第13話 最弱の武王、鍛え直す4
朝食を終えた頃には、朝の八時を少し回っていた。俺は屋敷の一階にある学習室へ向かった。南向きの窓から柔らかな朝の光が差し込み、壁際の本棚には、領地経営や歴史、法律について書かれた本が隙間なく並べられている。
以前の俺にとって、ここは退屈の象徴だった。教師の話を聞かず、机へ突っ伏し、気に入らなければ本を投げる。何度も逃げ出そうとし、そのたびに使用人を困らせた。我ながら、救いようがない。
部屋へ入ると、すでに二人の男が待っていた。一人は、屋敷を取り仕切る家令の見習い、トーマ・リード。二十六歳。整えられた茶色の髪に、真面目そうな灰色の瞳。細身の身体を濃い青の服で包み、胸元まで隙なく襟を留めている。
机の上には、教材と書類がきれいに並べられていた。いかにも、きっちりした男だ。
もう一人は、執事長のオルド・バレル。五十八歳。白髪を後ろへなでつけ、背筋を真っすぐに伸ばしている。俺が騒ぎを起こした時には、父上より先に現れることも多かった。その顔には、俺が生まれる以前から刻まれていたのではないかと思うほど、深いしわが刻まれている。
「おはようございます、アレス様」
トーマが立ち上がり、頭を下げた。
「本日より、領主学の授業を再開いたします」
「ああ。よろしく頼む」
俺が席へ着くと、トーマの動きが一瞬止まった。オルドも、白い眉をわずかに上げている。
「どうした?」
「いえ。失礼いたしました。以前は授業を始めるまでに、少なくとも三度はお声がけする必要がございましたので」
「そうだったな。悪かった。今後は時間どおりに来る」
「承知いたしました」
背後で、オルドが小さく鼻をすすった。振り返ると、また目元を潤ませている。昨日から、少し涙もろくなりすぎではないだろうか。トーマは何も見なかったことにしたらしく、せき払いを一つして机の上へ地図を広げた。
「本日は、アークハルト領の地理から始めます」
広げられた羊皮紙には、領内の街道や河川、村の位置が記されている。地図の北側には、黒い線を幾重にも重ねて描かれた広大な森があった。
魔の森だ。アークハルト領の北端には魔の森が広がり、領都はその南縁に食い込むように築かれている。北壁の中央にある北門と、そこから延びる一本の開拓道を除けば、城壁のすぐ外は魔の森だ。
西には険しい岩丘が連なり、東には流れの深いセント川がある。魔の森から南へ抜けられる最も広い平地を、領都そのものが塞いでいた。
領都を森から遠ざければ、安全にはなる。だが、それでは森から出た魔物が領内へ散り、村や街道を好きに襲える。
だから初代当主レグナスは、最も危険な場所へ城壁を築いた。領都を守るためではない。領都を盾として、その南に暮らす領民を守るために。それこそが、アークハルト家が代々この地を治めてきた理由だった。森を越えさせるな。民の盾となれ。恐れるな、退くな、諦めるな。
「領都の周囲には、三つの村がございます」
トーマの指が、地図の上を動く。
「北のカルム村、南西のベルン村、南東のリト村です。最も人口が多いのはリト村。次いでベルン村。カルム村は魔の森に近いため、三村の中では最も小さな村となります」
「領都より北に村があるのか?」
「はい。北門から森を切り開いた細長い開拓地が延びており、その先にカルム村がございます」
よく見れば、北門から真っすぐ北へ延びる街道の先に、小さな円が描かれていた。道の左右は魔の森。カルム村の周囲だけが、槍の穂先のような形に切り開かれている。
「随分と危険な場所だな」
「もとは森の異変を監視するための詰め所でした。木材や薬草を採取する者が集まり、やがて村となったと伝えられております。木柵と見張り塔があり、異変があれば狼煙と鐘で領都へ知らせます」
つまり、カルム村は領都より先に魔物の動きを知るための目であり、同時に最初に危険へさらされる場所でもある。
「各村の人口は?」
トーマの指が止まった。
「人口、でございますか?」
「ああ。成人男性の人数も分かるか?」
「総人口については昨年秋の記録がございます。ただ、成人男性だけの正確な人数は、徴募名簿と照合しなければ分かりません」
「なら、それは後で構わない。まずは総人口を教えてくれ」
トーマは別の書類を取り出した。
「カルム村が二百十四名。ベルン村が三百九十六名。リト村が四百八十二名です」
「領都を含めた領内の総人口は?」
「およそ六千八百名です」
「騎士団と兵士は?」
「常備の騎士が三十二名。従士と兵士を合わせて百二十名ほどです。緊急時には、三村から自警団を招集できます」
少ない。地形と城壁を利用できるとはいえ、魔の森に面した領地を守るには、戦える者があまりにも少なかった。滅びた未来で、スタンピードを防げなかった理由の一つだ。
「食料は、どこへ保管している?」
「領都の倉庫が三か所。各村にも共同の穀物庫がございます」
「カルム村が魔物に襲われた場合、住民はどうする?」
「鐘を鳴らし、北街道を通って領都へ避難します。領都の北門を開き、住民を収容した後、門を閉じて魔物を迎え撃つ手順です」
「村から北門まで、どれくらいかかる?」
「健康な成人が徒歩で一時間半ほどです」
「老人や子どもは?」
「そこまでは……正確に測った記録がございません」
「荷馬車を使った場合は?」
「道の状態にもよりますが、一時間はかからないかと」
「全員が家財を積んだ荷馬車で逃げれば、どうなる?」
トーマが口を閉じ、地図へ視線を落とした。北街道は、荷馬車が二台すれ違える程度の幅しかない。道の両側は魔の森で、脇へ逃れる場所もほとんどなかった。途中で一台でも横転すれば、その後ろにいる者は進めなくなる。
滅びた世界では、まさにそれが起きた。家財を積んだ荷馬車がぬかるみに車輪を取られ、横倒しになった。後ろから来た荷馬車が次々と立ち往生し、人々が北門へ殺到した。
領民を見捨てられず、守備兵は門を閉じるのが遅れた。そこへ、魔物の群れが追いついた。老人も、女も、子どもも。北街道は、逃げ場のない地獄へ変わった。だが、その事実を口にすることはできない。
「荷馬車が一台でも道を塞げば、避難は止まる。回り道はないのか?」
「森の巡回路はございますが、道幅が狭く、大勢での避難には使えません」
「南西と南東の村は?」
「領都が魔物の南下を食い止めている間は、それぞれの村で待機します。北壁が破られた場合、ベルン村は西街道、リト村は東街道を使って南へ避難することになっております」
「北壁が破られたと、誰が判断して伝える?」
「領都から早馬を出します」
「夜間や悪天候なら? 早馬が魔物に襲われたら?」
トーマは、すぐには答えなかった。灰色の瞳に、わずかな戸惑いが浮かんでいる。
「アレス様。なぜ、そのようなことをお尋ねになるのですか?」
「魔の森が隣にあるからだ」
俺は地図の北側へ指を置いた。
「魔物が一体や二体現れるだけなら、騎士団が討伐すればいい。だが、何十体、何百体と森からあふれた場合は、それだけでは間に合わない」
「それは……」
「領都が盾になるのは正しい。だが、盾が破られないとは限らない。避難する道と、食料と、水が必要になる。誰が警告を発し、何を持ち、どこへ逃げるのかも、先に決めておかなければならない」
俺一人がどれほど強くなっても、それだけでは領地全体を守れない。目の前にいる敵は倒せる。だが、北と南西と南東へ同時に駆けつけることはできない。遠く離れた領民を守るには、人と情報と物資を動かすための備えが必要になる。滅びた未来で、嫌というほど思い知らされたことだ。
「領主学など、時間の無駄だと思っていた」
俺は地図を見たまま言った。
「だが、領地を守るためには必要だ」
トーマは何も答えなかった。ただ、先ほどまでよりも真剣な目で俺を見ている。オルドも黙ったまま、わずかに目を細めていた。
「三村の避難経路だけでなく、井戸、倉庫、橋、見張り塔まで記した地図はあるか?」
「それぞれ別の資料となります」
「次からは、すべて用意してくれ。それと、カルム村から領都まで、老人や子どもを含めて実際に歩けば何時間かかるのか知りたい。荷馬車を使う場合も、積み荷の有無を分けて調べてほしい」
トーマは一瞬だけ驚いた顔をした。その後、静かに頭を下げる。
「調査いたします」
「頼む。南西と南東の村についても、早馬以外の連絡手段を考えておいてくれ」
「承知いたしました」
授業は、そのまま二時間続いた。領内の地理、人口、税収、農作物、街道、河川、近隣領との関係。以前の俺なら、最初の十分で眠っていただろう。だが、今は一つとして聞き逃せない。
二年後、この領地を滅ぼす災厄がやってくる。その時までに、できる限りの準備を整える必要がある。俺自身が強くなるだけでは足りない。領地そのものを、以前より強くしなければならない。
「本日の授業は、ここまでです」
トーマが書類を閉じた。
「次回までに、先ほどご要望いただいた資料を準備いたします」
「ああ」
立ち上がろうとすると、トーマに呼び止められた。
「アレス様」
「何だ?」
トーマは言葉を選ぶように、わずかに視線を伏せる。
「本日のご質問は、領主となる者にとって、どれも重要なものでございました」
「そうか」
「はい」
それだけ言うと、トーマは深く一礼した。以前の俺なら、褒められたと得意になっていただろう。だが、今のは単なる称賛ではない。これからも同じ姿勢を続けられるのか。トーマは、まだ俺を見定めている。それでいい。信用は言葉で求めるものではない。行動を積み重ね、相手に判断してもらうものだ。
「オルド」
「はい」
「父上にお話がある。今からお会いできるか?」
「旦那様でしたら、執務室にいらっしゃいます」
「案内を頼む」
「かしこまりました」
領地を守るための備えと同じく、俺自身の鍛錬も一日たりとも遅らせられない。
だが、俺の考えた修行計画を聞けば、父上は必ず止めるだろう。
それでも、譲るつもりはなかった。




