第12話 最弱の武王、鍛え直す3
「素晴らしいご判断です」
ルークが笑う。
「褒められるほどのことか?」
「無理をやめることは、意外に難しいものですから」
訓練場の入口を見る。ニーナが、布と水差しを抱えて立っていた。こちらが終わるのを待っていたらしい。朝の光を受け、肩口で切りそろえられた栗色の髪が柔らかく輝いている。
「アレス様、お疲れさまでございました」
ニーナが小走りで近づいてくる。額の汗を拭くための布を差し出した。
「ありがとう」
「お身体は、大丈夫でしょうか?」
琥珀色の瞳が、心配そうに俺を見つめる。
「問題ない」
「ですが、お顔が真っ赤です」
「運動をしたからだ」
「足も、少し震えていらっしゃいます」
よく見ている。
「疲れているだけだ。怪我はしていない」
ニーナはまだ心配そうだったが、それ以上は言わなかった。水を注いだ木の杯を、両手で差し出す。
「どうぞ」
一気に飲み干した。冷たい水が喉を通り、熱を持った身体へ染み渡っていく。
「朝食のご用意ができております」
「量は?」
「これまでの二倍ほどです」
「三倍ではないのか?」
「料理長から、朝からそれ以上は多すぎると言われました」
ハンナめ。正しい判断だ。
「ですが」
ニーナが、少しだけうれしそうに微笑んだ。
「訓練の後ですので、お肉と卵を多めにしてございます」
さすがは、俺の腹を救う女神だ。もちろん、口には出さない。
「よく分かっている」
「ありがとうございます」
ニーナが安心したように笑う。俺の汗を拭こうと布を持ち上げたが、その手が途中で止まった。以前の俺なら、勝手に触るなと怒鳴っていたからだろう。
「どうした?」
「その……お顔をお拭きしても、よろしいでしょうか?」
「ああ。頼む」
「はい」
ニーナは小さく頭を下げた。柔らかな布が、額へ触れる。力加減は優しく、汗だけを丁寧に拭き取っていく。近くで見ると、長いまつ毛がよく分かる。真剣に手を動かす琥珀色の瞳には、昨日までよりわずかにおびえが少なくなっていた。
「痛いところはございませんか?」
「全身が痛い」
ニーナの顔が青ざめる。
「も、申し訳ございません。すぐにエド先生を――」
「筋肉が疲れているだけだ。怪我ではない」
「本当でしょうか?」
「ああ」
「でしたら……」
ニーナは少し迷い、遠慮がちに視線を伏せた。
「お食事の後は、できましたら少しだけお身体をお休めください」
「分かった」
「……ありがとうございます」
安心したように、小さく頭を下げる。まだ俺へ強く意見を言うことはできない。それでも、本気で心配してくれていることは、その表情を見れば分かった。周囲の騎士たちには、《再生》のことを伝えていない。
俺はニーナ、ダリオ、ルークと共に、訓練場の端にある休憩所へ移動した。ここなら、ほかの騎士から手元までは見えない。俺は腰を下ろし、一度深く息を吸った。そして、自分の身体へ意識を向ける。《再生》。
温かな魔力が、胸の奥から全身へ広がっていく。訓練によって細かく傷ついた筋繊維。負荷のかかった筋。熱を持った関節。激しく呼吸を繰り返した肺。速い鼓動を続けた心臓。身体の状態が、意識の中へ鮮明に浮かび上がる。致命的な損傷はない。どれも、普通なら食事と休息によって数日をかけて修復される程度のものだ。
俺は、傷ついた筋繊維へ魔力を流した。裂けた部分がつながっていく。だが、ただ元へ戻すのではない。なぜ傷ついたのかを解析する。受けた負荷を記憶し、次に同じ動きをした時には耐えられるように。
筋繊維を、ほんのわずかに太く。筋を、ほんのわずかに強く。関節を支える組織を、ほんのわずかに丈夫なものへ。一度の変化など、見た目には分からないほど小さい。
だが、確かに昨日までの身体とは違う。熱を持っていた筋肉が冷えていく。脚の震えが収まる。肩や腰へ残っていた鈍い痛みも、少しずつ消えていった。ただし、失った魔力や栄養が戻ったわけではない。脳や神経の疲れも残っている。動けるようになったからといって、すぐに次の鍛錬を始めれば、今度こそ身体を壊すだろう。
「アレス様……?」
ニーナが驚いたように、俺の顔を見つめている。ダリオとルークも、こちらへ視線を向けていた。
「《再生》を使った」
俺は声を落として告げ、右手を握る。先ほどまで、疲労でわずかに震えていた指が、今は思いどおりに動く。拳へ力を込める。筋力そのものが、劇的に増えたわけではない。
それでも、筋肉が力を伝える感覚はわずかに変わっていた。足を踏み出してみる。重かった身体が、少し軽い。地面を踏む力も、訓練前よりほんのわずかに強くなっている。
小さな変化。だが、間違いない。
今朝の俺より、今の俺の方が強い。これを一日。十日。百日。何千日と繰り返す。
普通なら数日かかる回復と成長を、一度の訓練ごとに積み重ねていく。それこそが、《再生》を持つ俺にしかできない鍛錬だ。
「身体の損耗を、これほど早く……」
ダリオが低くつぶやく。ルークは口元に柔らかな笑みを浮かべていた。だが、その青い瞳は、再び俺の全身を観察している。
「見事な力ですね」
「万能ではない。魔力も栄養も使う。眠らなければ、脳や神経の疲れも取れない」
俺が答えた直後、腹の奥から盛大な音が鳴った。
休憩所に、妙に大きく響く。沈黙。ニーナが目を丸くした。ダリオが口元を引き締める。ルークは顔を横へ向けたが、肩がわずかに揺れていた。笑っているな。訓練場の方からは、堪えきれなかったような小さなせき払いが幾つか聞こえた。騎士たちにまで、腹の音は聞かれたらしい。
「再生には、相応の栄養が必要になる」
俺は何事もなかったように告げる。先ほどまでよりも、明らかに腹が減っている。身体を強く作り直すために、朝の軽食で得た栄養の多くを使ってしまったらしい。
「ニーナ」
「は、はい」
「朝食へ行こう」
ニーナは一度瞬きをし、それから小さく微笑んだ。
「かしこまりました」
◇
食堂へ入ると、すでに朝食が並べられていた。焼きたてのパン。厚切りのくん製肉。半熟に焼かれた卵。鶏肉と豆を煮込んだスープ。乳。果物。普通の十二歳児が食べるには、明らかに多い。
だが、今の俺には足りないくらいだ。俺は席へ座り、まずスープを口へ運んだ。温かい。疲れ切った身体へ、塩気と旨味が染み込んでいく。続けて肉を食べる。卵。パン。乳。次々と胃へ収める。
ニーナは俺の隣に立ち、空いた皿へ料理を取り分けてくれた。食べる速度を見ながら、肉と卵の量を少しずつ調節している。
《料理》スキルを持つためか、俺の身体が今何を求めているのか、感覚的に分かるのかもしれない。
「ニーナ」
「はい」
「美味い」
ニーナの琥珀色の瞳が、うれしそうに細められた。
「ありがとうございます」
花が開くような、柔らかな笑顔だった。この食事が、傷ついた筋肉を作り直す。骨を強くする。血となり、肉となり、次の訓練を支える。
五周で限界。それが、十二歳へ戻った俺の現在地だった。だが、問題はない。弱いのなら、鍛えればいい。足りないのなら、食べればいい。俺は空になった皿を、ニーナへ差し出した。
「おかわりを頼む」
「はい。すぐにお持ちいたします」
ならば明日は、今日の俺を越える。最弱の武王の鍛え直しは、まだ始まったばかりだ。




