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怠惰で傲慢だった貴族がやり直しで世界を救う  作者: 雅
第九章 デボルト子爵領編

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第126話 愛の修練

モルガン・デボルト子爵視点


 アレス様は深く息を吐くと、気を取り直すように全員へ向き直った。


「今後、毎朝、日の出から朝食まで訓練を行う。今日だけではない。雨の日も、仕事のある日もだ」


 二十人の顔が、一斉にこわばった。


「領主の仕事が――」


「朝食後にやれ」


「商会の開店準備が――」


「訓練が終わってからでも間に合う」


「雨の日は、さすがに危険では?」


「屋内訓練場があるだろう」


 わしが兵のために造らせた建物だった。まさか、自分の逃げ道を自分で潰していたとは思わなかった。


「当面は全員、この訓練場へ集まれ。身体と働き方を見た後、配属を決める」


 アレス様は、二十人を順番に見回す。


「デボルトとバートンは領主館に残り、領政を立て直す。残る者は、鳳凰商会とフェニックス傭兵団へ分ける。アークハルト本店とデボルト支店だけではない。次に作るグランベル支店へも数名を送る」


 何人かが顔を上げた。


「今までの仲間だけで固めるつもりはない。関係を一度ばらし、違う土地と違う仕事の中で、一から信用を積め。どこへ配属されても、アークハルト家とグランベル家の備えを支え、人を守るために働いてもらう」


「はい、アレス様!」


 今度は、二十人の返事がそろった。


「では、グレイグ。後は任せる」


「承知しました、主様」


 アレス様が訓練場を出ていき、ルナ様とクロウ殿が続く。ニーナ様もコレットへ一度頭を下げた後、その背を追った。


 助かった。


 思わず、安心の息が漏れる。アレス様の姿が見えなくなっただけで、訓練場の空気が軽くなったように感じた。


「全員、気を抜くな」


 グレイグの声が響く。


「これから後半を始める」


「まだ、後半があるのですか?」


 バートンが絶望したようにつぶやいた。


「朝食の鐘は鳴っていない」


「アレス様が帰られたので、今日の訓練は終わりでは……」


「俺へ引き継ぐと聞いていなかったのか?」


 グレイグは、訓練場の端に置かれた四つの担架を指した。


「各組、一人を負傷者役として担架へ乗せろ。残る者で障害物を越え、反対側まで運ぶ。途中で落とせば最初からだ」


 皆が、誰を乗せるか互いの顔を見回す。最も重い者だけは、初めから分かっていた。全員の視線が、わしへ集まった。


「待て。なぜ、わしを見る」


「旦那様が一番、けが人に向いております」


 バートンが、迷いなく答えた。


「それは、わしが領主だからか?」


「最も重く、最も走れないからです」


「貴様!」


「グレイグ殿。旦那様を担架へ乗せればよろしいでしょうか?」


「駄目だ」


 救いの声だった。


「そうであろう! 領主を荷物のように運ぶなど――」


「デボルトには、自分の足で障害物を越えてもらう。負傷者を搬送する側だ」


「わしが運ぶのですか!」


「自分より重い領民が倒れていたら、見捨てるのか?」


「ほかの者と一緒なら……」


「なら、できるな」


 担架には、元衛兵の中で最も大柄な男が横たわった。わし、バートン、コレット、商人一人の四人で担架の取っ手を握る。


「持ち上げろ」


「ぬおおおっ!」


 腰が抜けそうになる。


「姿勢が悪い。腰だけで持つな。膝を曲げ、脚で立て」


「そ、その膝が、もう動かないのです!」


「動いている。今、一歩進んだ」


「これは前へ倒れかけただけですぞ!」


「なら、倒れる前に次の足を出せ」


 理不尽だ。


 そう思いながらも、コレットたちと声を合わせ、どうにか担架を運んでいく。


「右、上げます!」


「待て、こちらがまだ――」


「旦那様、止まると最初からです!」


「分かっておる! せえの!」


 丸太を越え、浅い溝を渡り、土を盛った坂を上る。誰か一人が勝手に動けば、担架が傾く。わしが遅れれば、残る三人の腕へ重みがかかる。自分だけが楽をすることはできなかった。


 苦しい。


 足が痛い。


 息を吸うたび、のどが焼ける。


 それでも、隣で小さな身体を震わせているコレットが、取っ手を放そうとしない。老いたバートンも、青い顔で歩き続けている。ここでわしが手を放せば、担架に乗った男が落ちる。


 初めて、自分が止まることで他人へ何が起きるのかを考えた。


「もう少しです、旦那様!」


 コレットが声を上げる。


「わしに命令するな!」


「では、お願いです! あと十歩です!」


「十歩で終わるのだな!」


「終わりではない」


 前方で、グレイグが告げた。


「反対側へ着いたら、負傷者役を替えて戻ってこい」


「鬼か、貴様は!」


「返事は?」


「承知しました、グレイグ教官!」


 なぜか、ベッツたちと同じ呼び方が口から出た。訓練場の端から、ベッツの笑い声が聞こえる。


「これでデボルト支部にも、教官と呼ぶ者が増えましたな」


「ベッツ。笑っている暇があるなら、次の組を見ろ」


「承知しました、グレイグ教官!」


 あの男も逆らえないらしい。それだけが、わずかな救いだった。


 ◇


 朝食を告げる鐘が鳴った時、二十人全員が訓練場の地面へ倒れていた。


 空が青い。鳥の声が聞こえる。


 昨日まで、朝の空など見上げたこともなかった。目を覚ませば使用人を呼び、ベッドの上で茶を飲み、その日の予定を聞いていた。今朝は土と汗にまみれ、指一本動かせない。それなのに、自分が生きていることだけは、嫌になるほどよく分かった。


「初日にしては悪くない」


 グレイグの声が聞こえる。誰も起き上がらない。


「水を飲み、呼吸が整った者から食堂へ行け。訓練の後は必ず食べろ。身体を強くするには、食事と休息が必要だ」


「朝食……」


 隣で倒れていたバートンが、かすれた声を出す。


「これほど待ち遠しい言葉は、ございません……」


「同感だ……」


 何とか上半身を起こすと、ベッツが水の入った器を差し出した。


「お疲れさまでした、デボルト子爵」


「毎朝、本当にこれをやるのか?」


「最初は俺たちも、同じことを聞きました」


「いつごろ、楽になる?」


「身体が強くなれば、訓練も増えます」


「では、いつまでも楽にならぬではないか」


「それが《愛の修練》です」


 ベッツが、よい笑顔で答えた。恐ろしい名をつけたものだ。


 だが、水を飲みながら周囲を見回すと、誰一人欠けていなかった。放火実行役も、役人も、商人も、元衛兵もいる。皆、疲れ切ってはいるが、昨日までとは少しだけ違う顔をしていた。互いの罪を知り、自分だけ助かろうとしていた者たちが、最後には声をかけ合い、倒れた者へ手を貸していた。


 アレス様は、これを見越していたのだろうか。


 身体を鍛えるだけではない。自分の役目を知り、仲間を見捨てず、人を守る者へ作り変える。だから、《愛の修練》なのかもしれない。


「旦那様」


 バートンが、震える脚で立ち上がった。


「朝食後は、解放した方々へ金や品を返すための手続きがございます。井戸と橋の工事費も確認しなければなりません」


「分かっておる」


 ベッツから差し出された手を借り、立ち上がる。脚は笑い、身体中が痛い。それでも、昨日までなら家令へ押しつけていた仕事を、自分の口から続けた。


「食べたら、すぐに始めるぞ。今日中に、返せる金はすべて返す。工事も職人を集めろ。倉庫の蓄えも、わしが確認する」


「かしこまりました」


「それから……明日の訓練に遅れるな」


 バートンが、驚いたようにわしを見た。わし自身も驚いている。


 アレス様が怖い。遅れれば何をされるか分からない。今は、それだけだ。


 だが、いつか。この地獄のような朝を、自分から望む日が来るのだろうか。


「旦那様」


「何だ?」


「さすがに、それはないかと存じます」


「心を読むな!」


 周囲へ、疲れ切った笑い声が広がった。


 こうしてデボルト領に、二十名の新たな配下が加わった。アレス様が直接見定め、グレイグ教官が鍛え、不在の時はベッツが目を光らせる。


 毎朝、日の出から朝食まで。


《愛の修練》が、この日からこの地でも始まった。

ここまで読んでいただきありがとうございます!

これにて『第九章 デボルト子爵領編』終了となります。


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