第11話 最弱の武王、鍛え直す2
一歩目。二歩目。足裏が地面へ触れる感覚を確かめる。背筋を伸ばし、あごを引く。肩の力を抜き、腕を自然に振る。着地の衝撃を、足首、膝、腰へ分散させる。足裏全体で地面を捉え、余計な上下動を抑える。
身体は知っている。速く走る方法も、疲れにくい姿勢も、最小限の動きで最大限の力を地面へ伝える方法も。だが、知っていることと、実際にできることは違う。
筋力の足りない体幹では、理想の姿勢を保てない。意識して力を抜いたはずの肩へ、すぐに余計な力が入る。歩幅も安定せず、呼吸と足運びの間隔が少しずつずれていく。十二歳の身体は、武王の経験どおりには動いてくれなかった。
屋敷の裏手を回り、訓練場の前へ戻るたび、騎士たちの視線が向けられる。こちらへ顔を向けたまま木剣を振り、相手から肩をたたかれる者。周回する俺の姿を、盾越しにうかがう者。
露骨に見ればダリオにしかられるため、皆それとなく視線だけを向けている。一周目。まだ問題はない。
二周目。呼吸が乱れ始めた。三周目。太ももが重くなる。四周目。肺が焼けるように熱い。五周目に入る頃には、足がまともに上がらなくなっていた。
「はっ……はっ……!」
遅い。弱い。あまりにももろい。滅びた未来では、魔物の群れを何日も追い続けた。山を一息に駆け上がったこともある。
全盛期なら、この程度の距離など歩いているのと変わらなかった。だが、今の俺は違う。十二歳。ろくに身体を動かしてこなかった、怠惰な子どもの肉体。
知識はある。技術もある。しかし、それを実行する筋肉も、肺も、心臓も足りていない。
五周目の半ば。訓練場の横を通り過ぎたところで、右足がわずかなくぼみに引っかかった。身体が前へ傾く。転倒する。
そう判断した瞬間、俺は右手を地面へついた。手首、肘、肩の順に衝撃を逃がし、そのまま身体を前方へ回転させる。一回転して立ち上がる。
訓練場のあちこちから、わずかに息をのむ音が聞こえた。それでも、騎士たちは持ち場を離れない。木剣を構えたまま。槍を握ったまま。視線だけを、こちらへ向けている。
だが、俺にはすぐに走り出すだけの力が残っていなかった。両脚が震えている。それでも歩みを止めず、残りの半周を進む。最後の線を越えたところで、両膝へ手をついた。五周。わずか一キロ。
それが、今の俺の限界だった。
「……お見事です」
ルークの声が聞こえた。顔を上げる。いつもの穏やかな笑みを浮かべている。だが、青い瞳だけは違った。先ほどの受け身を、騎士として観察している。
「今の受け身は、どなたに教わったのですか?」
「誰にも教わっていない」
「では、なぜあのような動きが?」
想定していた質問だ。
「《体術》スキルが、身体の動かし方を教えてくれるように感じる」
「スキルが、教えてくれるのですか?」
「ああ。どこへ手をつき、どう衝撃を逃がせばいいのか、何となく分かる」
完全なうそではない。今の身体へ最適な動きを伝えているのは、武王だった頃の経験だ。だが、《体術》スキルを得たことで、その動きが現在の肉体へなじみやすくなっている感覚もある。
何より、ほかに説明のしようがない。ルークは俺の顔をしばらく見つめた。何かを考えるように、青い瞳がわずかに揺れる。
「スキルによっては、扱い方を感覚的に理解できることもあります」
「では、信じるのか?」
「可能性はある、と申し上げているだけです」
柔らかな笑みは浮かべているが、まだ納得したわけではないらしい。
「ただ、授かった翌日に、あれほど自然な受け身が取れる方は滅多におりません。《体術》の力を引き出す才能がおありなのは、間違いないでしょう」
「才能か」
ルークは答えず、もう一度俺の手足へ視線を走らせた。
「アレス様」
ダリオが俺の前へ歩いてくる。
「五周を走り切ったことは見事でした。昨日まで鍛錬をしていなかった十二歳の身体であれば、十分です」
「十分ではない」
「今は、です」
ダリオは厳しい顔のまま言った。
「今日の限界を知ることも、立派な鍛錬です」
「まだ動ける」
「精神力で動くことはできるでしょう」
ルークが俺の前へしゃがみ込んだ。訓練着の上から、膝と足首へ触れる。指先に迷いがない。《救護》スキルを持つ者らしい動きだった。
「ですが、走るべきではありません」
「転んでも治る」
「治るからといって、怪我をしてよい理由にはなりません」
父上と同じことを言われた。
「筋肉が疲労しています。関節も、この程度の運動に慣れていません」
「分かっている」
「いいえ」
ルークが顔を上げる。青い瞳が、真っすぐ俺を見ていた。
「頭では分かっていても、ご自身の身体がどこまで動くのか、まだ正しく理解されていないように見えます」
返す言葉がない。正しい。俺はどうしても、全盛期の感覚を基準にしてしまう。これくらいはできる。この程度で疲れるはずがない。そう判断し、現在の身体へ無理をさせている。
「走るのは、ここまでです」
「次は?」
「構えから始めましょう」
「構え?」
「はい」
ルークが肩幅ほどに足を開く。膝をわずかに曲げ、重心を身体の中央へ落とした。
「戦いにおいて、最初に必要なのは構えることです」
「知っている」
「では、アレス様。ご自分なりに構えてみてください」
俺はルークの正面へ立った。左足を半歩前へ出す。両膝をわずかに曲げる。かかとを浮かせず、それでいて、いつでも動けるよう足裏全体へ均等に力を乗せる。腰を落としすぎない。背筋を伸ばす。肩は自然に下げる。両手は、敵の攻撃と自分の急所を同時に意識できる位置へ置く。
武王へ至るまで、数え切れないほど繰り返した構え。最も速く、最も強く、あらゆる方向へ動ける形。
もちろん、完成形をそのまま見せるつもりはない。今の肉体でも無理なく保てる形へ崩し、《体術》スキルによって感覚的にたどり着いたように見える程度へ抑えている。それでも、ルークの表情から笑みが消えた。青い瞳が、俺の爪先から頭までゆっくりと動く。
「この構えも、《体術》スキルが?」
「ああ。身体が、こう立てと言っているように感じる」
ルークが何かを言う前に、ダリオが俺の正面へ立った。厳しい灰色の瞳で、全身を観察する。
「失礼いたします」
ダリオの大きな手が、俺の肩へ置かれた。わずかな力で押される。俺は重心を調整し、その場へ踏みとどまった。次は横。背後。斜め下。押される方向に合わせ、足裏へかかる力を移動させる。
「ほう」
ダリオの目に、わずかな驚きが浮かんだ。同時に、少し離れた場所で槍を構えていた騎士が、思わずこちらへ顔を向ける。隣にいた騎士が肘で軽く脇腹を突き、前を向かせた。邪魔をするつもりはない。だが、気になって仕方がないのだろう。
「重心の移し方まで理解されている」
「《体術》スキルが、教えてくれるように感じる」
ダリオは俺を見下ろしたまま、しばらく沈黙した。
「その説明だけで、すべてに納得したとは申しません」
「そうか」
「ですが、優れた感覚をお持ちであることは確かです。仮に《体術》が正しい動きを示しているとしても、それを現在の身体で再現できるかどうかは、使い手次第でしょう」
ダリオが太い腕を組む。
「我々が《体術》の真価を知らなかったのか。あるいは、アレス様だからこそ引き出せるのか。それは、これから確かめればよいことです」
ルークも、再び柔らかな笑みを浮かべた。
「明日からも、驚かせていただけそうですね」
二人とも、まだ俺の説明を完全に信じたわけではない。それでも、今はそう思ってもらうしかなかった。十二歳の俺に六十年以上の戦闘経験があるなどと、説明することはできないのだから。
「ただし」
ダリオの声が低くなる。
「技術に比べて、肉体がまるで追いついておりません」
「分かっている」
「拳を振るうにも、蹴りを放つにも、それを支える肉体が必要です。どれほど優れた技であろうと、土台が崩れれば意味はありません」
最短とは、基礎を省くことではない。無駄を省き、必要な基礎を正しく積み重ねることだ。
かつての俺は、何度もそれを間違えた。強力な技だけを求め、肉体が耐えきれず、骨を折り、筋肉を断裂させ、《超再生》で無理やり治した。結果的には強くなった。だが、遠回りも多かった。今回は、同じ失敗を繰り返す必要はない。
「分かった。二人に従う」
俺が答えると、ダリオとルークがそろって目を丸くした。遠巻きに見ていた騎士たちも、わずかに動きを止める。昨日までの俺を知っている者ほど、素直に指示へ従ったことの方が驚きだったらしい。
「何だ?」
「いえ」
ルークが楽しそうに口元を緩める。
「素直に指導を受け入れていただけるとは、思っておりませんでしたので」
「俺を何だと思っている」
「これまでのアレス様です」
反論できなかった。
◇
その後の訓練は、あまりにも地味なものだった。ひたすら、基礎的な動き。その繰り返しだ。技と呼べるものは、一つも使っていない。だが、今の俺には必要な訓練だった。
周囲では、騎士たちがそれぞれの鍛錬を続けている。木剣を振る音。盾がぶつかる音。外周路を走る足音。号令に応える声。
誰も俺の訓練へ口を挟まない。近づいてくる者もいない。だが、視界の端では、時折こちらへ向けられる視線が動いていた。立ち方を直される俺。歩幅を確かめる俺。呼吸だけで肩を上下させている俺。
昨日まで鍛錬から逃げていた人間が、黙って基礎を繰り返している。騎士たちにとっては、それだけでも十分に異様な光景なのだろう。
足の指が、地面を正しくつかめていない。膝が内側へ入りやすい。肩甲骨の動きが硬い。腰回りの筋肉が弱い。腕を真っすぐ伸ばしただけで、肘がわずかに揺れる。
かつてなら無意識にできたことが、今の身体ではできない。技術で補正できる部分もある。だが、筋力や柔軟性が足りなければ、どうにもならない部分も多い。
日の出から、およそ二時間。昇った太陽が朝露を乾かし始めた頃、ルークが訓練の終了を告げた。
「本日は、ここまでにいたしましょう」
「もう終わりか?」
「二時間以上、動いております」
「まだ二時間だ」
「昨日まで運動をしていなかった十二歳の身体には、十分です」
俺は両手を見る。わずかに震えていた。足も重い。呼吸を整えているつもりだが、心臓は速く脈打っている。続けようと思えば、続けられる。だが、それは技術と精神力で身体を無理やり動かすだけだ。今ここで無茶をしても、得るものより失うものの方が多い。
「分かった」
俺は構えを解いた。
普通の十二歳なら、今日の鍛錬はここで終わるかもしれない。
だが、《再生》を持つ俺には、限界を迎えた今だからこそ始められる、もう一つの鍛錬がある。




