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怠惰で傲慢だった貴族がやり直しで世界を救う  作者: 雅
第九章 デボルト子爵領編

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第123話 夜明けから始まる贖罪

モルガン・デボルト子爵視点


「結ぶのは、《贖罪契約》だ」


「贖罪……契約?」


「お前が犯した罪を認め、奪ったものを返し、一生をかけて償うための契約だ。二度と民を害さない。罪を隠さない。証拠を消さない。俺をだまさない。そして今後、この領民のため、世のため、人のため、アークハルト家とグランベル家のため、そして俺のために働け」


「い、一生……」


「死ぬまでだ」


 奴隷と何が違う。そう叫びたかった。


「嫌か?」


「い、いえ……」


「なら、なぜ頭を上げている」


 再び、額を床へ擦りつける。


 アレスの靴先が、目の前に見えた。


「お前は、自分より弱い者を家畜と呼んでいたそうだな」


「そ、それは……」


「借金を返せぬ者は鉱山へ送れ。女と子どもは高く売れ。普通の民など使い潰しても次が生まれる。そう言った」


「申し訳、ございません……」


「貴様は豚だ」


 耳を疑った。


「な……」


「いや、豚は人を売らない。守るべき民を食い物にもしない。貴様は家畜以下だ」


 自分より弱い者へ、わしが何度も浴びせてきた言葉だった。それが今、自分へ返ってきた。


 顔が熱くなり、怒りとくやしさで、床へついた拳が震えた。


「ブヒと言え」


「え……?」


「聞こえなかったか。豚らしく、ブヒと言え」


「そ、そのような……」


 アレスの足元から、凄まじい闘気が立ち昇った。


 ほんのわずか。それだけで、寝室が巨大な魔物の腹の中へ変わった。


 息ができない。逃げられない。


 顔を上げれば、そこにいるのは十二歳の少年ではなかった。


 幾万もの死を越えてきた何かが、底の見えない目でわしを見下ろしている。


「ブ、ブヒ……」


「聞こえない」


「ブヒ!」


「次は、ブヒヒだ」


 くやしさで涙がにじんだ。クロウが口元を袖で隠し、ルナは腹を抱え、声を殺し笑っている。ニーナだけは笑わず、静かな目でわしを見ていた。


「ブ、ブヒヒ……」


「誰に許しを求める」


「ア、アレス様……お許しください。ブヒヒ……」


 長い沈黙が落ちた。これほど惨めな真似までしたのだ。さすがに許すだろう。


「許さん」


「……え?」


 思わず顔を上げた。


「な、なぜ……土下座すれば、許してくれると……」


「許すとは一度も言っていない。土下座しろと言っただけだ」


「そ、そんな……」


「お前は、自分が何をしたのかまだ分かっていない」


 アレスの声から、わずかに残っていた少年らしさが消えた。


「お前のような奴が、国を内側から腐らせる。国境の兵へ届くはずの食料や武器を止め、兵を弱らせ、民から金を奪い、守るべき者を売る。お前のような領主が一人いるだけで、戦が起きた時に何百、何千という人間が死ぬ」


 闘気が、さらに膨れ上がる。


「貴様は、世界を滅ぼす元凶の一つだ。万死に値する」


 床が鳴った。


 壁に亀裂が走り、テーブルの上の杯が音もなく潰れる。


「お前のような奴は、ここで殺してもいい」


 アレスの姿が、一瞬だけ別の何かに見えた。


 血にぬれた荒野。空を埋め尽くす魔物。その中心に、たった一人で立つ男。


 恐怖に染まったわしの頭が、勝手に見せた幻にすぎない。それでも、目の前の少年ならば、その光景の中でも一人で立っていられる。なぜか、そう確信してしまった。


「ひっ……ひ、ひいいいいいいい!」


 身体を丸め、頭を抱えようとした。だが、指一本動かない。


 死ぬ。殺される。こいつは本当に、わしを殺せる。


 爵位も、法律も、屋敷の兵も、この化け物の前では何の意味もない。


「だが、死んで終わりなど許さない」


 威圧が、うそのように消えた。


 わしは床へ崩れ落ち、よだれを垂らしながら必死に空気を吸った。


「お前には、これから一生働いてもらう。奪った金を返し、売った者たちの暮らしを立て直し、壊した井戸と橋と街道を直せ。違法賭博場と、人身売買組織を潰し、不正に関わった役人を一人残らず洗い出せ。税を正し、兵を鍛え、民を守れ」


 アレスの靴先が、床へ置かれた契約書を指す。


「領民のために働け。世のため、人のため、アークハルト家とグランベル家のため、そして俺のために働け。お前が今まで踏みにじってきた者たちへ、死ぬまで返し続けろ」


「わ、わしの爵位と領地は……」


「契約を守り、今すぐ領地を立て直し始めるなら、証拠を陛下へ出すのは、しばらく待ってやる。その間に何を返し、どう償ったかも、すべて記録する」


 息をのんだ。


「ただし、一度でも逆らい、だまし、再び誰かを食い物にすれば、その日のうちにすべてが王宮へ届く。《贖罪契約》が、お前自身の口で罪を証明する」


「そ、それでは、わしは一生、貴様の――」


 言い終える前に、アレスの目が細くなった。


「……あなた様の配下ということですか」


「そうだ」


 アレスは何の迷いもなく言い切った。


「覚えておけ。お前は、俺の配下の中で最も下だ」


「最も……下……」


「爵位など関係ない。信用の話だ。そして立場もだ。今のお前は、クロウの虫一匹より下の立場だ」


 クロウの肩に留まった黒い甲虫が、こちらへ触角を向けた。


「ふぉふぉふぉ。精進なされませ、デボルト子爵。まずは我が子らに追いつくところからですな」


「くくくっ、よかったのう。最下位とはいえ、アレスの配下に加えてもらえるのじゃぞ」


 ルナが心底楽しそうに笑う。


 悔しい。殺してやりたい。そう思うはずだった。


 だが、心に浮かぶのは恐怖だけだった。アレスがわずかにまゆを動かしただけで、またあの威圧が来るのではないかと身体が勝手に震える。


「返事は?」


「は、はい! アレス様!」


「まだ契約が残っている」


 アレスがペンを床へ置いた。


「契約の内容を理解し、それでも生きて償うと決めたなら署名しろ」


 震える手でペンを取る。


 名前を書けば、もう後戻りはできない。これまで築いたすべてが、アレスの管理下へ置かれる。金も、兵も、領地も、わし自身さえも。


 逃げたい。だが、逃げた先に待つのは陛下の裁きか、侯爵が差し向ける刺客か、目の前の化け物だ。


 逃げ道など、最初からなかった。


 モルガン・デボルト。


 署名を終えた瞬間、契約書の魔法陣が銀色に輝いた。


 光の鎖が文字から伸び、わしの胸へ吸い込まれる。心臓を冷たい手でつかまれたような感覚に、身体が大きく跳ねた。


「《贖罪契約》は成立した」


 アレスの言葉が、胸の奥へ直接刻まれる。


 逆らえない。いや、違う。


 命令へ逆らおうと思うことはできる。だが、罪を隠し、人を害し、契約を破ろうとすれば、すべてがアレスへ伝わる。そして契約書は、その罪を偽りなく記録する。


 逃げ道だけが、完全に消えていた。


「では、最初の命令だ」


 アレスがニーナを見る。


「ニーナへ謝れ」


「先ほど、謝ったではないか……」


 胸の魔法陣が、焼けるように熱を持った。


「ぎゃああああ!」


 床を転げ回る。心臓から全身へ、溶けた鉄を流し込まれたような痛みが走った。


「うそをつくな。お前は許してもらうために、口先だけで謝った。自分が悪いとは、今も思っていない」


 痛みが消える。


 汗と涙にまみれながら、ニーナの前へはっていく。


「ニ、ニーナ……」


「様をつけろ」


「ニーナ様……」


 声が震えた。


 侍女へ様をつける。少し前までなら、舌をかみ切ってでも拒んだだろう。今は、アレスの視線が恐ろしくて仕方がない。


 ニーナの靴先へ額をつける。


「ニーナ様。あなたをさらい、アレス様とアークハルト家を陥れるための道具にしようとしました。もう二度と、あなた様にも、アレス様とそのご家族にも危害を加えません。申し訳……ございませんでした」


 言葉にするたび、自分が何をしようとしていたのかが、嫌でも耳へ返ってくる。ニーナは、すぐには答えなかった。


「私は、まだあなたを許せません」


 胸が縮む。だが、ニーナは静かに続けた。


「許されるためではなく、償うために働いてください。あなたが売った方々、家族を奪われた方々、苦しめられた領民の皆さんへ、行動で返してください」


「は、はい。ニーナ様……これから、行動で返させていただきます……」


「よく言った」


 アレスが、初めてわずかに笑った。


 その笑みを見ただけで、なぜか助かったと思った。恐怖で支配されていると分かっているのに、アレスから認められたことへ安心している自分がいた。


「クロウ。屋敷と領都にいる者たちへ伝えろ。夜が明けたら、デボルト子爵本人の命令として、すでに助け出した者たちの安全を公に保証しろ。十分な食事と治療を用意し、奪った金や物を返せ。違法賭博と人身売買に関わった者たちも一斉に捕らえろ」


「承知いたしました」


「決められた以上に集めた税は、記録が残っている限り、返還が遅れた分を上乗せして返せ。井戸、橋、街道の工事は本当に行わせろ。費用はデボルト個人の金から出す」


「はっ」


「デボルト」


「は、はい!」


 名前を呼ばれただけで、背筋が伸びる。


「今日から毎月、領内へ入った金と出ていった金、領内で起きた犯罪、蓄え、兵の状態を俺へ報告しろ。アークハルト家とグランベル家から助けを求められた時は、何より先に応じろ。次に魔物や帝国が攻めてきた時、お前の都合で食料や武器を止めることは許さない」


「はい、アレス様!」


 わしは全力で声を張り上げ返事する。


「返事だけはよいのう」


 ルナが笑い、クロウの肩にいた甲虫が羽を震わせた。


 アレスは、床へ散らばった裏帳簿、命令書、侯爵からの返書、印を刻んだ金貨を空間魔法へ収めていく。


 最後に元の《贖罪契約》を手に取り、わしへ冷たい視線を向けた。


「忘れるな。俺はいつでも、お前がしたことを陛下へ知らせられる」


「はい……」


「お前の命も、爵位も、領地も、今は償うために残してやるだけだ」


「はい、アレス様」


「そして、お前が償えたかどうかを決めるのは、俺ではない。お前が踏みにじった者たちだ」


 返す言葉はなかった。


 窓の外から、遠く鐘の音が聞こえた。ルナの《闇幕》がわずかに薄れ、夜明けを告げる鐘が、今度ははっきりと寝室へ響く。


 アレスの背後で閉ざされていたカーテンが開き、白み始めた東の空から、細い光が差し込んだ。


「夜が明けたぞ、デボルト」


 アレス・アークハルトが、床へ膝をつくわしを見下ろす。


「お前の贖罪は、今日から始まる」


「はい、アレス様」


 もう一度、額を床へつけた。


 こうして夜明けとともに、子爵モルガン・デボルトはアレス・アークハルトの配下となった。クロウの虫一匹よりも信用のない、最下位の配下に。


 この時のわしを動かしていたのは、純粋な恐怖だけだった。これからアレスに会うたび、名を呼ばれるだけで身体を震わせることになる。


 けれど、この時のわしはまだ知らない。奪った金を返した領民から、初めて涙ながらに礼を言われることを。直した井戸の周りで、子どもたちが笑う姿を見ることを。自分のためではなく、誰かのために働くことでしか得られないものが、この世にあることを。


 それを知るのは、もう少し先の話だった。


 その前に、贖罪者となったわしと十九人を待っていたものがある。夜明けから始まる、誰一人逃げられない最初の修練だった。

※注意

電車やバスで読むのはやめた方が良いかもしれません。

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