第141話 アレスがもたらしたもの
ガレス・アークハルト男爵視点
領民から届いた願いに、もう「次の年まで待ってほしい」と答える必要はなくなった。
アレスが強くなったことで、男爵家が潤った。男爵家に余裕が生まれたことで、騎士団が強くなった。騎士団と領地の備えが厚くなったことで、村と街道が安全になった。行き交う商人が増え、職人へ仕事が回り、領内の市場にも以前より活気が出ている。
アレスが持ち帰った一つの素材が、金へ変わり、装備へ変わり、道へ変わり、最後には領民の安心へ変わっていた。
この一年で成長したのは、アレスだけではない。アークハルト家も、騎士団も、領地そのものも変わった。
「この帳簿をまとめたのは、お前か?」
「集計は、すべてトーマが行いました。私は最後に確認しただけでございます」
オルドが、どこか誇らしげに答えた。
「見やすくなったな。以前より、金の流れが分かりやすい」
「ありがとうございます」
トーマが深く頭を下げた。
一年前のトーマは、若い執事としてオルドの後ろにつき、領政と屋敷の実務を学んでいた。
今は、アレスが持ち帰った素材の記録から、鳳凰商会との売買、工事の支払いまでを任せられるようになっている。
その隣で、オルドが目を細めている。オルドは、アレスが領主学の書物を一度読んだだけで覚え、質問へつかえずに答えるたびに涙を流していた。
最近ではアレスだけでなく、成長したトーマの仕事を見ても目頭を押さえる。
「今夜の客人は、到着しているか?」
「鳳凰商会のセルジュ殿と、フェニックス傭兵団のグレイグ殿は、すでに客間へご案内しております。お二人とも、正式な場で旦那様へご挨拶する機会をいただけたことを、喜んでおられました」
「そうか」
鳳凰商会とフェニックス傭兵団。この一年、領内だけでなく、近隣の領地でも急速に名を上げている二つの組織だ。
鳳凰商会は、質のよい傷薬や解毒薬、旅道具、魔物素材を使った商品を扱う。約束を守り、無理に値をつり上げない。
品を買う時と売る時のどちらも、値段の理由を明らかにするため、商人や冒険者から信用されていた。すでにデボルト子爵領へも支店を出し、商品を売る場所を広げている。
フェニックス傭兵団は、商隊の護衛だけでなく、魔物に襲われた旅人の救出や、村からの退治依頼も引き受けている。
依頼人の身分で仕事を選ばず、受けた依頼は最後まで果たす。酒場で騒ぎを起こさず、村人へいばった態度も取らない。雇われた兵の集団としては珍しいほど、決まりを厳しく守ると聞いていた。
二つの組織は、どちらもアークハルト男爵家から独立している。これまでは、トーマを通して素材を売り買いし、細かな依頼を出してきた。今後も、鳳凰商会へ素材の加工と販売を任せるつもりだ。フェニックス傭兵団へも、商隊や村の護衛を頼むだろう。
だからこそ、今夜顔を合わせる意味がある。当主である私自身がそれぞれの責任者と会い、互いの考えを知っておくべきだ。
「では、行こう。主役たちを待たせるわけにはいかん」
「はい。旦那様」
私は二通の昇格通知と、Aランクパーティの認定書を手に取り、トーマとオルドを伴って執務室を出た。
◇
大広間へ近づくにつれ、にぎやかな声が聞こえてきた。
今夜は、アレスたちの昇格とAランクパーティ認定を祝う宴が開かれる。家族と使用人だけの食事にする案もあったが、知らせを聞いた騎士たちが自分たちにも祝わせてほしいと願い出た。結局、屋敷の大広間を使い、騎士団の主だった者と、アレスに近い者たちも招くことになった。
扉を開けると、色とりどりの布と花で飾られた広間が目に入った。正面の壁には、一際大きな布が掲げられている。
『アレス兄上 Aランク昇格おめでとう』
わずかに曲がった文字は、カイルとリリアが二人で書いたものだろう。
「父上!」
私に気づいたリリアが、うれしそうに駆け寄ってきた。
「見てください。わたくしとカイル兄上で書いたのです」
「よく書けている」
「アレス兄上も、上手だと言ってくださいました」
リリアは満面の笑みを浮かべている。
一年前、この子はアレスの姿を見ただけで、エレナの後ろへ隠れていた。今は兄の帰りを誰よりも楽しみに待ち、戻ってくれば真っ先に駆け寄る。
アレスが何日も屋敷を空ける時には、帰ってきたら一緒にすることを紙へ書き、部屋で大切に保管しているそうだ。
「父上、こちらです」
カイルが、得意げに一枚の紙を差し出した。そこには、冒険者のランクがFからSまで順番に書かれている。Aの文字だけが、赤い線で何重にも囲まれていた。
「兄上は、あと一つでSランクなのですよね?」
「ランクだけを見れば、そうだな。だが、Sランクは一つ上という言葉だけでは表せぬほど遠い」
「でも、兄上ならなれます」
カイルは迷いなく言い切った。
以前のカイルは、兄を恐れながらも、どこかで認めてほしいと願っていた。今はアレスを慕い、その背を追うように剣と勉学へ励んでいる。最近では、自分から訓練場へ出て、騎士たちへ頭を下げて教えを請うようになった。
兄が変われば、弟と妹も変わる。家族の中にあったおびえと緊張は、もうどこにも残っていない。
「あなた」
エレナが歩み寄り、私の手にある手紙へ目を向けた。
「やはり、何度も読み返していたのですね」
「トーマにも同じことを言われた」
「だって、あなたが執務室からなかなか出てこないのですもの」
エレナは楽しそうに笑っている。
この一年で、妻の笑顔も増えた。以前はアレスとカイルが同じ部屋にいるだけで、何か起きないかと気を張っていた。リリアが泣けば、原因を尋ねる前にアレスの方を見ていた。
今は違う。
アレスが長く屋敷を空ければ心配し、無事に戻れば安心する。それでも、あの子が必ず帰ってくると信じ、家族の前ではおだやかに待てるようになった。
その信頼は、ニーナも同じだった。
広間の奥では、ニーナがアレスの傍に立ち、料理を運ぶ使用人たちへ指示を出している。くり色の髪をきれいに結い、柔らかなほほ笑みを浮かべていた。
一年前のニーナは、アレスの前で常に謝る準備をしていた。何も失敗していなくとも頭を下げ、機嫌を損ねないよう一つ一つの言葉を選んでいた。
今のニーナは、アレスがどれほど危険な場所へ向かっても、帰ってくることを疑わない。今回も、魔の森の奥から戻ったアレスへ、取り乱すことなくほほ笑み、「おかえりなさいませ、アレス様」と頭を下げたという。
危険を理解していないのではない。理解したうえで、それでも信じているのだ。
「父上」
声に振り向くと、アレスが立っていた。その横には、ルナ、アイゼン、ガルム。少し離れた場所には、クロウもいる。
地竜との戦いから三週間が過ぎ、目立つ傷は誰にも残っていない。あれほどの死闘を潜り抜けたとは思えないほど、四人は普段と変わらぬ姿で立っていた。
「お待たせしました」
「いや。私の方こそ、待たせたな」
アレスの胸元には、新しい冒険者証が下げられている。名前の下へ刻まれたAの文字を見た瞬間、手紙で読んだ時とは違う実感が胸へ込み上げた。
「見せてもらってもよいか?」
「もちろんです」
差し出された冒険者証を受け取る。重さは、以前のものとほとんど変わらない。それでも、この小さな証が持つ意味は比べものにならなかった。
「十二歳でAランクか」
「十二歳十一か月です」
「そこは大事なのか?」
「ギルドの最年少記録として残るそうです」
「そうか」
私は冒険者証をアレスへ返した。
「よくやった」
「ありがとうございます、父上」
短い言葉だった。だが、それで十分だった。
背後から、小さく鼻をすする音が聞こえた。振り返らなくとも分かる。
「オルド」
「申し訳ございません。坊ちゃまが、あまりにもご立派になられましたので……」
「私が言えた義理ではないが、今夜は祝いの席だ。好きなだけ泣け」
「はい……ありがとうございます」
「オルドだけではありませんよ」
エレナに言われ、周囲を見る。侍女長のエマは厳しい顔を保っていたが、目元がわずかに赤い。料理長のハンナは台所から顔を出し、アレスとガルムが料理の並ぶテーブルを見ているのを満足そうに眺めている。
若い侍女たちも、執事たちも、誰もアレスを恐れてはいない。むしろ、自分が花を飾った、自分が祝いの菓子を焼いた、自分が新しいテーブルクロスを選んだと、誇らしそうに話している。
騎士たちも同じだった。ダリオとルークを先頭に、広間の片側へ並んでいる。新しく騎士団へ加わった者たちは、あこがれに満ちた目でアレスを見ていた。古くから仕える騎士たちは、どこか自分のことのように胸を張っている。
十一か月前、アレスと訓練試合をした騎士たちは、あの時から自分たちは若様の才能を見抜いていたと、新しく入った者たちへ何度も語っているらしい。最初は勝てると思っていたことだけは、都合よく忘れているようだ。
「旦那様。お客様をご紹介いたします」
トーマの声に振り返ると、その後ろに、対照的な二人の男が立っていた。
一人は、上質だが華美ではない濃紺の服を着た細身の男。柔らかな笑みを浮かべているが、その目には、広間にいる者の立場と動きを一瞬で見抜くような鋭さがある。
もう一人は、槍を持っていなくとも歴戦の兵だと分かる大柄な男だった。背筋を伸ばし、周囲へ隙を見せずに立っている。
アレスの歩みがこの領地へもたらしたものは、金や安全だけではない。異なる道を歩んできた者たちまで、この場所へ結びつけていた。
その縁を領地の未来へつなげられるかは、ここから先、領主である私の役目だ。




