幕間 魔王教
真っ黒な闇の中へ、一人の男が戻ってきた。
男の足音も衣擦れも呼吸も、闇へ吸い込まれていく。壁も天井も見えない。それでも男は迷わず進んだ。
何度訪れても、この場所を好ましいと思ったことはない。暗闇が理由ではなかった。魔の森深部にも、月の光さえ届かない場所はある。だが、ここには風も土の匂いも生き物の気配もない。生きるものを拒む、冷たい静寂だけが満ちていた。
やがて、前方へ三つの紫黒い炎が浮かび上がる。
炎は何も照らさない。
ただ、その向こうに何者かがいることだけを示していた。
『遅かったな』
右側の炎から声が聞こえた。
男とも女とも、老人とも子どもとも判別できない声だった。
「申し訳ございません。確認すべきことが増えました」
男は立ち止まり、片膝をついた。
右の拳を床へ置き、深く頭を下げる。
『報告を』
「はっ」
男が顔を上げると、三つの炎の間へ大陸の形をした淡い光が浮かび上がった。
国境も、都市の名も記されていない。
代わりに、各地へ小さな黒い点が灯っている。
その数は、百を超えていた。
『帝国は』
「予定どおりです。種は根づきました」
『本人は気づいているか』
「いいえ。自らの考えだと信じています」
地図の東側で、一つの黒い点が脈打つ。
「届く報告を疑い始め、周囲の者へのいら立ちも増しております。王国に対する警戒も、以前より明らかに強くなりました。ただし、今すぐ動かせば不自然さが残ります」
『急がせる必要はない』
中央の炎から、別の声がした。
『心を縛った人形はもろい。命じられたから動く者ではなく、自ら望んで選んだと信じる者が必要だ』
「心得ております」
精神を直接支配し、意思を奪えば、強い魔力を持つ者や熟練の神官に異常を悟られる。だから魔王教は、心をほんのわずかに傾ける。もともとある疑念を深め、不満を怒りへ変え、欲望を正当化する理由を与える。本人さえ違いに気づかないほどゆっくりと誘導し、最後の一歩だけは自ら選ばせるのだ。
『王国は』
「こちらも進んでおります。対象の周囲へ置いた者たちが、必要な言葉を届けています」
『まだ足りぬ』
「はい。本人の内には、ためらいが残っております」
『何に対するためらいだ』
「……それを口にすれば、対象を示すことになります」
わずかな沈黙が落ちた。
左側の炎が、小さく揺れる。
『構わぬ。ここで名を呼ぶ必要はない』
「感謝いたします」
王国の中央で、もう一つの黒い点が灯る。
帝国の点よりも光は弱い。
しかし、その周囲には、すでにいくつもの小さな点が集まり始めていた。
『王と、その後を継ぐ者たちは』
「今のところ、異変には気づいておりません。ただ、警戒心の強い者が近くにおります。誘導を強めれば、察知される可能性があります」
『ならば、今は育てるだけでよい』
「はっ」
男は、さらに報告を続けた。西方は第二段階まで完了。南方では予定していた道の一つが使えず、北方では三つのうち二つが準備を終え、残る一つも次の冬までには整う。海の向こうでは、長く閉ざされていた門へようやく手が届いた。
第一の器。第二の門。白き塔。枯れぬ根。国や街の名も、何を準備しているのかも語られない。その場の者だけが意味を知る呼び名だった。
地図へ灯る黒い点は、報告のたびに一つ、また一つと光を強めた。
『遅れている場所は』
「二か所です。一つは、現地の協力者を失いました」
『誰に』
「まだ分かりません。偶然の可能性もあります」
『偶然か』
低い声とともに、空気が震えた。
男の全身へ、見えない重圧がのしかかる。
膝をついた床へ、細い亀裂が走った。
「調査を続けます」
『もう一つは』
「予定していた者が、こちらの見込みとは異なる行動を取り始めました」
『精神誘導の失敗ではないのか』
「その者には、誘導を行っておりません。欲望のまま動かせば、自然に我らの望む結果へ至ると判断されていました」
『では、なぜ変わった』
「一人の少年と接触した後からです」
三つの炎が、同時に揺れた。
『また、その少年か』
「はい」
地図の一部が拡大される。
王国北東部。
魔の森と接する、小さな領地。
そこに灯る黒い点の上へ、初めて赤い光が重なった。
『アレス・アークハルト』
闇の中で、その名が呼ばれた。
「十二歳で冒険者Aランクへ到達。同行する三名を率い、魔の森深部から全員無事に帰還しております。遠征では、Sランク下位指定魔物の地竜を倒しました」
『報告書は見た。真実なのか』
「疑いありません」
『お前が直接戦ったのか』
「いいえ」
『ならば、なぜ断言できる』
「地竜の死体と戦場の跡を確認しました。ギルドの調査にも偽りはございません。何より、現在のあの少年ならば可能です」
言い切った後で、男は自分の言葉に違和感を覚えた。
現在のあの少年ならば。
いつから、自分はそれほど強く信じるようになったのだろう。
一年前まで、少年は立場に甘え、周囲を傷つけ、自ら鍛えることもなかった。放っておけば居場所を失う、計画に影響しない存在だと見ていた。
だが、あの日を境に変わった。誰より早く起き、倒れても立ち、傷ついても進む。家族へ頭を下げ、使用人を気遣い、少しずつ信頼を取り戻した。
今では帰りを待ち、勝利を自分のことのように喜ぶ者がいる。男もまた、その一人だった。
『随分と高く評価している』
「事実を申し上げたまでです」
『情が移ったか』
男は、すぐには答えなかった。
否定は簡単だった。
任務のために近づいただけ。
信頼を得るために笑い、ともに過ごしてきただけ。
そう答えればよい。
だが、それはうそになる。
「……はい」
三つの炎の向こうから、何の反応も返ってこない。
「あの地で生きる者たちを、大切に思っております」
『使命よりもか』
「いいえ」
今度は、迷わなかった。
「任務に支障はございません」
『ならばよい』
あまりにも簡単な返答だった。
男が誰を愛そうと、何を守りたいと思おうと、使命さえ果たすならば問題ではない。
魔王教にとって、心は捨てるものではなかった。
利用するものだ。
『あの少年は、深部の砦へ入ったのだな』
「はい。血統封印を解き、中に残されていたものを持ち帰りました」
『下は』
「気づいておりません」
『断言できるか』
「隠蔽に乱れはなく、封印にも変化はございませんでした」
『お前が残した跡には気づいた』
「そのようです」
『追われているか』
「いいえ。足跡も、匂いも、魔力も残しておりません。ただし、次に同じ跡を残せば、つなげられる可能性があります」
『ならば、二度と砦へ近づくな』
「しかし、扉を開く方法はまだ――」
『必要ない』
中央の炎が大きく揺れた。
『血を持つ者が、自ら近づいた』
男は顔を上げた。
「まさか、あの少年を利用するおつもりですか」
『お前が知る必要はない』
「……失礼いたしました」
再び頭を下げる。
胸の内に生まれた疑問を、それ以上口にはしなかった。
アレスが監視砦へたどり着いたことは、計画にとって障害になる。
そう考えていた。
だが、炎の向こうにいる者たちは、違うものを見ている。
血統封印を開ける者が、向こうから現れた。
その事実を、よい機会ととらえている。
何をさせるつもりなのか。
何を開かせるつもりなのか。
尋ねることは許されなかった。
『森の準備は』
「七つの地点のうち、四つまで完了しております。残る三つも、冬が来る前には終わります」
『魔物の動きは』
「深部では、すでにわずかな変化が始まっています。ただし、今の段階で人間に気づかれるほどではありません。互いに争うはずの群れが同じ方向へ移り、上位種の縄張りも少しずつ南へ寄っております」
『数は』
「現時点の見込みでは、一万を超えます」
『足りぬ』
「以前のあの地であれば、十分な数でした」
『以前のあの地ならば、な』
否定できなかった。
防壁は補強され、見張り台と避難路が増えている。
騎士と兵士は増員され、装備も更新された。
各村には食料が蓄えられ、魔物の襲撃を知らせる仕組みも整えられつつある。
一年前とは、まるで違う領地になっていた。
その中心にいるのも、あの少年だった。
「数を増やせば、周辺の領地にも被害が広がります」
『それがどうした』
「魔物が散れば、必要な場所へ集まりません。規模だけを増やすより、進行方向を限定した方が確実かと」
『民を逃がす時間も稼げる』
男の指先が、わずかに動いた。
『違うか』
「結果として、そうなる可能性はございます」
『構わぬ』
意外な言葉だった。
『我らが必要としているのは、領地の滅亡ではない。定められた夜、定められた場所へ、必要な数が到達することだ』
「必要な数とは」
『お前が知る必要はない』
二度目の拒絶。
男は黙って頭を下げた。
『進路は限定せよ。当初は一万を送り込む計画だったが、今のあの地には足りぬ。深部の群れをさらに動かし、三万を目標とする』
「三万……」
『不可能か』
「可能です。しかし、上位種まで同時に動かせば、制御できない個体が現れます」
『制御する必要はない』
「では、合図を受けつけなかった魔物は」
『そのまま行かせよ。森からあふれさえすればよい』
男の頭の中に、三万の魔物が防壁へ押し寄せる光景が浮かんだ。
踏み潰される畑。
崩れる家。
逃げ惑う人々。
血にぬれた道。
そして、その前に立つ少年の背中。
今のアレスなら、逃げない。
自分だけが助かる道を選ぶこともない。
誰より危険な場所へ立ち、最後まで拳を振るい続けるだろう。
少年自身が、そうなるよう鍛え続けてきた者たちとともに。
『来年の秋。満月の夜だ』
中央の炎から伸びた黒い筋が、地図に記された魔の森を覆っていく。
『七つをつなぎ、森を南へ流せ』
「はっ」
『時刻を違えるな。一つでも欠ければ、すべてが無駄になる』
「承知しております」
『その日までは、何も悟らせるな。異変を見つけても、説明のつく範囲だけを報告しろ。お前が得ている信頼を、最後まで使え』
信頼。
その言葉が、胸の奥へ重く沈んだ。
人々が向けてくれる笑顔は、偽物ではない。
ともに過ごした時間も、交わした言葉も、積み重ねてきたものも、本物だった。
そして、それを裏切るために自分がいることも、変わらない事実だった。
「すべては、あの方のために」
男が告げる。
三つの声が重なった。
『すべては、あの方のために』
地図が消えた。
紫黒い炎も、一つずつ闇へ沈んでいく。
最後の炎が消える直前、中央の声が男へ告げた。
『忘れるな。お前が何者であるのかを』
「忘れたことはございません」
炎が消える。
再び、何も見えない暗闇だけが残った。
男は振り返らず戻り、細い光へ踏み入れた。風の音、湿った土の匂い、草木のざわめき、夜鳥の声。生きている世界の気配が戻る。
入口を閉じ、服の土を払うころには穏やかな表情が戻っていた。だが、作り笑いではない。あの地の者たちを大切に思う気持ちも、魔王教の使命を果たす決意も、男の本心だった。
だからこそ、どちらかを捨てることはできなかった。
来年の秋まで、一年余り。
その時が来るまで、男はこれまでと何一つ変わらず、人々のそばで笑い続ける。
そして、満月の夜。
魔の森は、あふれる。




