第120話 夜の寝室へ現れた者
モルガン・デボルト子爵視点
鳳凰商会の倉庫へ火を放たせた夜から、十日が過ぎた。
夜も更け、屋敷の者たちはすでに寝静まっている。寝室には、わし一人。ベッドわきのテーブルの上には、王都から取り寄せたぶどう酒と、金縁の杯が置かれていた。
「役立たずどもめ」
酒を飲みながら、腹立たしい報告を思い出す。確かに火を放ったはずの鳳凰商会は、翌朝には何事もなかったように店を開けた。実行役と仲介人は姿を消し、グランベル辺境伯軍への補給物資も、鳳凰商会が金を立て替えたせいで徴税所から運び出された。その後も、わしが手を打つたびに邪魔をされる。そのうえ、徴税所から受け取る金まで減っていた。わしの命令一つ満足に果たせぬ無能ばかりだ。
だが、焦る必要はない。
放火を命じたのは家令だ。兵への補給物資を止めたのも徴税所の役人。何か問題になったところで、わしは知らなかったと言えばよい。家令へすべての罪を被せ、口を封じれば終わる話だ。王都には、長年金を渡してきた侯爵もいる。仮にたかが商会や男爵家が何を騒ごうと、調べる役人ごと潰してしまえばよい。
「アレス・アークハルト……」
最近になって、何度も耳にする。どうしようもなく腹立たしい名だ。十二歳でBランク冒険者になったというが、どうせ父親の金と名声で、実力以上に立派に見せているだけだ。鳳凰商会の後ろにいるのも、あの小僧かもしれぬ。
どうせ子どもだ。わしは何十年も貴族社会を生き抜き、金で役人を動かし、邪魔な商人を潰し、王都の有力貴族さえ味方につけてきた。十二歳の小僧が少しばかり腕に覚えがあろうと、恐れる理由などどこにもない。
むしろ、父親と同じく目障りだった。ガレスは、自分より爵位が下のくせに陛下やグランベル辺境伯から信頼されている。その息子まで、冒険者や商人からちやほやされ始めていた。父も息子も、なぜわしの上へ立とうとする。生まれも、爵位も、財力も、すべてわしが勝っているというのに。
ならば、先に弱みを握ればよい。
アレスが大切にしているというニーナを、今度こそさらう。駄目なら、家族の誰かを狙う。自分がいくら強かろうと、守らねばならぬ者が増えれば、いずれすきはできる。捕らえた侍女の指を一本ずつ折り、その悲鳴を聞かせてやれば、傲慢な小僧もわしの前へひざまずくだろう。その後は、すでにアークハルト家へ送り込んだコレットを、ニーナの代わりの専属侍女に据える。そうすれば、屋敷の情報もすべて流れてくる。
ガレスの息子が泣いて許しを求める姿を想像すると、ようやく胸のいら立ちが収まってきた。
「次は失敗せぬ。あのニーナという侍女を――」
「それ以上、その名を口にするな」
不意に、低い声が響いた。
杯を取り落としかけ、慌てて寝室を見回す。扉は閉まっている。窓の掛け金も下りたままだ。
「だ、誰だ!」
部屋の隅にたまっていた闇が、音もなく揺れた。その闇がほどけ、四つの人影が姿を現す。先頭に立つのは、黒髪の少年。その隣には、紫色の長い髪を垂らした、二十歳前後に見える美しい女。闇の中で赤い瞳を光らせている。背後には、背筋が伸びた執事のような老人と、侍女服を着たくり色の髪の娘がいた。
誰一人、武器を持っていない。
「貴様ら、どこから入った! ここを誰の寝室だと思っておる!」
「モルガン・デボルト子爵の寝室だ」
少年は、まるで自分の部屋にでもいるかのように落ち着いている。
「何者だと聞いておる!」
「アレス・アークハルト」
一瞬、言葉を失った。
こいつが。
ガレスの息子。どうしようもなく腹立たしい、十二歳の小僧。
驚きはした。だが、すぐに可笑しさが込み上げてきた。
「くっ……くくく。そうか、貴様がアレスか」
馬鹿め。
わざわざ自分から、わしの屋敷へ入ってきおった。
どのような手を使ったのかは知らぬが、ここには、わしが自分で雇った兵がいる。騒ぎを聞きつければ、すぐに数十人が押し寄せる。Bランクという噂が本当だとしても、この狭い寝室で四方から囲まれれば、侍女を守りながら逃げることなどできまい。
わしは口元へ余裕の笑みを浮かべ、ベッドわきの呼び鈴へ手を伸ばした。
「衛兵! 曲者だ! 今すぐ入れ!」
力任せに鈴を振る。
甲高い音が鳴る――はずだった。
だが、何も聞こえない。
「な、何だ?」
もう一度振る。鈴の中で舌が激しく動いているのに、音だけが完全に消えていた。
「衛兵! 聞こえぬのか!」
のどが痛むほど叫んでも、扉の外から足音一つ返ってこない。
「無駄じゃ」
赤い瞳の女が、愉快そうに笑った。
「この部屋の音も気配も、わらわの《闇幕》で覆っておる。どれほど大声を上げようと、扉一枚向こうへすら届かぬ」
「き、貴様……わしが誰か分かっておるのか!」
「先ほどから、子爵だ何だとうるさい男じゃのう。爵位を叫べば、わらわの魔法が解けるとでも思うたか?」
女が指をわずかに動かすと、扉の前に広がった闇が床から天井までを黒く塗り潰した。
背筋に冷たい汗が流れる。
だが、まだだ。こいつらは、わしを殺せない。貴族の屋敷へ忍び込み、子爵を害したとなれば、アークハルト家ごと反逆罪へ問える。
「今すぐ魔法を解け。ここでわしに何かすれば、貴様の父親もただでは済まぬぞ」
「何か勘違いしているようだな」
アレスは近くの椅子を引き、わしの正面へ腰を下ろした。
「今夜、裁かれるのは俺たちじゃない。お前だ」
「わしを裁くだと?」
思わず笑い声が漏れた。
「たかが男爵の息子が、子爵であるわしを? 身の程を知らぬにも限度があるわ!」
「爵位が一つ上なら、何をしても許されると思っているのか?」
「領主が自分の領地をどのように治めようと、部外者に口を出される筋合いはない!」
「そうか」
アレスの右手が動くと、その隣の空間が黒くゆがんだ。何もなかった場所へ腕を差し入れ、分厚い革の書類入れを取り出した。
「空間魔法……?」
魔法に詳しくないわしでも、それがどれほど珍しい力かは知っている。世界中を探しても、使える者が何人いるか分からぬ魔法。それを、目の前の小僧が当たり前のように使った。
胸の奥へ、針の先ほどの不安が刺さった。
十二歳の子どもが、なぜ空間魔法を使える。Bランク冒険者という話も、父親が実力以上に立派に見せたのだと思っていた。鳳凰商会の件も、商人どもが勝手にこの小僧を持ち上げているだけだと。
だが、もし違うとしたら。
もし、わしが聞いていた話のすべてが本当だとしたら――。
馬鹿な。
あり得ぬ考えを、すぐに振り払った。
アレスは、わしの動揺など気にも留めず、書類入れをテーブルの上へ置いた。
「十日前、お前は鳳凰商会の倉庫へ火を放たせた」
「何の話だ。わしは知らぬ」
「そう言うと思った」
アレスが一枚の手紙を取り出す。背後にいた侍女が受け取り、わしの前へ静かに置いた。
「実行役へ放火を命じた手紙だ。家令が裏の仕事に使っていた印も押されている」
「家令が勝手にやったことだ! そのような手紙、わしには何の関係もない!」
「放火に加わった四人、仲介人、巡回を外れた衛兵。全員が証言した」
「金で買った証言であろう!」
「全員から、別々の場所で話を聞いた。日付、時刻、金額、命令を受けた場所まで一致している。うそをつけない契約も結んだ」
「それでも、わしが命じた証拠にはならぬ!」
「ふぉふぉふぉ」
それまで黙っていた老人が、楽しげにひげをなでた。
「あの夜、旦那様は家令へ申しておられましたな。『わしの名さえ出なければ、何をしても構わん。盗賊に襲わせようが、倉庫へ火を放とうが、好きにしろ』と」
心臓が、大きく跳ねた。
「なぜ……その言葉を……」
「こちらに見覚えはございませぬかな?」
老人の袖口から、一匹の黒い甲虫がはい出した。
黒い虫。
十日前、執務室のはりへ逃げ込んだ虫。
「まさか……」
「我が子らは、旦那様のお屋敷を大層気に入ったようでございます。おかげで、実に多くのお話を聞かせていただきました」
「虫が聞いたなど、証拠になるものか!」
「ならないだろうな」
アレスがあっさりと認める。
「だから、手紙、帳簿、金の流れ、証言をすべて集めた。虫が聞いた言葉は、それを探すための手がかりに使っただけだ」
新たな書類が、テーブルの上へ置かれる。
「次だ。お前はグランベル辺境伯軍への補給物資を徴税所で止め、金貨四十枚を要求した」
「徴税所の役人が勝手に――」
「役人から三十枚が商人へ渡り、商人から家令へ渡った。家令は十枚をお前の私的な金庫へ入れ、残りを王都へ送る金へ回した」
「でたらめだ!」
「ベッドの頭側、壁板の裏」
赤い瞳の女が、歌うように告げる。
「三つ並んだ金庫の、一番右。上から二段目にある革袋の中じゃ。わらわが数えた時には、確かに十枚入っておったぞ」
思わず、ベッドの後ろへ目を向けてしまった。ごく限られた者しか知らない隠し金庫だ。
その反応を見た女が、にんまりと笑う。
「そこにあるのじゃな?」
「ち、違う!」
「ニーナ」
「はい」
侍女が、小さな革袋をテーブルの上へ置いた。
袋の口が開かれ、十枚の金貨が並べられた。すべての縁に、鳳凰の翼に似た二本の傷が刻まれている。
「徴税所で支払う前に、俺がつけた印だ」
「金貨など、どれも同じであろう! その傷も、今つけたのかもしれぬ!」
「支払いに使う前、運送商と徴税所の衛兵に確認させた。傷の形を写した書面へ、全員の署名がある」
アレスは、その書面まで取り出した。
「その後も、徴税所から商人、商人から家令、家令からお前の金庫まで、金貨はクロウの虫が追い続けた」
「あれは正当な通行料だ! 領主であるわしには、領内を通る荷へ税をかける権利がある!」
「王国法にも、デボルト領の通行規則にも、そのような税はない。徴税所の役人自身が、帳簿へ倉庫保管料と偽って記載したことを認めた」
「役人の罪だ!」
「その金がお前の金庫から出てきた」
何も言えない。
アレスは一つ目の書類入れを閉じると、再び空間魔法から別の束を取り出した。
「西区の井戸。南橋。領都へ続く街道。直したことになっているが、どこも工事は行われていなかった」
「家令に任せていた! わしは知らぬ!」
「金を払う命令書には、お前の署名と印がある。名前だけを貸した商会も、お前に命じられたと認めた。支払われた金と同じ額が、その日のうちにお前の金庫へ入っている」
「署名など、偽物を作れる!」
「役所、商会、子爵家。三か所に残っていた書類を照合した。筆跡も印も同じだ」
次々に紙が重ねられていく。
「違法賭博場。高利貸し。人貸し屋。密輸品を保管する倉庫。そこから得た金は、いくつもの商会を通ってお前のもとへ流れていた」
「知らぬ! そのような店は、わしとは無関係だ!」
「賭博場の裏帳簿には、取り締まりを避けるため、役人へ渡した金が記されている。命令を記した家令の手紙もある。金を運んだ者と、受け取った役人も捕らえた」
「家令が――」
「密輸品を置く倉庫は、デボルト子爵家の名で借りられている。倉庫代も子爵家の金から出ていた。その品を売る許可証には、お前自身が署名していた」
言い返そうとするたび、その言葉を待っていたかのように、次の証拠が出てくる。わしが何十年もかけて築いた逃げ道が、紙を一枚重ねられるごとに塞がれていく。
のどが渇く。杯へ手を伸ばしたが、指先が震え、うまくつかめない。
これで終わりのはずだ。
そうでなければならない。
だが、アレスの目には、これで終わりだという色など少しもなかった。
その手が、まだ残っている書類の束へ伸びる。
「次だ」
低く落ちた声とともに、わしが深く埋めた罪が、今まさに次々と暴かれようとしていた。




