第14話 最弱の武王、鍛え直す5
父上の執務室へ入ると、ガレス・アークハルトは机に積まれた書類へ目を通していた。短く整えられた黒髪。鍛え上げられた大きな身体。鋭い灰色の瞳が、書類から俺へ向けられる。
「領主学は終わったのか?」
「はい」
「逃げ出さずに?」
「最後まで受けました」
「そうか」
父上はうなずいた。それだけのことなのに、わずかに安心した顔をしている。以前の俺は、どれほど手を焼かせていたのだろう。
「それで、何の用だ?」
「人目につかず、一人で集中できる訓練場所をお借りしたいのです」
父上の眉が動いた。
「訓練場では駄目なのか?」
「朝は、ダリオとルークの指導を受けます。ですが、騎士たちの訓練を邪魔せず、魔力操作や《体術》の反復を行える場所も必要です」
「五周で立てなくなったと聞いたが」
「ですから、鍛える必要があります」
「話がつながっているようで、つながっていないぞ」
父上は書類を机へ置いた。
「どの程度、鍛えるつもりだ?」
俺は、考えていた日課を説明した。
日の出から二時間、騎士団と基礎訓練。
朝食後は二時間の領主学。
十時から正午までは魔力操作。
昼食と休息を挟み、午後は肉体鍛錬と《体術》の反復。
夕食後も、就寝に支障が出ない範囲で魔力操作を行う。
説明が進むにつれ、父上の眉間に深いしわが刻まれていった。
「待て」
父上が片手を上げる。
「それでは、一日に何時間鍛えることになる?」
「およそ十一時間です」
「十二歳の子どもが行う訓練量ではない」
「普通の十二歳であれば、そうだと思います」
「お前も十二歳だ」
「ですが、俺には《再生》があります」
「《再生》があれば、何をしてもよいわけではない」
父上の声が低くなる。
「傷を治せても、魔力や栄養は無限ではないのだろう?」
「はい」
「ならば、なおさらだ」
父上は椅子から立ち上がり、机を回って俺の前へ来た。見下ろす灰色の瞳には、当主としての厳しさだけではなく、父親としての心配があった。
「私は、お前が強くなることに反対しているのではない」
「分かっています」
「無茶をして、お前を失うことに反対している」
一瞬、言葉が出なかった。以前の俺は、父上が自分を邪魔しているとばかり思っていた。何かを禁じられれば、嫌われている。しかられれば、見捨てられた。そう決めつけていた。実際には違った。この人はずっと、俺を守ろうとしてくれていたのだ。
「無茶はしません」
「お前の考える無茶と、私の考える無茶は違いそうだがな」
否定はできない。
「すべての訓練を限界まで行うわけではありません。肉体へ負荷をかける時間と、技術を反復する時間は分けます。食事も取ります。睡眠も削りません。《再生》で治せるのは、肉体の損傷が中心です。魔力が尽きれば使えません。栄養が足りなければ、身体を作り直すこともできません」
父上が目を細める。
「そこまで理解しているのなら、条件を出す」
「お聞かせください」
「領主学は毎日二時間。これは減らさない」
「承知しました」
「食事を抜かない。睡眠も削らない。体調に異常が出れば、すぐにエドへ診せる」
「はい」
「訓練場所へ鍵はかけるな。ニーナかオルドが様子を見に行くことも拒むな」
一人で集中したいのは事実だが、断れば許可は下りないだろう。それに、倒れたまま誰にも見つけてもらえないという事態は避けるべきだ。
「承知しました」
「西棟の裏に、使われていない旧演武場がある」
「旧演武場ですか?」
「高い石壁に囲まれている。外から中を見ることはできない。先代が個人鍛錬に使っていた場所だ。小さいが、休憩室と炊事場もある。お前には最適だろう」
「そこを使わせてください」
「許可する。ただし、無茶をしていると私が判断した場合は、すぐに使用を禁止する」
「ありがとうございます」
俺が頭を下げると、父上は小さく息を吐いた。
「本当に変わったな」
「いえ、これからです。結果で皆に示さなければなりません」
「そうか」
父上の口元が、わずかに緩んだ。だが、俺と目が合う前に机へ向き直り、何事もなかったように書類を手に取る。どうやら、うれしそうな顔を見られたくはなかったらしい。
◇
旧演武場は、西棟のさらに奥にあった。屋敷から少し離れた場所に建ち、高い石壁で四方を囲まれている。長く使われていなかったのだろう。地面の隅には雑草が生え、木製の訓練人形には薄くほこりが積もっていた。だが、広さは十分にある。外から見られる心配もない。
「悪くない」
扉を閉める。もちろん、父上との約束どおり鍵はかけない。時刻は、午前十時を少し過ぎた頃。まず取り戻すべきは、《身体強化》だ。魔力を筋肉や骨、神経へ流し、身体能力を引き上げる技術。
一定以上の騎士や冒険者であれば、誰もが習得を目指す基本戦闘技術だ。基本だからといって、簡単なわけではない。魔力を全身へ正確に巡らせる技術と、強化された動きに耐えられる肉体。その両方が必要になる。
《身体強化》を極めた者は、冒険者であればAランク。騎士であれば、ダリオのような騎士団長級へ到達する。
そして、その先。人外と呼ばれ、一人で戦況を変えるSランク以上へ至るには、《闘気》が必要になる。肉体、魔力、生命力、精神。そのすべてを一つに練り上げ、戦う力へ変える技術。俺は、どちらも使い方を知っている。知ってはいるが――
「まずは、身体強化からだな」
両足を肩幅に開き、呼吸を整える。胸の奥にある魔力を感じ取り、右腕へ流した。細い。あまりにも細い。かつては大河のように全身を巡っていた魔力が、今は糸ほどの流れしかない。
慎重に、筋肉の内側へ通していく。肩。上腕。肘。前腕。手首。拳。魔力が右拳へ到達した瞬間。
「っ……!」
鋭い痛みが走った。皮膚の下で、細い血管がいくつも切れる。拳が赤く腫れ、指先がしびれた。魔力の量を抑えたつもりだった。それでも、今の肉体と魔力経路には強すぎたらしい。
「弱いな」
身体ではない。武王だった頃の感覚を基準にした、俺自身の判断が甘かった。使い方を知っていることと、今すぐ使えることは違う。俺は傷ついた右腕へ意識を向けた。
「《再生》」
温かな魔力が流れ込み、切れた血管と傷ついた神経を修復していく。腫れが引き、指先のしびれが消える。だが、消費した魔力まで戻るわけではない。胸の奥にある魔力は、確実に減っていた。
「もう一度だ」
今度は先ほどの半分。さらに細く、ゆっくりと魔力を右腕へ流す。肩。上腕。肘。前腕。手首。拳。痛みはない。だが、身体が強化された感覚もほとんどなかった。あまりにも弱い流れだ。
それでも構わない。まずは、壊さずに通す。次に、同じ太さのまま流れを速くする。それができたら、わずかに量を増やす。魔力経路へ少しずつ負荷をかけ、傷ついた部分を《再生》によって修復する。焦る必要はない。
細い水路へ一度に大量の水を流せば、堤は崩れる。ならば、耐えられる量を流しながら、水路そのものを少しずつ広げればいい。何度も繰り返した。魔力を流す。止める。再び流す。右腕。左腕。右脚。左脚。胸。背中。
全身へ同時に流そうとすると、すぐに制御が崩れた。右腕を強化すれば、左脚の魔力が途切れる。背中へ意識を向ければ、拳から魔力が抜ける。武王だった頃なら、眠ったままでもできたことだ。それが今は、一か所ずつ意識しなければならない。技術は残っている。だが、身体も魔力経路も未熟だった。
一時間ほど続けたところで、額から汗が流れ始めた。身体を動かしているわけではない。それでも頭の奥が重く、わずかな吐き気まで感じる。魔力操作による神経疲労だ。ここから先は、闘気の確認だけに留めるべきだろう。
「次は、闘気か」
世界が滅びへ向かうまでに、俺はもう一度あの力へたどり着けるのか。
その最初の答えを、確かめる。




