第10話 最弱の武王、鍛え直す1
翌朝。窓の外は、まだ薄暗かった。東の空がわずかに白み始めているが、太陽はまだ地平線の向こうに隠れている。鳥の声さえ聞こえない、静かな時間だ。俺は寝台の上で目を開いた。誰かに起こしてもらう必要はない。
滅びた未来では、眠っている間に魔物へ襲われることも珍しくなかった。わずかな物音や気配で目を覚ます習慣は、身体が十二歳へ戻っても残っているらしい。もっとも――。
「眠いな」
身体を起こした途端、大きな欠伸が出た。意識は目覚めている。だが、肉体の方がまだ眠りを求めていた。
七十年以上生きた経験があろうと、今の身体は成長途中の十二歳児だ。必要な睡眠時間まで、武王だった頃と同じではない。寝台から下りる。床へ足をつけると、全身にわずかな重さを感じた。
昨日、《魔眼》を再現した影響だろう。右眼そのものは完全に治っているが、消費した魔力や栄養、脳や神経の疲労まで、すべて回復したわけではない。
《再生》は、無から力を生み出す能力ではない。傷は治せる。失った部位も再生できる。受けた損傷を解析し、以前より強い形へ作り直すこともできる。だが、そのためには魔力と栄養が必要だ。脳や神経を休ませるには、睡眠も欠かせない。
無限に傷つき、無限に再生できるわけではないのだ。そんなことを考えていると、廊下から足音が近づいてきた。一定の速さで進んでいた足音が、俺の部屋の前で止まる。控えめに扉がたたかれた。
「アレス様。お目覚めでしょうか?」
ニーナの声だ。
「起きている。入れ」
「失礼いたします」
扉が静かに開いた。ニーナは、きれいに畳まれた訓練着を両腕に抱えている。柔らかな栗色の髪は、いつもどおり肩口できれいに切りそろえられていた。まだ早朝だからだろう。蜂蜜を溶かしたような琥珀色の瞳が、普段よりわずかに眠たそうに細められている。
「おはようございます、アレス様」
「ああ。おはよう」
俺が挨拶を返すと、ニーナの動きが一瞬止まった。
「どうした?」
「い、いえ」
慌てて首を横へ振る。
「昨日に続いて、今朝もご挨拶を返していただけましたので……」
「挨拶くらい、これからは毎日する」
「はい」
ニーナの口元に、控えめな笑みが浮かんだ。白い頬に、ほんのわずかな笑くぼができる。当然のことを言っているだけなのだが。その当然すら、以前の俺はしてこなかったらしい。
「こちらが訓練着でございます」
ニーナは寝台の上へ衣服を置いた。丈夫な麻布で作られた上着とズボン。動きやすさを重視した、飾り気のない服だ。
「旦那様から、今後はこちらを着用するようにとのことでした」
「分かった」
「それから、訓練前に少し召し上がれるよう、軽食をご用意しております」
「軽食?」
「パンと卵、それから温めた乳でございます」
俺はニーナを見た。
「少しだけか?」
「訓練の直前に食べすぎますと、お身体に障るかと思いまして……」
正しい。正しいのだが、少し残念である。
「訓練の後には、朝食をしっかりご用意いたします」
「量は?」
「これまでお出ししていた朝食の、二倍ほどを予定しております」
「素晴らしい」
思わず即答すると、ニーナが琥珀色の瞳を丸くした。やがて、堪えきれなかったように小さく笑う。
「アレス様は、本当にお食事がお好きになったのですね」
「食事を嫌う者の気持ちが分からない」
正確には、食事を失った経験があるからだが。ニーナは柔らかな笑みを残したまま、一礼した。
「それでは、お着替えが終わりましたら、お声がけください」
「ああ」
ニーナが部屋を出る。扉が閉じる直前まで、その表情は明るかった。昨日まで、俺が目を向けるだけでおびえていた少女だ。今も警戒と遠慮は残っている。それでも、少しずつ笑顔を見せてくれるようになった。
まだ信用を取り戻したわけではない。だが、最初の一歩くらいは踏み出せたのかもしれない。
◇
軽食を済ませ、屋敷の訓練場へ向かった。朝露にぬれた石畳が、薄明かりを反射している。季節は春を迎えたばかりだ。空気は冷たく、吐いた息が白く見えた。
訓練場には、すでに二十人ほどの騎士が集まっていた。木剣を打ち合わせる乾いた音。盾を構え、押し合う重い音。号令に合わせて槍を突き出す鋭い声。外周路を走る者もいれば、地面へ伏せて腕立てを繰り返している者もいる。
日の出前から、騎士団の鍛錬は始まっていた。俺が訓練場へ足を踏み入れると、幾つもの視線がこちらへ向いた。だが、誰も訓練を止めない。
木剣を振りながら。盾を構えながら。外周路を走りながら。皆、時折こちらをうかがっている。昨日まで鍛錬に興味すら示さなかった領主の息子が、突然早朝の訓練場へ現れたのだ。気になるのは当然だろう。
それでも直接声をかけてこないのは、ダリオから邪魔をしないよう言い含められているからかもしれない。
訓練場の中央には、二人の男が待っていた。騎士団長のダリオと、副騎士団長のルークだ。
ダリオは、短く刈り込んだ銀髪と、左の眉から頬へ走る古い傷が特徴的な大男だった。早朝だというのに、分厚い胸板を覆う訓練着には、すでに汗がにじんでいる。
俺が来る前に、自分の鍛錬を済ませていたのだろう。その隣に立つルークは、ダリオとは対照的だった。淡い金色の髪を後ろへ流し、穏やかな青い瞳をしている。細身に見えるが、訓練着の下には無駄のない筋肉がついていた。腰に帯びていた細剣は、今日は使うつもりがないのか、さやごと壁際へ立てかけられている。
「おはようございます、アレス様」
ルークが柔らかな笑みを浮かべた。
「随分とお早いですね」
「日の出前に来いと言ったのは俺だ」
「途中で気が変わり、まだ寝ていらっしゃる可能性も考えておりました」
「昨日までの俺なら、そうだっただろうな」
素直に認めると、ルークはわずかに目を見開いた。その横で、ダリオが低く笑う。
「ご自身を理解されているのであれば、何よりです」
「信用がないことも理解している」
「では、これから作っていきましょう」
ルークが訓練場の中央へ歩き出す。その時、少し離れた場所から、騎士たちの声が聞こえた。
「おい。聞いたか?」
二人一組で木剣を打ち合わせていた騎士の一人が、相手へ小声で話しかけている。
「何をだ?」
「昨日の《鑑定の儀》だ。王都の第一王女殿下が、聖女に選ばれたらしい」
打ち込まれた木剣を受けながら、もう一人の騎士が目を見開く。
「聖女が?」
「ああ。それだけじゃない。東の国境を守るグランベル辺境伯家の御令嬢は、《勇者》に選ばれたそうだ」
「勇者と聖女が、同じ日に?」
「神殿から、夜のうちに知らせが回ったらしい。何かの前触れでなければいいがな」
勇者。聖女。騎士たちにとっては、遠く離れた土地で起きた珍しい出来事にすぎない。希望の象徴が、同じ日に二人も誕生した。やがて王国中が、その知らせに沸くだろう。
だが、俺は知っている。その噂は事実だ。勇者と聖女が選ばれた日。それは、滅びた未来が始まった日でもある。
「口を動かす余裕があるなら、腕を動かせ」
ダリオの低い声が訓練場へ響いた。
「はっ!」
話していた騎士たちは背筋を伸ばし、再び木剣を打ち合わせ始める。他の騎士たちも、何事もなかったように自分の鍛錬へ戻った。だが、その視線は時折、俺へ向けられていた。
勇者と聖女が生まれた翌朝。役立たずと笑われた男爵家の息子が、初めて訓練場に立っている。奇妙な巡り合わせだと思われているのかもしれない。
その背中を見ながら、俺は右眼へわずかに魔力を流した。昨日取り戻した《魔眼》。その最初の機能である《鑑定眼》。
騎士団を率いる二人が、どのような力を持っているのか確認しておきたい。まずは、ダリオ。右眼の奥が熱を帯びる。薄い赤色の輪が瞳に浮かび、視界の中に文字が現れた。
【スキル】
大剣術
指揮
身体強化
【魔法】
無
【耐性】
斬撃耐性
打撃耐性
騎士団長らしい、堅実な構成だ。攻撃。集団指揮。さらに《身体強化》と、二種類の物理耐性。魔法の適性を持たず、純粋な鍛錬だけで騎士団長にまで上り詰めた男。現在のアークハルト領で、父上と並んで最も強い人間と考えてよいだろう。
その時、ダリオの太い肩がわずかに動いた。灰色の瞳が、素早く周囲を見回す。何かに探られたような感覚を覚えたのだろうか。やがて、その視線が俺へ向けられた。一瞬だけ、俺の右眼を見る。だが、何も言わなかった。ダリオはわずかに眉を寄せただけで、再び前を向く。
長く戦場を生き抜いてきた男だ。他者の視線や、微かな魔力の揺らぎに敏感なのだろう。俺は次に、ルークへ意識を向けた。
【スキル】
細剣術
救護
身体強化
【魔法】
風属性
【耐性】
毒耐性
こちらも、副騎士団長として理想的な能力だ。細剣術と身体強化。負傷者へ応急処置を施す救護。風属性魔法に、魔の森で生き抜くための毒耐性。隙のない構成だった。
だが、文字が浮かんだ瞬間、ルークの笑みが一瞬だけ消えた。穏やかな青い瞳がわずかに細くなる。そして迷うことなく、俺の右眼へ視線を向けた。
ダリオよりも、明らかに反応が速い。視線が交わる。ほんの一瞬。ルークは何も言わず、すぐにいつもの柔らかな笑みへ戻った。
「どうかなさいましたか、アレス様?」
「いや。何でもない」
「そうですか」
それ以上、問いただしてはこなかった。ダリオもルークも、魔物との戦闘を繰り返してきた騎士だ。探られるような視線に、違和感を覚えたのだろう。特にルークは、風属性の適性を持っている。周囲の魔力の動きを捉えることに優れているのかもしれない。
《鑑定眼》を使用する相手は、今後選んだ方がよさそうだ。俺は《魔眼》へ流していた魔力を止めた。右の瞳から、薄い赤色の輪が消える。
「では、始めましょう」
ルークが、訓練場の外側へ続く周回路を指した。
「まずは、現在の体力を確認させていただきます」
「何をすればいい?」
「屋敷の外周を走っていただきます。速さは問いません。走り続けられる範囲で結構です」
屋敷の外周路は、一周およそ二百メートル。かつての俺なら、百周走っても準備運動にもならなかった。
「分かった」
俺は走り始めた。




