第125話 人を守るための力
モルガン・デボルト子爵視点
アレス様は全員を一列に並ばせると、屈伸や腕立て、腹部と背中を鍛える運動、両手と両膝をついて進む動きを順番に行わせた。全員が同じ動きをしている間も、呼吸、重心、手足の位置を細かく見ていく。
「同じ罪を犯したからといって、同じ身体ではない。同じ仕事をさせるわけでもない。今から、一人ずつ訓練内容を決める」
アレス様は、元衛兵五人へ目を向けた。
「お前たちは、隊形と周辺警戒を重点的に学べ。負傷者搬送訓練も行え。当面はグレイグのもとで鍛え直す。今後、門や街道を守ることになっても、二度と金を受け取って巡回をやめるな」
「はい!」
「放火へ加わった四人は、水樽と担架を使え」
バッシュが、訓練場の端に並ぶ水樽を見た。
「火を消す訓練でしょうか?」
「それも行う。お前たちは火の回り方も、人目を避けて建物へ入る方法も知っている。その知識を、今後は火災現場から人を助け、倉庫を守るために使え」
「俺たちが、人を助ける……」
「嫌か?」
「い、いえ! やらせてください!」
バッシュが深く頭を下げ、残る三人もすぐに続いた。
「ただし、火をつけるより消す方が何倍もきつい。水を入れた樽を二人で担ぎ、訓練場を往復しろ。その後は担架だ。倒れた者を置いていかず、安全な場所まで運べるようになれ」
四人が水樽へ駆けていく。
「徴税所にいた三人は、荷の確認方法を覚えろ。街道を閉じたり開いたりする手順と、逃げる者を安全な方向へ案内する方法も学べ。商人四人は、荷を素早くまとめ、崩さず運ぶ訓練だ。鳳凰商会へ入る者も、帳簿の前へ座るだけで終わると思うな。商隊が襲われれば、客と商品を守って逃げる必要がある」
「承知しました!」
「マーロウ」
「はい」
「お前は裏社会の人脈を《鳳凰の目》へつなげる。だが、情報を持ち帰る前に捕まれば意味がない。走り方、身の隠し方、追跡を振り切る足運びを、クロウから学べ」
「この御老人から、でございますか?」
「何か不満でも?」
クロウ殿の袖口から、何十匹もの虫が一斉にはい出した。
「ございません! ぜひ、ご指導をお願いいたします!」
「ふぉふぉふぉ。まずは我が子らから逃げ切るところから始めましょうか」
マーロウの顔が引きつった。
「コレット」
「はい、アレス様」
呼ばれたコレットが、緊張した顔で一歩前へ出る。
「お前は鳳凰商会の仕事を覚えろ。客の顔と名、売れた品、聞いた噂を記憶し、必要な情報を見分けられるようになれ」
「はい」
「それから、走れ」
「やはり、走るのですね……」
「情報を盗んだ者が、必ず見逃してくれると思うのか?」
「思いません。走ります」
コレットが真剣にうなずくと、ニーナ様が隣へ歩み寄った。
「私も、最初は半周で息が苦しくなりました」
「ニーナ様も、この訓練を?」
「はい。今も毎朝、皆さんと一緒に続けています」
「侍女のお仕事があるのに、ですか?」
「アレス様は、危険から逃げられる力も必要だとおっしゃいました。それに、身体が強くなってから、お仕事中に疲れにくくなったのです」
コレットの顔へ、わずかに希望が戻った。
「では、私も頑張ります」
「一緒に頑張りましょう。商会のお仕事も、私に分かることでしたらお教えします」
「ありがとうございます、ニーナ様」
ニーナ様へ頭を下げたコレットが、再び走り出した。
契約を結ぶ前のわしなら、侍女同士のやり取りなど気にも留めなかっただろう。だが、今は違って見えた。
アレス様は、コレットがわしの命令で何をしたのかを忘れていない。ニーナ様も、すぐに許したわけではない。それでも、これから正しく働こうとする道までは閉ざしていなかった。
甘い。そう思いかけて、すぐに考えを改めた。
甘い者は、わしを一晩でここまで追い詰めたりしない。
「バートン」
「はい、アレス様」
「お前は、奪われた者へ金や物を返す仕事をデボルトと進めろ。裏帳簿を整理し、領政も立て直せ。七年分の被害と不正の全容を明らかにするには、長い時間がかかる」
「必ず、すべて明らかにいたします」
「帳簿を読み続ける体力も必要だ。立ったまま書類を読み、十枚確認するごとに十回屈伸しろ」
「十枚ごとに、十回……」
バートンの顔から表情が消えた。
「何か?」
「いいえ。七年分、すべてやり遂げます」
何千枚あると思っている。そう言いかけたが、余計なことを言えば、わしまで一緒にやらされる。黙っていよう。
「デボルト」
「はい!」
「お前は、まず痩せろ」
「それは先ほども聞きましたぞ!」
「領主として、兵站体制、備蓄、避難路を整えろ。領内の井戸、橋、街道、倉庫を、自分の足で一つずつ確認する。そのために必要な体力をつける」
「す、すべてを自分の足で?」
「当然だ。紙の上では直したことにしてきたお前が、今度は紙の報告だけを信じるのか?」
何も言い返せなかった。
「今日は歩き続けろ。明日から、距離を増やす。身体が軽くなれば走る量も増やす」
「痩せれば楽になるのではないのですか?」
「動ける身体になった分、より多く鍛えられる」
目の前が暗くなった。
「安心しろ」
アレス様が、わしの肩へ手を置く。
「あの夜、俺が負わせた傷は治してやる」
温かな力が身体へ流れ込んだ。腹の奥に残っていた痛みも、きしんでいたあばら骨も、口の中の傷も消えていく。
身体が驚くほど軽くなった。やはり、この方は普通ではない……
「あ、ありがとうございます、アレス様!」
「これで、けがを言い訳にはできないな」
「……はい」
なぜ、礼を言ってしまったのだ。元はといえば、こいつが殴った傷ではないか。
そう思った瞬間、アレス様がこちらを見た。
「何か言いたそうだな」
「健康な身体で鍛えられる喜びをかみ締めておりました!」
「そうか。なら、あとで歩く距離を増やせるな」
「今の言葉は忘れてください!」
訓練場のあちこちから、今度こそ笑い声が上がった。その中には、わし自身の笑いまで混じっていた。
笑ってから、自分でも驚いた。
契約を結ぶ前のわしなら、他人から笑われることなど耐えられなかった。笑った者を罰し、自分の方が上だと思い知らせなければ気が済まなかった。
今は、怒るだけの体力が残っていない。それだけのはずだ。
◇
アレス様が二十人全員の身体と動きを見終えたころ、太陽は森の向こうから完全に姿を現していた。
「ここからは、グレイグへ任せる」
訓練場の端に立っていた大柄な男が、一歩前へ出た。背筋を伸ばした姿には、長く兵を率いてきた者だけが持つ重みがある。
「グレイグだ。フェニックス傭兵団の団長を務めている。しばらくデボルト領へ残り、お前たちの訓練と、傭兵団へ入る者の選別を任せる」
「主様から示された量と基準に従い、全員を鍛える」
低く、よく通る声だった。アレス様とは違い、大人だ。元兵士ならば、子爵であるわしの立場も少しは理解するだろう。アレス様が帰った後なら、多少は融通も利くかもしれない。
「一つ、確認しておく」
グレイグが二十人を見回した。
「訓練場では、身分も過去の役職も関係ない。できていない者は、できるまでやり直させる。デボルト子爵であろうと例外にはしない」
最初の一言で、逃げ道を塞がれた。
「回数だけ終わらせても意味はない。姿勢が崩れたものは一回に数えん。呼吸、歩幅、重心まで正しく行え。誤魔化した分は、最初からやり直しだ」
「あの……」
商人の一人が、恐る恐る手を上げた。
「それでは、アレス様がお決めになった回数より多くなるのでは?」
「正しくやれば増えない」
当然のように答えた。この男も駄目だ。アレス様と同じことを言う。
「主様」
グレイグが、アレス様へ目を向けた。
「一人が動けなくなった場合は、どういたしますか?」
「苦しいだけなら続けさせろ。けがにつながると判断したら止めろ。使い潰すことは許さない」
「承知しました」
「誰かが倒れた時、残る者が見捨てることも許すな。こいつらは今まで、自分だけ助かるために仲間へ罪を被せてきた。今後は、一人の遅れを全員で補わせろ」
「では、隊ごとに動かします」
グレイグはすぐに、わしを除く十九人を四組へ分けた。
元衛兵を少なくとも一人ずつ各組へ入れ、放火実行役、役人、商人が同じ組だけで固まらないよう散らしていく。以前の仲間同士でかばい合ったり、不正のつながりを残したりできない組み方だった。
そして、なぜかわしだけが、どの組にも入れられず、中央へ残された。
「人数が合っておりませんぞ」
「デボルトは、全組を順番に回る」
「なぜ、わしだけ!」
「領主は、領内のどこか一つだけを見ればよいのか?」
「それとこれとは――」
「違わない。お前はすべての仕事を知れ。水樽を運び、荷をまとめ、負傷者を担ぎ、避難する者を誘導する。自分が命じる仕事を、自分では何一つできない領主になるな」
反論できず、口を閉じた。
グレイグがベッツへ目を向ける。
「俺が商隊護衛や依頼で見られない時は、ベッツが代わりに指導する」
「承知しました」
ベッツが、妙にうれしそうな顔で前へ出た。
「よろしくお願いします、デボルト子爵。俺たちも大将に鍛えられた身です。苦しさは、よく分かっております」
「そ、そうか。ならば、少しは加減を――」
「だからこそ、途中で楽になろうとしても全部分かります」
希望が消えた。
「ベッツ。甘やかすなよ」
「もちろんです、大将。俺たちだけが受けた愛を、こいつらへ出し惜しみするつもりはありません」
聞き慣れない言葉に、思わず首を傾げた。
「愛?」
アレス様も、同じようにまゆを寄せた。
「何の話だ?」
ベッツの顔から笑みが消え、訓練場の端で見本を見せていた七人も、一斉に目を逸らした。
「その……鳳凰商会と傭兵団のうち、アークハルト領を拠点にする者たちは、いつからか《アークハルト組》と呼ばれるようになりまして。そのアークハルト組の間では、これを《愛の修練》と呼んでおります」
「なぜ、愛なんだ?」
「大将は、一人ずつ身体を見て、必ず生き残れるように鍛えてくださいます。壊れる手前で止め、けがをすれば治し、食事と休息まで考えてくださる。ここまで深く考えた訓練は、愛がなければできないと……誰かが」
「誰が言い始めた?」
アレス様が尋ねる。
ベッツが後ろを振り返ると、七人全員がさらに遠くへ目を逸らした。
「分かりません」
「分からない?」
「気づいた時には、皆がそう呼んでおりました。俺ではありません」
「私でもありません」
「俺も違います」
次々に否定する。
誰一人、アレス様と目を合わせようとしない。
ニーナ様が、小さく笑った。
「よい名前だと思います。アレス様の訓練は厳しいですが、本当に皆さんのことを考えていらっしゃいますから」
「ニーナまで……」
アレス様は、まだ納得していないようだった。
「愛だろうと何だろうと、呼び方は好きにしろ。ただし、訓練量は変わらない」
「それが《愛の修練》でございます」
クロウ殿が、面白がるようにうなずいた。
ルナ様も、楽しそうに口を挟んだ。
「わらわも気に入ったぞ。デボルトよ、アレスの愛を全身で受けるがよい」
「もう少し軽い愛にしていただけませんか!」
「愛の重さは、お前が犯した罪の重さじゃろう」
「それでは一生、軽くならないではありませんか!」
「よく分かっておるではないか」
ルナ様が声を上げて笑った。
その時のわしは、この《愛の修練》が今日限りではなく、今朝の分さえ、まだ半分も終わっていないことを知らなかった。




