心を縛った人形はもろい。命じられたから動く者ではなく、自ら望んで選んだと信じる者が必要だ』


「心得ております」


 精神を直接支配し、意思を奪えば、強い魔力を持つ者や熟練の神官に異常を悟られる。だから魔王教は、心をほんのわずかに傾ける。もともとある疑念を深め、不満を怒りへ変え、欲望を正当化する理由を与える。本人さえ違いに気づかないほどゆっくりと誘導し、最後の一歩だけは自ら選ばせるのだ。


『王国は』


「こちらも進んでおります。対象の周囲へ置いた者たちが、必要な言葉を届けています」


『まだ足りぬ』


「はい。本人の内には、ためらいが残っております」


『何に対するためらいだ』


「……それを口にすれば、対象を示すことになります」


 わずかな沈黙が落ちた。


 左側の炎が、小さく揺れる。


『構わぬ。ここで名を呼ぶ必要はない』


「感謝いたします」


 王国の中央で、もう一つの黒い点が灯る。


 帝国の点よりも光は弱い。


 しかし、その周囲には、すでにいくつもの小さな点が集まり始めていた。


『王と、その後を継ぐ者たちは』


「今のところ、異変には気づいておりません。ただ、警戒心の強い者が近くにおります。誘導を強めれば、察知される可能性があります」


『ならば、今は育てるだけでよい』


「はっ」


 男は、さらに報告を続けた。西方は第二段階まで完了。南方では予定していた道の一つが使えず、北方では三つのうち二つが準備を終え、残る一つも次の冬までには整う。海の向こうでは、長く閉ざされていた門へようやく手が届いた。


 第一の器。第二の門。白き塔。枯れぬ根。国や街の名も、何を準備しているのかも語られない。その場の者だけが意味を知る呼び名だった。


 地図へ灯る黒い点は、報告のたびに一つ、また一つと光を強めた。


『遅れている場所は』


「二か所です。一つは、現地の協力者を失いました」


『誰に』


「まだ分かりません。偶然の可能性もあります」


『偶然か』


 低い声とともに、空気が震えた。


 男の全身へ、見えない重圧がのしかかる。


 膝をついた床へ、細い亀裂が走った。


「調査を続けます」


『もう一つは』


「予定していた者が、こちらの見込みとは異なる行動を取り始めました」


『精神誘導の失敗ではないのか』


「その者には、誘導を行っておりません。欲望のまま動かせば、自然に我らの望む結果へ至ると判断されていました」


『では、なぜ変わった』


「一人の少年と接触した後からです」


 三つの炎が、同時に揺れた。


『また、その少年か』


「はい」


 地図の一部が拡大される。


 王国北東部。


 魔の森と接する、小さな領地。


 そこに灯る黒い点の上へ、初めて赤い光が重なった。


『アレス・アークハルト』


 闇の中で、その名が呼ばれた。


「十二歳で冒険者Aランクへ到達。同行する三名を率い、魔の森深部から全員無事に帰還しております。遠征では、Sランク下位指定魔物の地竜を倒しました」


『報告書は見た。真実なのか』


「疑いありません」


『お前が直接戦ったのか』


「いいえ」


『ならば、なぜ断言できる』


「地竜の死体と戦場の跡を確認しました。ギルドの調査にも偽りはございません。何より、現在のあの少年ならば可能です」


 言い切った後で、男は自分の言葉に違和感を覚えた。


 現在のあの少年ならば。


 いつから、自分はそれほど強く信じるようになったのだろう。


 一年前まで、少年は立場に甘え、周囲を傷つけ、自ら鍛えることもなかった。放っておけば居場所を失う、計画に影響しない存在だと見ていた。


 だが、あの日を境に変わった。誰より早く起き、倒れても立ち、傷ついても進む。家族へ頭を下げ、使用人を気遣い、少しずつ信頼を取り戻した。


 今では帰りを待ち、勝利を自分のことのように喜ぶ者がいる。男もまた、その一人だった。


『随分と高く評価している』


「事実を申し上げたまでです」


『情が移ったか』


 男は、すぐには答えなかった。


 否定は簡単だった。


 任務のために近づいただけ。


 信頼を得るために笑い、ともに過ごしてきただけ。


 そう答えればよい。


 だが、それはうそになる。


「……はい」


 三つの炎の向こうから、何の反応も返ってこない。


「あの地で生きる者たちを、大切に思っております」


『使命よりもか』


「いいえ」


 今度は、迷わなかった。


「任務に支障はございません」


『ならばよい』


 あまりにも簡単な返答だった。


 男が誰を愛そうと、何を守りたいと思おうと、使命さえ果たすならば問題ではない。


 魔王教にとって、心は捨てるものではなかった。


 利用するものだ。


『あの少年は、深部の砦へ入ったのだな』


「はい。血統封印を解き、中に残されていたものを持ち帰りました」


『下は』


「気づいておりません」


『断言できるか』


「隠蔽に乱れはなく、封印にも変化はございませんでした」


『お前が残した跡には気づいた』


「そのようです」


『追われているか』


「いいえ。足跡も、匂いも、魔力も残しておりません。ただし、次に同じ跡を残せば、つなげられる可能性があります」


『ならば、二度と砦へ近づくな』


「しかし、扉を開く方法はまだ――」


『必要ない』


 中央の炎が大きく揺れた。


『血を持つ者が、自ら近づいた』


 男は顔を上げた。


「まさか、あの少年を利用するおつもりですか」


『お前が知る必要はない』


「……失礼いたしました」


 再び頭を下げる。


 胸の内に生まれた疑問を、それ以上口にはしなかった。


 アレスが監視砦へたどり着いたことは、計画にとって障害になる。


 そう考えていた。


 だが、炎の向こうにいる者たちは、違うものを見ている。


 血統封印を開ける者が、向こうから現れた。


 その事実を、よい機会ととらえている。


 何をさせるつもりなのか。


 何を開かせるつもりなのか。


 尋ねることは許されなかった。


『森の準備は』


「七つの地点のうち、四つまで完了しております。残る三つも、冬が来る前には終わります」


『魔物の動きは』


「深部では、すでにわずかな変化が始まっています。ただし、今の段階で人間に気づかれるほどではありません。互いに争うはずの群れが同じ方向へ移り、上位種の縄張りも少しずつ南へ寄っております」


『数は』


「現時点の見込みでは、一万を超えます」


『足りぬ』


「以前のあの地であれば、十分な数でした」


『以前のあの地ならば、な』


 否定できなかった。


 防壁は補強され、見張り台と避難路が増えている。


 騎士と兵士は増員され、装備も更新された。


 各村には食料が蓄えられ、魔物の襲撃を知らせる仕組みも整えられつつある。


 一年前とは、まるで違う領地になっていた。


 その中心にいるのも、あの少年だった。


「数を増やせば、周辺の領地にも被害が広がります」


『それがどうした』


「魔物が散れば、必要な場所へ集まりません。規模だけを増やすより、進行方向を限定した方が確実かと」


『民を逃がす時間も稼げる』


 男の指先が、わずかに動いた。


『違うか』


「結果として、そうなる可能性はございます」


『構わぬ』


 意外な言葉だった。


『我らが必要としているのは、領地の滅亡ではない。定められた夜、定められた場所へ、必要な数が到達することだ』


「必要な数とは」


『お前が知る必要はない』


 二度目の拒絶。


 男は黙って頭を下げた。


『進路は限定せよ。当初は一万を送り込む計画だったが、今のあの地には足りぬ。深部の群れをさらに動かし、三万を目標とする』


「三万……」


『不可能か』


「可能です。しかし、上位種まで同時に動かせば、制御できない個体が現れます」


『制御する必要はない』


「では、合図を受けつけなかった魔物は」


『そのまま行かせよ。森からあふれさえすればよい』


 男の頭の中に、三万の魔物が防壁へ押し寄せる光景が浮かんだ。


 踏み潰される畑。


 崩れる家。


 逃げ惑う人々。


 血にぬれた道。


 そして、その前に立つ少年の背中。


 今のアレスなら、逃げない。


 自分だけが助かる道を選ぶこともない。


 誰より危険な場所へ立ち、最後まで拳を振るい続けるだろう。


 少年自身が、そうなるよう鍛え続けてきた者たちとともに。


『来年の秋。満月の夜だ』


 中央の炎から伸びた黒い筋が、地図に記された魔の森を覆っていく。


『七つをつなぎ、森を南へ流せ』


「はっ」


『時刻を違えるな。一つでも欠ければ、すべてが無駄になる』


「承知しております」


『その日までは、何も悟らせるな。異変を見つけても、説明のつく範囲だけを報告しろ。お前が得ている信頼を、最後まで使え』


 信頼。


 その言葉が、胸の奥へ重く沈んだ。


 人々が向けてくれる笑顔は、偽物ではない。


 ともに過ごした時間も、交わした言葉も、積み重ねてきたものも、本物だった。


 そして、それを裏切るために自分がいることも、変わらない事実だった。


「すべては、あの方のために」


 男が告げる。


 三つの声が重なった。


『すべては、あの方のために』


 地図が消えた。


 紫黒い炎も、一つずつ闇へ沈んでいく。


 最後の炎が消える直前、中央の声が男へ告げた。


『忘れるな。お前が何者であるのかを』


「忘れたことはございません」


 炎が消える。


 再び、何も見えない暗闇だけが残った。


 男は振り返らず戻り、細い光へ踏み入れた。風の音、湿った土の匂い、草木のざわめき、夜鳥の声。生きている世界の気配が戻る。


 入口を閉じ、服の土を払うころには穏やかな表情が戻っていた。だが、作り笑いではない。あの地の者たちを大切に思う気持ちも、魔王教の使命を果たす決意も、男の本心だった。


 だからこそ、どちらかを捨てることはできなかった。


 来年の秋まで、一年余り。


 その時が来るまで、男はこれまでと何一つ変わらず、人々のそばで笑い続ける。


 そして、満月の夜。


 魔の森は、あふれる。

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