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怠惰で傲慢だった貴族がやり直しで世界を救う  作者: 雅
第九章 デボルト子爵領編

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第117話 最初の一本

「俺にできることがあれば、何でも命じてください」


「なら、明日の開店までに焦げた臭いを消せ」


「……はい?」


「商品を戻す。棚も掃除する。朝になったら、いつもどおり店を開けるぞ」


「今から、全部ですか?」


「デボルトは、鳳凰商会を潰したと思っている。明日の朝、何事もなかったように店が開けば、どう思う?」


 ベッツは少し考えたあと、驚いたように顔を上げた。


「火をつけた者が、仕事をしなかったと思う……」


「それだけじゃない。家令は実行役を疑い、実行役は金を払わない家令を疑う。巡回を外れた衛兵も、自分だけが切り捨てられると考える」


「仲間同士で、疑い始めるのですね」


 ミラの言葉にうなずいた。


「金だけでつながった者は、金が受け取れなくなれば簡単に離れる」


 デボルトは、部下を信頼していない。部下も、デボルトへ忠誠を誓っているわけではない。命令に従うのは、金を受け取れるからだ。ならば、金でしかつながっていない関係に亀裂を入れる。


「まずは、手足から奪う」


 ゲオルグが、感心したようにうなった。


「けんかより、よほど恐ろしいやり方だな」


「そうか?」


「ええ。殴られた傷は、時間が経てば治ります。だが、誰も信じられなくなったら、眠ることもできねえ」


「まだ始めたばかりだ」


 そう答えると、なぜかゲオルグが黙った。隣では、ルナがまた楽しげに笑っている。


「アレス様」


 クロウが目を開いた。


「報告が始まりますぞ」


 手のひらの甲虫から、男たちの声が聞こえる。


『火はつけた。倉庫の中まで燃えたのを見た』


『店の者は?』


『いなかった。残りの金を寄越せ』


『本当に、燃えたのだろうな』


『俺たちを疑うのか?』


 赤灯亭へ戻った実行役と、仲介人の男の会話だ。


『明日の朝には分かる。それまで残りは払えん』


『約束が違う!』


『子爵家の仕事だ。騒ぐなら、今夜のうちに衛兵がお前を捕らえるぞ』


『……覚えておけよ』


 椅子が倒れる音がして、実行役の男が酒場を出ていく。


「追いますか?」


「ああ。ただし、近づいて話しかけるな」


 次に、紙へ筆を走らせる音が聞こえた。仲介人は、実行役が帰ったあと、成功を知らせる報告を書いているらしい。


『鳳凰の羽は焼け落ちた、か。ふん。気取った名前をつけおって』


 紙を折る音。封蝋を垂らし、印を押す音。


『これを裏門へ届けろ。家令殿へ直接渡すんだ』


『はい』


「報告書を運ぶ者へも、虫をつけました」


「そのまま屋敷まで追え」


「もちろんでございます」


 これで、実行役から赤灯亭の仲介人、仲介人からデボルト家の家令までがつながった。まだ、外から見れば偶然の集まりにすぎない。だが、同じことを積み重ねれば、やがて一本の逃げられない鎖になる。


 ◇


 夜が明けるころ、鳳凰商会の倉庫は元の姿へ戻っていた。焦げた空箱を外へ運び、床を洗い、油と煙の臭いを消す。亜空間から商品を取り出し、帳簿の数と照合しながら棚へ並べた。


 眠る暇はなかったが、誰一人として不満を口にしなかった。開店の鐘が鳴る。ロイドが扉を開けると、傷薬を求める冒険者や、保存食を買いに来た商人が店へ入ってきた。昨日と何も変わらない朝だった。


「本当に、店を開けられました」


 ミラが小さく笑う。


「棚のネズミは、無事に駆除できたようでございますな」


 セルジュが、いつものおだやかな顔で答えた。事情を知らない店員たちは、昨夜の騒ぎに気づいていない。そのとき、クロウが連れていた甲虫から、怒鳴り声が響いた。


『どういうことだ! なぜ鳳凰商会が店を開けておる!』


 デボルトの声だ。通りに立つ見張りから、鳳凰商会がいつもどおり営業していると報告を受けたらしい。


『し、しかし、赤灯亭からは、倉庫を焼いたと……』


『焼けておらんではないか!』


『外から見た限りでは、煙も上がったと聞いております』


『では、なぜ商品が並んでおるのだ! 貴様、わしの金を盗んだのではあるまいな!』


『そ、そのようなことは決して!』


『実行役と仲介人を捕らえろ! わしをだました報いを受けさせてやる!』


 甲虫の向こうで、何かが床へたたきつけられた。昨日と同じく、銀杯かもしれない。


「思ったとおりじゃな」


 ルナが面白そうに笑った。


「一度失敗しただけで、もう己の手下を疑っておる」


「信じたことがないんだろう」


 デボルトにとって、部下は金で動かす道具だ。道具が思いどおりに動かなければ、壊して捨てる。だが、道具だと思っていた者たちにも、考えがある。デボルトのために、黙って処分される者ばかりではない。


『お前、どうするつもりだ』


 しばらくして、別の甲虫から赤灯亭の仲介人の声が流れた。酒場を出た仲介人が、昨夜の実行役と再び落ち合ったらしい。声には、夜にはなかった焦りが滲んでいた。


『子爵家の兵が、俺たちを探している。あの豚、失敗を全部こちらへ押しつける気だ』


『町を出るしかねえ』


『ただ逃げたら、追いつかれて殺される』


『じゃあ、どうする』


 しばらく、重い沈黙が続いた。


『……俺は、家令から受け取った手紙を捨てていない』


 部屋にいた全員の視線が、甲虫へ集まった。


『何だと?』


『何かあった時のために残してある。鳳凰商会を潰せと書かれた手紙だけじゃない。偽の通行証を作らせた時のものも、盗品を倉庫へ運べと命じたものもある』


『そんなものを持っていたのか!』


『あの豚も家令も、最初から信用していない。俺たちだけを切り捨てるなら、この手紙を使って取引する』


 クロウの目が細くなる。


「ふぉふぉふぉ。アレス様のおっしゃったとおり、自ら証拠を抱えて出てきましたな」


「追っている虫は?」


「二匹おります。決して見失いません」


「守る準備をしろ。デボルトの兵より先に会う」


「捕らえるのではなく、保護するのですか?」


 ロイドが尋ねる。


「あいつらは犯罪者だ。罪は償わせる」


 だが、デボルトに殺させるつもりはない。持っている手紙をすべて出し、知っていることを話すなら、命まで奪う必要はない。その後は、奪った金を返し、被害を受けた者のために働かせる。


「デボルトと俺たち。どちらにつけば生きられるのか、選ばせる」


「答えは、もう決まっておるようなものじゃな」


 ルナの言うとおりだ。デボルトは、失敗した者を捕らえて殺そうとしている。俺は、罪を隠さず話すなら命を残す。選ぶまでもない。


「セルジュ。契約書を用意してくれ」


「証拠を出すこと、知っていることをすべて話すこと、うそをつかないこと。そして、被害を受けた者へ金を返すこと。この内容でよろしいでしょうか」


「ああ。奴隷契約にはするな。だが、証拠を隠した時と、うそをついた時の罰は重くしろ」


「承知いたしました」


「ベッツ、ミラ」


「はい」


 二人が同時に返事をする。


「クロウと一緒に行け。相手が武器を抜かない限り、傷つけるな」


「必ず、手紙ごと連れて帰ります」


 ベッツの返事に、もう迷いはなかった。怒りに任せて殺すのではなく、生きたまま罪を償わせる。少しずつだが、考え方を変え始めている。二人がクロウと共に店を出ていく。


 俺は甲虫から流れる、デボルトの怒声へ耳を傾けた。鳳凰商会を焼いたつもりで、最初の証拠をこちらへ差し出した。部下を切り捨てようとして、自分へつながる証人までこちらへ追いやった。あの男は、まだ何も気づいていない。


「最初の一本だ」


 俺は机の上の紙へ、赤灯亭から家令へ伸びる線を書き加えた。


「何のことじゃ?」


「デボルトを縛る縄だ」


 今は、まだ細い。これ一本では、いくらでも言い逃れられる。ならば、切れない太さになるまで増やせばいい。


 違法な賭場。高利貸し。人身売買。密輸。横領。王都の侯爵への賄賂。デボルトが金のために結んだすべてのつながりを、今度はこちらが利用する。


「待っていろ、デボルト」


 紙に書いた名を、指先でなぞる。


「お前が自分で首へ縄をかけるまで、何度でも引かせてやる」


 鳳凰商会の店内には、客と店員の明るい声が響いている。昨日と変わらない朝だ。


 デボルトが焼き払おうとしたものは、一つも失われていない。


 失ったのは、デボルトの方だった。金で買った手駒の信頼と、自らの罪を隠していた最初の壁を。


 そして、その壁の向こうに隠れていた証人と証拠も、まもなく俺たちの前へ姿を現す。

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