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怠惰で傲慢だった貴族がやり直しで世界を救う  作者: 雅
第九章 デボルト子爵領編

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第121話 ニーナに代わりはいない

モルガン・デボルト子爵視点


 なぜ、ここまで知られている。


 わしはうまくやってきた。命令は必ず家令や商人を何人も介し、自分の名は表へ出さなかった。帳簿も分けた。役人には金を握らせ、逆らう者は遠ざけた。今まで一度も、これほど深く踏み込まれたことなどない。それを、この小僧はわずかな時間で突き崩した。


 一体、何なのだ、こいつは。本当に、たかがBランクの冒険者なのか。


「それから、人身売買」


 アレスの声が、一段低くなった。


「借金を返せない領民へ偽の借金を背負わせ、鉱山や倉庫へ送った。若い女や子どもは、別の買い手へ売っていた」


「人貸し屋が、勝手にやったことだ!」


「一人売るごとに、お前へ支払う金額が決められていた」


 開かれた裏帳簿の一ページに、見覚えのある文字があった。


 若い女は金貨三枚。子どもは金貨一枚を上乗せしろ。


 間違いなく、わしが書いた文字だ。


「これは……」


「地下倉庫に閉じ込められていた二十三人。鉱山へ送られていた四十一人。買い手へ渡される前だった八人。全員、すでに助け出した」


「勝手に、わしの財産を!」


 口から出た言葉に、部屋の空気が凍りついた。


 アレスの目から、わずかに残っていた温度が消える。


「財産?」


「ち、違う。今のは言い方の問題だ」


「人身売買に手を染めておきながら、まだ自分のものだと思っているのか」


「わしは領主だ! 領民を働かせる権利がある!」


「王国法のどこにも、領主が領民を売ってよいとは書かれていない」


「普通の民の一人や二人、何だというのだ! わしが領地を与え、仕事を与え、生かしてやっておるのだぞ!」


「やはり、何も分かっていないな」


 アレスは怒鳴らなかった。静かな声だった。それなのに、目の前へ巨大な魔物でも立ったかのように、身体が震え始める。


「お前が売った者には、全員名前がある。家族がいる。帰る場所がある。お前の金を増やすために生きている者など、一人もいない」


「きれい事を……」


「ならば、本人へ言ってみるか?」


 アレスが背後へ目を向けた。


 くり色の髪の侍女が、一歩前へ出る。緊張しているのか、胸元で両手を強く握っていた。それでも、こはく色の瞳はわしから逸れない。


「この娘に、見覚えは?」


「ない。侍女の顔など、いちいち覚えておるものか」


「そうか。名は覚えていたようだがな」


 侍女が一度、息を吸う。


「ニーナと申します」


「ニーナ……?」


 頭の中で、先ほどまで考えていた名と、目の前の娘の顔がつながった。


「なぜ、お前がここに……あの時、さらわれるはずだった小娘が――」


 しまった。そう思って言葉を止めた時には、もう遅かった。


「ふぉふぉふぉ」


 老人の笑い声が、やけに大きく聞こえた。


「ご自分で、よくご存じだと認めてしまわれましたな」


「違う! 家令から報告を受けただけだ!」


「報告を受けただけの者が、なぜさらわれる日まで知っている?」


「それは……」


 アレスが、黒いひもでとじられた帳簿を開く。


「ニーナの誘拐に使った三つの組織へ支払われた金だ。その支出を承認した欄には、お前の署名と印がある」


「家令にだまされたのだ! 何の金か知らずに署名した!」


「コレットは、すべて話した」


「なっ……」


「偽の紹介状でアークハルト家へ入り、ニーナの代わりに俺の専属侍女となること。屋敷の見取り図、父上と騎士団の予定、俺が領外へ出る日を家令へ報告すること。次はニーナを事故に見せかけて排除するよう命じられていたこともな」


「あの女……わしを裏切ったのか!」


「最初から、お前へ忠誠を誓っていた者などいない。脅され、金で使われていただけだ」


 ニーナが、テーブルの上へ一枚の命令書を置いた。


「あなたは、私をさらい、アレス様とご家族を陥れるための道具にしようとなさいました」


「だから何だ!」


 追い詰められたいら立ちが、思わず口から噴き出した。


「たかが侍女一人のことで、子爵であるわしを脅すつもりか! 貴様の代わりなど、いくらでもいるだろう!」


 ニーナの肩が、わずかに揺れた。


 その瞬間、寝室全体がきしんだ。


 アレスの足元から、目に見えない圧力が広がっている。テーブルの上の金貨が細かく震え、壁に掛けていた絵が傾いた。


「アレス」


 赤い瞳の女が、楽しげだった声を少しだけ低くする。


「分かっている」


 アレスが短く答えると、重圧は消えた。だが、向けられた目だけは変わらない。


「ニーナに代わりはいない」


「ひっ……」


 その目を見ただけで身が震えた。


「お前が金額しか見ていない者たちも同じだ」


 ニーナは一度、アレスへ目を向けた。その言葉に背を押されたように、再びわしをまっすぐ見た。


「私は、ただの侍女です。ですが、アレス様は私を一人の人間として見てくださいます」


 ニーナは握りしめていた両手を解き、静かに続けた。


「あなたに売られた方々も、傷つけられた方々も同じです。あなたに奪われるために生きている人など、一人もいません」


「黙れ! 普通の民が、貴族へ意見するな!」


「黙る必要はない」


 アレスが、わしの言葉を切り捨てた。


「今夜、お前に奪われかけた者として、ここにいる」


 なぜだ。なぜ、たかが侍女がわしを見下ろしている。なぜ、誰もわしを恐れない。


「侯爵様だ……」


 震える声を、無理やり絞り出した。


「わしには王都の有力侯爵がついておる! 貴様らがどれほど偽の証拠を並べようと、侯爵様がすべて握り潰す! 貴様の父親も、鳳凰商会も、まとめて潰してくれるわ!」


「これのことか?」


 アレスが書類入れを開いた。


 見覚えのある印で封をされた手紙が、何通も並べられる。


「どこで、それを……」


「七年分の金額と、運んだ者の名。お前の不正を調べようとした役人を左遷し、取り締まられた賭博場を再び開かせた。商人組合の訴えをもみ消した礼として、金を送っていた」


「か、返せ!」


 テーブルの上の手紙へ手を伸ばす。


 だが、黒い影が手首へ絡みつき、身体ごと椅子へ引き戻した。


「触るでない。汚らわしい」


 女が、冷たい目でわしを見ている。


「侯爵からの返書もある。封に押された紋章、使者の証言、王都で金を受け取った者まで確認した」


「侯爵様は、わしを見捨てぬ!」


「自分まで裁かれる証拠を持つお前を、守ると思うのか?」


 アレスの問いに、息が止まった。


「手紙が王宮へ届く前に、お前を消して口を塞ぐ。それが、お前の後ろ盾とやらが最初に考えることだ」


「そ、そんな……」


「お前自身が、いつもやっていたことだろう。失敗した部下へ罪を被せ、口を封じる。侯爵にとって、今のお前はその部下と同じだ」


 否定したかった。あの御方は、わしから金を受け取ってきた。伯爵位の推薦も考えてやると、何度も言ってくれた。


 だが、金を運んだ使者が一度失敗した時、侯爵はその男を迷わず処分した。わしも、それが当然だと思っていた。胸の奥から、今までにない恐怖が込み上げる。


「証拠を……その手紙をすべて渡せ」


「何?」


「金を払う。金貨千枚でどうだ。足りなければ二千枚でもよい。鳳凰商会が欲しがる取引も、倉庫も、土地も、すべて用意してやる」


「必要ない」


「では、子爵家へ取り立ててやる! 侯爵様へ頼めば、ガレスを子爵にすることもできる!」


「お前は、まだ何も分かっていない」


「何が不満だ! 望むものを言え!」


「お俺たちをお前の汚い金で、買収できるとでも思っているのか?」


 言葉に詰まる。


「鳳凰商会は、俺が作った商会だ」


「……何?」


「お前が店を出す許可を止め、商品の仕入れ先を脅し、火を放たせた商会だ。軍へ届ける食料や武器を取り戻し、お前の金の流れを追った。証人を守ったのも、すべて俺の者たちだ」


 頭の中が真っ白になった。


 鳳凰商会。この十日間、わしの命令をことごとく潰し、逆に証拠を集め続けた商会。それを、この小僧が作ったというのか。


 あり得ない。認められるはずがない。商会を一つ始めるだけでも、金、人とのつながり、商品を仕入れる相手、護衛、役所との話し合いが必要になる。それを十二歳の子どもが成し遂げ、わしが何年もかけて築いた金の流れを、わずか十日で逆にたどり切った。


 父親の名を借りただけの小僧ではない。目の前にいるのは、わしの常識では測れない何かだ。


 初めて、アレス・アークハルトという存在そのものが恐ろしくなった。


「うそだ……十二歳の子どもに、そのようなことができるはずがない」


「できたから、お前は今ここで震えている」


「わしは震えてなどおらぬ!」


 怒鳴りながら、ベッドの枕元へ手を伸ばした。そこには、護身用の短剣がある。一番近くにいるニーナなら捕らえられる。人質にすれば、こいつも手を出せない。


 短剣の柄をつかみ、さやから抜く。そのままニーナへ飛びかかった。


「動くな! この女の命が――」


 最後まで言えなかった。


 いつ動いたのか、分からない。気づいた時には、アレスが目の前にいた。


 短剣の刃を、親指と人差し指だけで挟んでいる。


「また、人を盾にするのか」


「は、放せ!」


 両手で短剣を押しても、刃はわずかにも動かない。


 アレスの指先へ力が入った。乾いた音と共に、鋼の刃が中央から折れた。


「ひっ……」


 次の瞬間、腹へ重い衝撃がめり込んだ。


「ごふっ!」


 息がすべて吐き出され、身体がベッドへ転がる。何をされたのかすら見えなかった。


「今のは、ニーナをさらおうとした分だ」


 襟首をつかまれ、肥えた身体が軽々と持ち上がる。そのまま床へたたきつけられ、背中から肺に残っていたわずかな空気まで押し出された。


「がはっ……!」


「これは、ニーナを道具と呼んだ分」


 頬を打たれた。


 平手だったはずなのに、視界が白く弾ける。身体が床を転がり、テーブルの脚へ肩からぶつかった。その拍子に杯が落ち、ぶどう酒がじゅうたんへ広がる。口の中に鉄の味が広がり、折れた歯が一本、その赤い染みへ転がった。


「そして、これは今、もう一度ニーナへ手を出した分だ」


「ま、待――」


 腹へ二度目の拳が沈んだ。


「おごっ!」


 胃の中のぶどう酒を床へ吐き出す。腹の奥が焼けるように痛み、息を吸うだけであばら骨がきしんだ。


 こいつは、十二歳の子どもではない。人の形をした災厄だ。


 そう思った瞬間、黒い影が両腕と両脚へ絡みつき、指一本動かせなくなった。


「アレスよ、この男、殺してもよいか?」


 赤い瞳の女が、笑っていない顔で尋ねた。


「駄目だ」


「なぜじゃ。今、ニーナを殺そうとしたぞ」


「死んだら、奪ったものを返せない」


 アレスがわしを見下ろす。


「それに、死んで終わりなど許さない」


 初めて、理解した。


 こいつは、わしを殺しに来たのではない。殺されるよりも恐ろしい何かを、わしへ与えるために来たのだ。


 その恐怖から逃れるため、わしの頭は、次に切り捨てる者の名を必死に探し始めていた。

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