第122話 すべての逃げ道を奪う
モルガン・デボルト子爵視点
「家令だ!」
必死に声を上げる。
「すべて、あの家令が勝手にやった! わしはだまされていたのだ! あやつを差し出す! 死刑でも何でもすればよい!」
「家令は、すでにすべて話した」
「なっ……」
「家令の執務室にあった裏帳簿、裏の仕事に使った印、お前から受け取った命令書。隠し場所も含めて、すべて差し出した」
「あの恩知らずが!」
「最後まで、誰かを切り捨てれば自分だけ助かると思っているのだな」
アレスが空間から、一枚の大きな紙を取り出した。
「証拠となる元の書類とその写しは、すでに別々の場所へ分けた。一組は鳳凰商会。一組はアークハルト家。もう一組は、グランベル辺境伯家へ渡る」
そこには、領都と周辺の地図が描かれていた。
「日の出までに俺たちが戻らなければ、残りの証拠を持った使者も王都へ向かう。ここにある手紙を奪っても、商会を焼いても、証人を殺しても、もう何一つ消せない」
「へ、兵が、わしに忠誠を誓った兵達が必ず使者を捕まえる!」
アレスが何も言わず、わしをみる。
「兵は……わしの兵は何をしておる!」
「お前の悪事に関わっていない兵や使用人には、武器を捨てて屋敷に留まるなら、俺たちは手を出さないと伝えてある」
「わしへ忠誠を誓った兵だぞ!」
「金が途切れれば終わる忠誠を、誓いとは呼ばない」
金、手駒、兵、逃げ道、王都の後ろ盾。
アレスの言葉が一つ突き刺さるたび、わしが頼ろうとしたものが、すべて先回りして奪われていく。
「爵位だ……わしは、子爵だぞ」
残っている最後のものへ、すがりつく。
「ガレスは男爵にすぎぬ。貴様らに、わしを捕らえる権利などない」
「だから、父上だけに証拠を渡すのではない。国境の兵への補給物資を止めた証拠はグランベル辺境伯家へ。侯爵との手紙は王宮へ。人身売買と、密輸の証拠は、冒険者ギルド本部と商人組合へも渡す」
「そ、それは……」
「お前が爵位で押さえられる相手ばかりではない」
最後の壁まで、あっさりと崩された。
「ま、ま、待て……」
自分の声が、情けないほど震えている。
「待ってくれ。わしは、ガレスがうらやましく、嫉妬していただけなのだ」
なぜ、こんな言葉を口にしているのか、自分でも分からなかった。
「爵位も領地の豊かさも、わしが上だった。それなのに、陛下も、グランベル辺境伯も、領民までもが、あの男ばかりを褒める。わしを見ようとしなかった。だから、少し困らせてやろうと……」
「少し?」
「やり直す! これからは井戸も橋も直す! 税も減らす! 売った者も、全員買い戻す! だから、今回だけは見逃せ!」
「買い戻す必要はない。全員、もう自由だ」
「なら、金を返す! 倍でも、三倍でも払う!」
「お前が奪った人生は、金を払えば元へ戻るのか?」
「で、では、どうすれば……」
「俺に聞くな」
アレスの声には、怒りすら感じられなかった。
「お前が奪った者、一人一人へ聞け。何を返してほしいのか。何を償ってほしいのか。そのすべてを聞き、頭を下げ、生きて返し続けろ」
「一生……?」
「一生で足りると思っているのか?」
答えられない。
アレスは、テーブルの上へ積み上げた証拠を見回した。
「お前は言っていたな。金を払えない者には貸しつけろ。返せなければ働かせろ。若い女なら、もっと高く売れる。普通の民など使い潰しても、次が生まれると」
十日前、執務室で口にした言葉だ。あの黒い虫は、本当にすべてを聞いていた。
「ち、違う。あれは……」
「違わない」
アレスが言葉を重ねる。
「普通の民が何を思おうと知ったことではない。王国が滅びるわけでもない。自分の名さえ出なければ、何をしても構わない。すべて、お前が口にした言葉だ」
「許してくれ……」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
「金も渡す。貴様が一生遊んで暮らせるだけの金を。だから、命だけは……」
「許しを求める相手が違う」
アレスが、ニーナへ目を向ける。
わしも、すがるように侍女を見た。
「ニ、ニーナ。悪かった。お前をさらわせたことは謝る。実際には無事だったのだ。もう危害は加えぬ。だから、アレスへ――」
「お断りいたします」
静かな声だった。だが、そこには迷いがなかった。
「私は、あなたを許しません」
「謝っておるではないか!」
「私が無事だったのは、あなたが思い直したからではありません。アレス様が助けてくださったからです」
ニーナは、床へ転がるわしをまっすぐ見下ろしている。
「ですが、死んで逃げることも許しません。あなたが奪った方々へ、返せるものをすべて返してください。その方々の前で、自分が何をしたのか、一つずつ認めてください」
たかが侍女。そう叫び返したかった。
だが、声が出ない。この部屋で最も惨めなのが、子爵であるわしだと分かってしまった。
「クロウ」
「はい」
「外は?」
老人が甲虫へ指を触れ、目を閉じる。
「屋敷の兵は、全員武器を置きました。家令と、不正へ深く関わった役人たちも別室に捕らえられております。証拠を燃やそうとした者が二人おりましたが、そちらも無事に押さえたとのことです」
「そうか」
「待て……いつの間に……」
「お前が俺たちへ、言い訳を重ねている間だ」
何も知らなかった。この寝室の中で、まだ自分には兵がいる、家令がいる、逃げ道があると思い込んでいる間に、寝室の外では何もかもが終わっていた。
「まだ、自分が取引をする側だと思っているのか?」
アレスが言う。
心臓をつかまれたような気がした。
なぜ、分かる。金も、兵も、後ろ盾も失った。それでも心のどこかで、わしはまだ子爵だと思っていた。目の前の小僧より爵位は上で、話し合いの席へ着きさえすれば、最後には金と権力でどうにかできると。
今までも、そうしてきた。不正を暴こうとした役人には金を握らせた。受け取らぬ者は脅した。それでも従わぬ者は、してもいない罪をでっち上げ、家族ごと領地から追い出した。商人も、兵も、女も、最後には誰もがわしへ屈した。
わしは、ずっとうまくやってきたのだ。それなのに、なぜこんなことになった。なぜ、この小僧は、わしが次にすがろうとするものまで分かる。
一体、何なのだ、こいつは。
「分かった」
床に両手をつき、どうにか身体を起こす。
「どうしろというのだ、アレス・アークハルト。金ならやる。鳳凰商会への嫌がらせも、アークハルト家への口出しも、今後一切やめてやる。これでよかろう」
精一杯、子爵らしい重みを込めた。わしが譲歩してやるのだ。相手が子どもであろうと、ここまで差し出せば満足するはずだ。
だが、アレスは深く息を吐いただけだった。
「話にならないな」
「何だと?」
「帰るぞ」
アレスが立ち上がり、わしへ背を向ける。ルナと呼ばれた若い女性も、クロウという老人も、当然のようにその後へ続いた。
「ま、待て!」
「そういえば、最初に集めた証拠の写しを持たせた伝書鳩は、もう王都へ届くころだな」
アレスが、思い出したように言う。
「伝書鳩……?」
「王都にある鳳凰商会の協力者へ、七年分の帳簿から抜き出した送金記録の要点と、侯爵からの返書一通の写しを先に送ってある。まだ王宮には出していないが、俺が一言命じれば、陛下のもとへ届く」
全身から、どっと油汗が噴き出した。
陛下に知られる。不当な徴税で得た金を横領したことだけではない。国境の兵への補給物資を止め、人身売買に手を染めた。その罪を王都の侯爵にもみ消させていた証拠が、陛下へ届く。
爵位を奪われることなどでは済まない。よくても死ぬまで牢屋から出られず、悪ければ家は爵位を失い、わし自身は広場で首を落とされる。
「ち、違う! 待ってくれ!」
「せっかくだ。この十日でそろえた残りの証拠も、もう全部王都へ送ってしまおう。そうだな。それがいい」
「待てと言っておる!」
声を荒らげても、アレスは振り返らない。
「分かった! どうすればいい!」
足は止まらない。
「ど、どうすればいいのだ、アレス君!」
反応はない。
「アレス殿!」
駄目だ。このまま行かせれば、本当にすべてが終わる。
のどの奥がひきつった。これまで、男爵の息子へ頭を下げるなど考えたこともない。ましてや、まだ十二歳の子どもだ。わしより爵位も、年齢も、立場も下のはずだった。
だが、その子どもの指先一つに、わしの命も、爵位も、家も、すべてが握られている。
「お、お願いします! どうすればいいですか、アレス様!」
アレスの足が止まった。
ゆっくりと振り返る。
「まず、土下座しろ」
「なっ……」
「聞こえなかったか?」
「わ、わしは子爵だぞ。貴族が、普通の民や男爵家の子どもの前で土下座など――」
アレスが再び背を向ける。
「待ってください!」
両膝を床へついた。
これでよいのだ。形だけ頭を下げ、こいつらが帰った後で仕返しをすればよい。証拠さえ奪い返せば、いくらでもやり直せる。今は屈したふりを――。
「額が床についていない」
考えまで読まれたような気がして、身体が跳ねた。
奥歯をかみ締め、床へ両手をつく。ぶどう酒と自分の吐いたもので汚れたじゅうたんへ、額を擦りつけた。
身体中が震えた。くやしさで、頭がおかしくなりそうだった。
子爵であるわしが。モルガン・デボルトが。男爵の息子と、たかが侍女の前で、汚れた床へ額をつけている。
「これで……これでよいだろう。だから証拠を――」
「次だ。契約しろ」
アレスが、空間魔法から一枚の契約書を取り出した。紙面に描かれた複雑な魔法陣が淡い銀色の光を帯び、その下には、すでにアレス・アークハルトの署名が記されている。
その光を見た瞬間、背筋が凍った。
「ど、奴隷契約だけはご勘弁を!」
額を上げ、必死にアレスへすがる。
「金ならすべて差し出します! もう嫌がらせもしません! ですから、奴隷だけは! アレス君、考え直してくれ!」
アレスのまゆがわずかに動いた。
「ア、アレス殿!」
冷たい目は変わらない。
「アレス様! どうか、奴隷契約だけはご勘弁ください!」
「勘違いするな。奴隷契約ではない」
一瞬だけ、胸へ希望が戻った。
だが、アレスの冷たい目は、何一つ変わっていなかった。




