第114話 最も聞かせてはならない相手
モルガン・デボルト子爵視点
机の上の呼び鈴を鳴らすと、扉の外で待っていた若い侍女が、すぐに新しいぶどう酒を持ってきた。侍女の手は震えていた。
「遅い!」
「も、申し訳ございません」
「こぼした酒と杯の代金は、お前の給金から引いておけ」
「ですが、私がこぼしたのでは……」
「口答えするのか?」
にらみつけると、侍女は青ざめて頭を下げた。
「申し訳ございません、旦那様」
「分かればよい。下がれ」
侍女がぶどう酒を置き、逃げるように部屋を出ていく。役に立たぬ普通の民が多すぎる。わしが領地を与え、仕事を与え、生かしてやっているというのに、感謝というものを知らぬ。
新しい杯を手に取り、ゆっくりとぶどう酒を口へ運ぶ。甘い。よい味だ。ガレスの泣き顔を眺めながら飲めば、さらに旨くなるだろう。
「さて、まずはどこから壊してやろうか」
思わず、笑みがこぼれた。そのとき、天井近くで小さな羽音がした。
「虫か?」
見上げると、はりの陰へ黒いものが消えた。
「おい、今すぐ殺せ。この屋敷の使用人は、虫一匹まともに始末できんのか」
「ただちに」
家令がろうそく台を手に取り、はりの下へ近づく。だが、黒い虫はどこにも見つからなかった。
「まったく、どいつもこいつも無能ばかりだ」
わしは鼻を鳴らし、再び帳簿へ目を落とした。そのときのわしは知らなかった。はりのすき間には、先ほどから一匹の黒い甲虫が潜み、この部屋で交わした会話を一言残らず聞いていたことを。
◇
アレス視点
同じころ、鳳凰商会デボルト領都支店。支店から届いた緊急の知らせを受けた俺は、本店の地下倉庫から空間をつなぎ、ルナとともに支店へ来ていた。二階の最も奥にある部屋には、俺たちのほか、クロウ、セルジュ、フェル、ベッツ、ミラ、ロイド、ゲオルグがいる。
机の上には、デボルトの屋敷に潜ませた《連絡虫》と対になる、もう一匹の黒い甲虫がいる。クロウがその背へ指を触れると、子爵邸の《連絡虫》が拾った声が、小さな身体から流れ出した。
デボルトが違法賭博場の利益を受け取っていると語っても、井戸を直すための金を横領するよう命じても、人身売買で金を増やそうと話しても、誰も声を発さなかった。俺も黙ったまま、すべてを聞いていた。
だが、デボルトがニーナの名を口にした瞬間、机の上に置かれていた銀貨が甲高い音を立てた。俺が指で押さえていた銀貨は、中央から大きく折れ曲がっていた。
「……ニーナをさらわせたのは、こいつか」
声は低く、静かだった。怒鳴ってはいない。それでも、セルジュの顔がこわばった。
「それだけではございませんな。コレットという侍女を、すでにアークハルト家の屋敷へ送り込んでいるようでございます」
「クロウ」
「承知しております。コレットの生まれやこれまでの歩みと、屋敷内で会った者をすべて調べます。ニーナ殿をはじめ、屋敷の皆様へ危害は決して加えさせませぬ」
「見事なまでに腐った人間よのう」
ルナが心底あきれたように吐き捨てる。
「己は安全な場所から金と命令だけを出し、罪も責任もすべて他人へ押しつける。人間よりは長く生きておるわらわでも、ここまで見事に腐り果てた者はそう見ぬぞ」
そして、赤い瞳をベッツたちへ向けた。
「そなたらも、こんな腐った人間に使われ、ニーナの人生を奪おうとしておったのか」
ベッツ、ミラ、ロイド、ゲオルグの顔が、そろって苦しげにゆがんだ。黒幕の顔も、名も知らなかった。だが、知らなかったからといって、自分たちの罪が消えるわけではない。
「私が……ロイドさんとゲオルグさんをだましました」
ミラが震える声で言った。
「父に命じられたからなんて、言い訳にはなりません。私が二人をあの場所へ連れていかなければ、ニーナ様を危険にさらすことも……」
「違う。俺がだまされたのが始まりでも、最後には奴らの命令に従った」
ロイドが強く拳を握りしめる。
「途中でニーナ様を助けようとしたからといって、それまで加担していた事実は消えません」
「……知らなかった。脅されていた。そんなもんで済む話じゃねえ」
ゲオルグがうつむいたまま、絞り出すように続けた。
「俺たちは、ニーナ様をさらう手伝いをした。坊ちゃんにも、ニーナ様にも……顔向けできねえ」
「違う」
低い声が落ちた。ベッツだった。
「全部、俺が悪かった」
椅子から立ち上がったベッツは、俺の前へ進み出ると、両膝を床についた。
「金に目がくらみ、仕事を引き受けたのは俺です。ミラを使い、ロイドとゲオルグを巻き込み、ニーナ様の人生を奪おうとした。全部、俺が始めたことです」
床についた拳が震えている。
「俺は……取り返しのつかねえことをした。ニーナ様に、申し訳ねえ……」
ベッツの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。床に額を擦りつけるようにして、何度も謝罪を繰り返す。
「大将。俺が今から行って、こいつを殺してきます。デボルトの首を取って、ニーナ様の前へ――」
「座れ、ベッツ」
「ですが!」
「お前は、世のため、人のため、そしてこの俺のために働くと誓っただろう」
ベッツが息をのむ。
「……はい」
「なら、怒りに任せて命を捨てるな。デボルト一人を殺したところで、奪われたものは戻らない。お前の罪も消えない」
俺はベッツだけでなく、ミラ、ロイド、ゲオルグにも目を向けた。
「お前たちの償いは、俺のもとで生きて働き続けることだ。勝手に楽な逃げ道を選ぶな」
「……申し訳、ありません」
「後悔しているなら手を動かせ。デボルトに泣かされた者を、一人でも多く救え」
「はい」
ベッツの返事に、ミラ、ロイド、ゲオルグの声が重なった。
「コレットを、すぐに捕らえますか?」
フェルの問いに、俺はわずかに考えてから首を横へ振った。
「いや。監視をつけろ。命令を受け取る相手も、報告を渡す相手もいるはずだ。全員をつないでから捕らえる」
「よろしいので?」
「もちろん、屋敷の者へ危険が及ぶなら、その前に止める」
俺は折れ曲がった銀貨を机へ置いた。黒い甲虫からは、まだデボルトの笑い声が流れている。
アークハルト領へ品を運ぶ商人への嫌がらせ。荷馬車を理由もなく止めること。盗賊を使った襲撃。鳳凰商会の倉庫への放火。グランベル辺境伯軍への補給物資を途中で不正に止めた件。そして、セレスティアを危険な目に遭わせ、恩を売って支配しようとする企み。
自分がどれほど多くの者を傷つけているのか、デボルトには何一つ分かっていない。金と爵位のためなら、領民も、隣人も、王国の守りさえ売る男だ。
「アレス様」
セルジュが慎重に声をかける。
「このまま、屋敷へ向かわれますか?」
デボルトの屋敷へ正面から乗り込み、本人を捕らえるだけなら、今夜のうちに終わる。子爵の私兵が何人いようと、俺を止めることはできない。
「いや」
だが、俺は静かに答えた。
「あいつ一人を殴って終わりでは、何も変わらない。証拠がなければ、部下が勝手にやったと言い逃れる。王都の侯爵とやらも、金を受け取ってデボルトをかばうだろう」
「では、いかがなさいますか?」
「全部だ」
俺は顔を上げた。
「違法な賭場、高利貸し、人貸し屋、人身売買。さらに、密輸、横領、商人組合や王都の侯爵への賄賂。こいつが関わった悪事を、すべて書面で押さえる」
「かなりの量になりますぞ」
「構わない。裏帳簿、契約書、手紙、命令書、金を運んだ者の名。言い逃れのできない証拠を、一つ残らず集めろ」
「ふぉふぉふぉ。骨の折れる仕事になりそうですな」
そう言いながら、クロウの目は愉快そうに細められていた。
「セルジュは金の流れを追え。商会への妨害も、命令が誰へ渡るのかまでは見届けろ。被害が出る前に止める」
「承知いたしました」
「フェルは荷馬車と倉庫を空から見張ってくれ。密輸品と人を運ぶ道があるはずだ」
「任せてください」
三人が、それぞれうなずく。俺はもう一度、黒い甲虫へ目を向けた。甲虫の向こうで、デボルトは今も自分の勝利を疑わず、ぶどう酒を飲んでいる。
「金も、後ろ盾も、逃げ道も、一つずつ奪う。自分が何をしたのか、骨の髄まで分からせてやる」
折れ曲がった銀貨を、指先で転がす。
「ああ、デボルト。どうしてくれようか」
セルジュたちは息をのんだ。クロウでさえ、わずかに頬を引きつらせている。俺がどんな顔をしていたのかは分からない。ただ一人、ルナだけが楽しげに目を細めた。
「ふふ、アレス。よい顔をしておるのう。わらわも手伝うぞ」
「ああ、頼む」
そのとき、甲虫の向こうで、デボルトの下卑た笑い声が響いた。自らの破滅を招く言葉を、最も聞かせてはならない相手に、すべて聞かせてしまったとも知らずに。
その笑い声を聞きながら、俺はすでに最初の罠を組み始めていた。




