第116話 燃やされた空の倉庫
デボルトの家令だ。すでに、赤灯亭で仕事を仲介する男を呼びつけたらしい。
『中に人がいた場合は?』
『構わん。見られたなら、一緒に焼け』
『……報酬は』
『成功を確認してから、残りを払う』
『先払いで半分。それがいつもの約束だ』
『子爵様の仕事だぞ。断れば、この町で二度と仕事ができなくなると思え』
短い沈黙のあと、仲介人らしい男が舌打ちした。
『分かった。だが、油と逃げ道は用意してもらう』
『南区を巡回する衛兵には、四半刻だけ別の道を通らせる。仕事が終わったら、実行役を赤灯亭へ来させろ』
クロウが目を細める。
「赤灯亭。南区にある酒場でございますな」
「知っているのか?」
「表向きは、荷運び人の集まる酒場でございます。裏では盗品の売買と、金で請け負う仕事の仲介をしているようです」
「今の男を追えるか?」
「すでに数匹、マントの内側へ入り込みました」
いつの間に動かしたのか分からなかった。
「では、参りましょうか」
クロウが立ち上がる。
「今夜、最初の糸がどこへつながるのか、見せていただきましょう」
◇
鳳凰商会の裏手にある倉庫は、店から少し離れた場所に建っていた。石造りの壁に、木のはりと扉。中には、傷薬、乾燥させた薬草、保存食、旅道具が積み上げられている。火を放たれれば、商品を失うだけでは済まない。薬草から出た煙が周囲へ広がり、隣の家まで燃える可能性がある。
「坊ちゃん。亜空間を開いてくれ」
ゲオルグに言われ、倉庫の中央で右手を前へ出した。
「《亜空間》」
空気が揺れ、黒い裂け目が縦に走る。裂け目が開くと、その向こうに灰色の空間が現れた。
「何度見ても、信じられませんね……」
ロイドがあき然とつぶやく。
「驚くのは後だ。日付が変わる前に、全部入れるぞ」
「はい!」
木箱を運び、亜空間へ積み上げていく。ベッツが二箱を重ねて持ち、ゲオルグとロイドが順番に受け取る。ミラは帳簿と高価な薬をまとめ、セルジュは商品の数を記録していた。俺も両腕に木箱を抱え、亜空間と倉庫を何度も往復する。一刻もかからず、棚は空になった。
「これで、火をつけられても失うものはありません」
ロイドが額の汗を拭う。
「まだだ。倉庫そのものと、周りの家を守る」
「任せてください」
ゲオルグは床へしゃがみ込み、壁と柱をもう一度確かめた。
「壁は石です。中の棚を壁から離して、床へ砂をまけば、火は広がりにくい。裏の小窓だけは木ですから、ぬらした布で塞ぎましょう」
「屋根は?」
「はりまで火が届く前に消せば大丈夫です。ただ、油をまかれる場所が悪いと、思ったより早く燃え上がります」
「なら、まく場所をこちらで決める」
実行役は、見つかりにくい裏口から入るはずだ。裏口の近くへ、壊れた空箱をいくつか残す。ほかに燃えそうなものがなければ、そこへ油をまくだろう。空箱の下には砂を厚く敷き、周囲には水を満たした樽を並べた。見た目だけでは、普通の荷物と変わらない。
「一度、火をつけさせるのですか?」
ミラが不安そうに尋ねる。
「ああ。火をつける前に捕らえれば、失敗したと報告される。デボルトへは、成功したと思わせたい」
「ですが、本当に火が……」
「俺たちがすぐそばにいる。ゲオルグが用意した砂も水もある。ルナもいる」
「わらわに任せよ」
ルナが胸を張った。
「炎ごと闇で包み、空気を断てばよいのじゃろう?」
「倉庫を壊すなよ」
「わらわを何だと思っておる」
「血術で谷を崩落させた奴」
「あれは、そなたが素直に倒れぬからじゃ!」
声を上げたルナへ、全員の視線が集まった。ルナはせき払いを一つする。
「今回は加減する」
「頼む」
準備を終えると、店と倉庫の灯りをすべて消した。セルジュとロイドは、少し離れた支店の二階へ戻る。フェルは軍への補給物資を探すため、翠羽鳥と町の外へ出た。俺、ルナ、クロウ、ベッツ、ミラ、ゲオルグは、倉庫の向かいにある空き家へ身を潜める。
「《闇幕》」
ルナの魔力が薄く広がり、部屋の中の気配を覆い隠した。窓から外を見ても、こちらの姿は映らない。
夜が深くなる。町を歩く者の声も、荷馬車の音も消えていく。やがて、南の通りから四つの気配が近づいてきた。
「来ましたぞ」
クロウがささやく。黒いマントを着た男たちが、倉庫の前を一度通り過ぎた。一人が周囲を確かめ、もう一人が路地へ入る。残る二人は、通りの両端に分かれた。見張りを置き、裏口から二人で入るつもりらしい。
「南側の巡回衛兵が、道を変えました」
ミラが小さな声で言った。普段なら、この時間に倉庫の前を通るはずの衛兵が来ない。家令の言ったとおりだ。放火犯だけではない。巡回路を変えた衛兵。命令を伝えた役人。その者たちも、デボルトへ続く糸になる。
「行かせてよいのですか?」
ベッツの声は、低く震えていた。裏口の錠が、小さな音を立てて外される。
「まだだ」
「ですが、あいつらは、人がいても焼けと……」
「だからこそ、帰らせる」
俺は男たちの気配を追った。倉庫へ入った二人が、空の棚を見て戸惑っている。
『荷が少ないぞ』
『知るか。火をつければ同じだ』
『油をまけ。さっさと終わらせる』
クロウの甲虫が拾った声が、手のひらに載せた別の虫から聞こえる。油の入った革袋が開かれた。予想どおり、男たちは裏口近くに残した空箱へ油をまいていく。火打ち石の音。小さな火花。次の瞬間、油を吸った木箱から炎が上がった。
「アレス様!」
「待て」
男たちは裏口から飛び出し、周囲を確かめると、路地の奥へ走った。見張りの二人も、その後を追う。倉庫の小窓が、赤く染まる。
「今だ」
空き家を出て、倉庫へ駆け込んだ。ゲオルグとベッツが樽を倒し、ミラが砂をかける。炎が木箱を包み、黒い煙が天井へ昇っていた。
「ルナ!」
「分かっておる!」
ルナが両手を前へ突き出す。
「《闇棺》」
黒い闇が、燃え上がる木箱を覆った。闇の中から空気が押し出され、炎が一気に小さくなる。そこへ水を浴びせ、砂をかける。四半刻も経たず、炎は完全に消えた。倉庫に残ったのは、焦げた空箱と油の臭いだけだった。石壁も、棚も、屋根も無事だ。
「消えた……」
ミラが力の抜けた息を吐いた。
「だから言ったであろう。わらわに任せよと」
ルナが得意げに腕を組む。
「闇魔法とは、このような使い方もできるのですね」
「当然じゃ。闇は隠すだけのものではない。光も、音も、空気も、わらわが望めば閉じ込められる」
「よくやった」
「もっと褒めてもよいぞ」
「後でな」
倉庫の外へ出る。黒煙は、もう夜空へ昇っていない。逃げた四人の姿も見えなかった。
「クロウ」
「四人とも追っております」
クロウは目を閉じたまま答える。
「先頭の者は、赤灯亭へ向かっておりますな。ほかの三人は、それぞれ別の道へ分かれました」
「残りも追え。住処と、普段会っている者を調べる」
「承知いたしました」
「大将……」
ベッツが、焦げた木箱を見つめていた。
「俺は、あいつらを逃がす意味が、ようやく分かりました」
「そうか」
「ここで捕らえれば、四人で終わっていた。ですが、帰せば……」
「その先にいる者が、自分から姿を見せる」
「はい」
ベッツは強く拳を握り、俺へ頭を下げた。
空の倉庫を焼いた四人は、それぞれの行き先へ散っていった。
今夜、燃えたのは空箱だけだ。
だが、その炎に照らされ、デボルトへ続く最初の糸が暗闇の中から浮かび上がろうとしていた。




