第121話 ニーナに代わりはいない
モルガン・デボルト子爵視点
なぜ、ここまで知られている。
わしはうまくやってきた。命令は必ず家令や商人を何人も介し、自分の名は表へ出さなかった。帳簿も分けた。役人には金を握らせ、逆らう者は遠ざけた。今まで一度も、これほど深く踏み込まれたことなどない。それを、この小僧はわずかな時間で突き崩した。
一体、何なのだ、こいつは。本当に、たかがBランクの冒険者なのか。
「それから、人身売買」
アレスの声が、一段低くなった。
「借金を返せない領民へ偽の借金を背負わせ、鉱山や倉庫へ送った。若い女や子どもは、別の買い手へ売っていた」
「人貸し屋が、勝手にやったことだ!」
「一人売るごとに、お前へ支払う金額が決められていた」
開かれた裏帳簿の一ページに、見覚えのある文字があった。
若い女は金貨三枚。子どもは金貨一枚を上乗せしろ。
間違いなく、わしが書いた文字だ。
「これは……」
「地下倉庫に閉じ込められていた二十三人。鉱山へ送られていた四十一人。買い手へ渡される前だった八人。全員、すでに助け出した」
「勝手に、わしの財産を!」
口から出た言葉に、部屋の空気が凍りついた。
アレスの目から、わずかに残っていた温度が消える。
「財産?」
「ち、違う。今のは言い方の問題だ」
「人身売買に手を染めておきながら、まだ自分のものだと思っているのか」
「わしは領主だ! 領民を働かせる権利がある!」
「王国法のどこにも、領主が領民を売ってよいとは書かれていない」
「普通の民の一人や二人、何だというのだ! わしが領地を与え、仕事を与え、生かしてやっておるのだぞ!」
「やはり、何も分かっていないな」
アレスは怒鳴らなかった。静かな声だった。それなのに、目の前へ巨大な魔物でも立ったかのように、身体が震え始める。
「お前が売った者には、全員名前がある。家族がいる。帰る場所がある。お前の金を増やすために生きている者など、一人もいない」
「きれい事を……」
「ならば、本人へ言ってみるか?」
アレスが背後へ目を向けた。
くり色の髪の侍女が、一歩前へ出る。緊張しているのか、胸元で両手を強く握っていた。それでも、こはく色の瞳はわしから逸れない。
「この娘に、見覚えは?」
「ない。侍女の顔など、いちいち覚えておるものか」
「そうか。名は覚えていたようだがな」
侍女が一度、息を吸う。
「ニーナと申します」
「ニーナ……?」
頭の中で、先ほどまで考えていた名と、目の前の娘の顔がつながった。
「なぜ、お前がここに……あの時、さらわれるはずだった小娘が――」
しまった。そう思って言葉を止めた時には、もう遅かった。
「ふぉふぉふぉ」
老人の笑い声が、やけに大きく聞こえた。
「ご自分で、よくご存じだと認めてしまわれましたな」
「違う! 家令から報告を受けただけだ!」
「報告を受けただけの者が、なぜさらわれる日まで知っている?」
「それは……」
アレスが、黒いひもでとじられた帳簿を開く。
「ニーナの誘拐に使った三つの組織へ支払われた金だ。その支出を承認した欄には、お前の署名と印がある」
「家令にだまされたのだ! 何の金か知らずに署名した!」
「コレットは、すべて話した」
「なっ……」
「偽の紹介状でアークハルト家へ入り、ニーナの代わりに俺の専属侍女となること。屋敷の見取り図、父上と騎士団の予定、俺が領外へ出る日を家令へ報告すること。次はニーナを事故に見せかけて排除するよう命じられていたこともな」
「あの女……わしを裏切ったのか!」
「最初から、お前へ忠誠を誓っていた者などいない。脅され、金で使われていただけだ」
ニーナが、テーブルの上へ一枚の命令書を置いた。
「あなたは、私をさらい、アレス様とご家族を陥れるための道具にしようとなさいました」
「だから何だ!」
追い詰められたいら立ちが、思わず口から噴き出した。
「たかが侍女一人のことで、子爵であるわしを脅すつもりか! 貴様の代わりなど、いくらでもいるだろう!」
ニーナの肩が、わずかに揺れた。
その瞬間、寝室全体がきしんだ。
アレスの足元から、目に見えない圧力が広がっている。テーブルの上の金貨が細かく震え、壁に掛けていた絵が傾いた。
「アレス」
赤い瞳の女が、楽しげだった声を少しだけ低くする。
「分かっている」
アレスが短く答えると、重圧は消えた。だが、向けられた目だけは変わらない。
「ニーナに代わりはいない」
「ひっ……」
その目を見ただけで身が震えた。
「お前が金額しか見ていない者たちも同じだ」
ニーナは一度、アレスへ目を向けた。その言葉に背を押されたように、再びわしをまっすぐ見た。
「私は、ただの侍女です。ですが、アレス様は私を一人の人間として見てくださいます」
ニーナは握りしめていた両手を解き、静かに続けた。
「あなたに売られた方々も、傷つけられた方々も同じです。あなたに奪われるために生きている人など、一人もいません」
「黙れ! 普通の民が、貴族へ意見するな!」
「黙る必要はない」
アレスが、わしの言葉を切り捨てた。
「今夜、お前に奪われかけた者として、ここにいる」
なぜだ。なぜ、たかが侍女がわしを見下ろしている。なぜ、誰もわしを恐れない。
「侯爵様だ……」
震える声を、無理やり絞り出した。
「わしには王都の有力侯爵がついておる! 貴様らがどれほど偽の証拠を並べようと、侯爵様がすべて握り潰す! 貴様の父親も、鳳凰商会も、まとめて潰してくれるわ!」
「これのことか?」
アレスが書類入れを開いた。
見覚えのある印で封をされた手紙が、何通も並べられる。
「どこで、それを……」
「七年分の金額と、運んだ者の名。お前の不正を調べようとした役人を左遷し、取り締まられた賭博場を再び開かせた。商人組合の訴えをもみ消した礼として、金を送っていた」
「か、返せ!」
テーブルの上の手紙へ手を伸ばす。
だが、黒い影が手首へ絡みつき、身体ごと椅子へ引き戻した。
「触るでない。汚らわしい」
女が、冷たい目でわしを見ている。
「侯爵からの返書もある。封に押された紋章、使者の証言、王都で金を受け取った者まで確認した」
「侯爵様は、わしを見捨てぬ!」
「自分まで裁かれる証拠を持つお前を、守ると思うのか?」
アレスの問いに、息が止まった。
「手紙が王宮へ届く前に、お前を消して口を塞ぐ。それが、お前の後ろ盾とやらが最初に考えることだ」
「そ、そんな……」
「お前自身が、いつもやっていたことだろう。失敗した部下へ罪を被せ、口を封じる。侯爵にとって、今のお前はその部下と同じだ」
否定したかった。あの御方は、わしから金を受け取ってきた。伯爵位の推薦も考えてやると、何度も言ってくれた。
だが、金を運んだ使者が一度失敗した時、侯爵はその男を迷わず処分した。わしも、それが当然だと思っていた。胸の奥から、今までにない恐怖が込み上げる。
「証拠を……その手紙をすべて渡せ」
「何?」
「金を払う。金貨千枚でどうだ。足りなければ二千枚でもよい。鳳凰商会が欲しがる取引も、倉庫も、土地も、すべて用意してやる」
「必要ない」
「では、子爵家へ取り立ててやる! 侯爵様へ頼めば、ガレスを子爵にすることもできる!」
「お前は、まだ何も分かっていない」
「何が不満だ! 望むものを言え!」
「お俺たちをお前の汚い金で、買収できるとでも思っているのか?」
言葉に詰まる。
「鳳凰商会は、俺が作った商会だ」
「……何?」
「お前が店を出す許可を止め、商品の仕入れ先を脅し、火を放たせた商会だ。軍へ届ける食料や武器を取り戻し、お前の金の流れを追った。証人を守ったのも、すべて俺の者たちだ」
頭の中が真っ白になった。
鳳凰商会。この十日間、わしの命令をことごとく潰し、逆に証拠を集め続けた商会。それを、この小僧が作ったというのか。
あり得ない。認められるはずがない。商会を一つ始めるだけでも、金、人とのつながり、商品を仕入れる相手、護衛、役所との話し合いが必要になる。それを十二歳の子どもが成し遂げ、わしが何年もかけて築いた金の流れを、わずか十日で逆にたどり切った。
父親の名を借りただけの小僧ではない。目の前にいるのは、わしの常識では測れない何かだ。
初めて、アレス・アークハルトという存在そのものが恐ろしくなった。
「うそだ……十二歳の子どもに、そのようなことができるはずがない」
「できたから、お前は今ここで震えている」
「わしは震えてなどおらぬ!」
怒鳴りながら、ベッドの枕元へ手を伸ばした。そこには、護身用の短剣がある。一番近くにいるニーナなら捕らえられる。人質にすれば、こいつも手を出せない。
短剣の柄をつかみ、さやから抜く。そのままニーナへ飛びかかった。
「動くな! この女の命が――」
最後まで言えなかった。
いつ動いたのか、分からない。気づいた時には、アレスが目の前にいた。
短剣の刃を、親指と人差し指だけで挟んでいる。
「また、人を盾にするのか」
「は、放せ!」
両手で短剣を押しても、刃はわずかにも動かない。
アレスの指先へ力が入った。乾いた音と共に、鋼の刃が中央から折れた。
「ひっ……」
次の瞬間、腹へ重い衝撃がめり込んだ。
「ごふっ!」
息がすべて吐き出され、身体がベッドへ転がる。何をされたのかすら見えなかった。
「今のは、ニーナをさらおうとした分だ」
襟首をつかまれ、肥えた身体が軽々と持ち上がる。そのまま床へたたきつけられ、背中から肺に残っていたわずかな空気まで押し出された。
「がはっ……!」
「これは、ニーナを道具と呼んだ分」
頬を打たれた。
平手だったはずなのに、視界が白く弾ける。身体が床を転がり、テーブルの脚へ肩からぶつかった。その拍子に杯が落ち、ぶどう酒がじゅうたんへ広がる。口の中に鉄の味が広がり、折れた歯が一本、その赤い染みへ転がった。
「そして、これは今、もう一度ニーナへ手を出した分だ」
「ま、待――」
腹へ二度目の拳が沈んだ。
「おごっ!」
胃の中のぶどう酒を床へ吐き出す。腹の奥が焼けるように痛み、息を吸うだけであばら骨がきしんだ。
こいつは、十二歳の子どもではない。人の形をした災厄だ。
そう思った瞬間、黒い影が両腕と両脚へ絡みつき、指一本動かせなくなった。
「アレスよ、この男、殺してもよいか?」
赤い瞳の女が、笑っていない顔で尋ねた。
「駄目だ」
「なぜじゃ。今、ニーナを殺そうとしたぞ」
「死んだら、奪ったものを返せない」
アレスがわしを見下ろす。
「それに、死んで終わりなど許さない」
初めて、理解した。
こいつは、わしを殺しに来たのではない。殺されるよりも恐ろしい何かを、わしへ与えるために来たのだ。
その恐怖から逃れるため、わしの頭は、次に切り捨てる者の名を必死に探し始めていた。




