第112話 金の流れを逆にたどる
セルジュ視点
デボルト子爵領へ入ってから、鳳凰商会の支店が開店するまで十日を要した。店を開くための書類を商人組合へ出せば、一枚足りないと言われる。言われた書類をそろえて持っていけば、今度は別の許可が必要だと言われる。
ようやく借りられそうな店を見つければ、契約の直前になって家賃を上げられた。別の店へ決めると、今度は商人組合の役員へ挨拶料を払えと言われる。予想していたことではある。私は要求された金額と相手の名をすべて帳簿へ記し、払うべきものと、払う必要のないものを一つずつ分けた。
ロイド殿は仕入れ先と話をつけ、ゲオルグ殿は店と倉庫を直す者を手配した。ベッツ殿たちフェニックス傭兵団の者も、護衛の仕事がない時間は荷運びや掃除を手伝ってくれた。いくつかの苦労はあったものの、南市場の一角に鳳凰商会の看板を掲げることができた。
アークハルト家の名も、アレス様の名も使っていない。鳳凰商会が自ら契約し、自ら金を払い、自らの信用だけで開いた最初の支店である。
開店を翌日に控えた夜、私は店の裏口をたたく音で呼び出された。
扉を開けると、マントのフードを目深にかぶったアレス様が立っていた。
「お待ちしておりました」
「準備はできているか?」
「はい。ですが、アレス様はどのように領内へ?」
「普通に入った」
普通に入った十二歳の少年が、誰にも気づかれず、夜中に他領の支店の裏口へ現れるものだろうか。
店の奥へ案内する間にも何度か尋ねたが、アレス様は「普通に」としか答えてくださらなかった。世の中には、深く考えない方がよいこともある。
この支店を準備していた間、アレス様はアークハルト領内で空間をつなぐ訓練を重ねていたと聞いている。今夜、ここへ来られたのは、初めて他領の座標を刻むためだ。
私はアレス様を店の奥にある石造りの倉庫へ案内した。
アレス様は倉庫の中央へ立つと、目を閉じて魔力を練り始めた。やがて足元へ淡い光が広がり、複雑な紋様を描いて石床へ沈んでいく。
「今、何をなさったのですか?」
「この場所の座標を刻んだ」
アレス様が片手を前へ出した。
「《空間接続》」
何もなかった空間がわずかにゆがみ、音もなく左右へ開いた。その向こうに見えたのは、アレス様があらかじめ座標を刻んでいた鳳凰商会本店の地下倉庫だった。
ここはデボルト子爵領。扉の向こうは、アークハルト領。本来なら荷馬車で何日もかかる二つの場所が、わずか一歩の距離でつながっている。
品をしまう亜空間ではない。離れた二つの座標を直接つなぐ、別の空間魔法だ。
「……これは、とんでもないことでございますな」
「空間魔法だからな」
「さも当然のようにおっしゃらないでください」
「もう少し驚いた方がいいか?」
「アレス様ではなく、私どもが困っているのでございます」
アレス様は不思議そうな顔をしていた。
空間魔法を半刻もかからず習得した方へ、普通の人の感覚を求める方が間違っているのかもしれない。
「これで本店から直接、商品を運べる。使い方はロイドとセルジュに任せる」
「承知いたしました。ただし、通常の荷馬車も残します」
「ああ、そうしてくれ」
アレス様がもう一度手を動かすと、開いていた空間が閉じた。座標は刻み終えたため、次からはアークハルト領にいながら、この倉庫へ空間をつなげられるらしい。商人にとって最大の障害である距離を、アレス様はあまりにも簡単に消してしまった。
◇
翌朝、鳳凰商会デボルト領都支店は無事に開店した。
扱う品は、傷薬や解毒薬、革製品、乾燥肉、旅道具などである。街道を行き交う冒険者や商人にとって、どれも必要な品だった。中でもティアナ殿の作る傷薬は評判がよく、開店から三日で最初に運び込んだ分が底をついた。その日の夜には、本店の地下倉庫から新しい木箱が届いた。
反対に、デボルト領で安く仕入れた香辛料や布は、空間を通して本店へ送る。荷馬車も人足も増やさず、輸送中の傷みや盗難をほとんど心配せずに済む。空間魔法があるだけで、同じ商品から得られる利益がまるで違う。
もちろん、実際の仕入れと販売は正確に帳簿へ記し、必要な税も納めている。そのうえで、空間魔法で運んだ品を一度に店頭へ出すような真似はせず、店頭へ出す量と時期を調整した。店は、ごく普通の商会に見えなければならない。そして、本気で商売をしていれば、情報は自然と集まってくる。
冒険者は薬を買いながら、危険な街道を教えてくれる。
商人は酒を一杯出せば、門兵に要求された金額を愚痴る。
荷運び人は、どの倉庫へ何が運び込まれたかを知っている。
そうして集まった表の噂を、クロウ殿の虫が裏側から確かめていく。酒場の床下。倉庫のはり。商人組合の裏口。人の目が届かない場所へ小さな虫を潜ませ、誰と誰が会い、どこへ金が流れているのかを追う。
フェル殿の翠羽鳥も、毎日空を飛んだ。商会の者が怪しい荷馬車を見つければ、フェル殿が翠羽鳥に後を追わせる。集めた情報をアークハルト領の本店へ運び、急ぎの報告があれば、日が落ちてからでも別の鳥を飛ばしてくれた。
商人の耳。クロウ殿の虫。フェル殿の翠羽鳥。
三つをつなぐことで、《鳳凰の目》は少しずつデボルト領の内側を見通せるようになっていった。
◇
本店から届く報告には、アレス様の近況も記されていた。冒険者として次々に依頼を達成し、受付へ戻るたび、ギルドの者たちを驚かせているらしい。アレス様にとっては、そこらの魔物など相手にもならないのだろう。最近は、ルナ様、アイゼン殿、ガルム殿の三人も冒険者登録をなさったという。クロウ殿だけは、情報収集へ専念するため登録していない。
三人の実力を考えれば、冒険者になれないはずがない。むしろ心配すべきは、アレス様を加えた四人が依頼先の魔物を狩り尽くしてしまわないかということだ。私は出発前、本店でアレス様とルナ様が話している姿を何度か見ている。ルナ様は遠慮なくアレス様へ言い返し、アレス様もあきれた顔をしながら、それをどこか楽しんでおられた。
不思議だったのは、アレス様の眼差しである。出会ってまだ間もないはずなのに、ルナ様と話している時のアレス様は、旧知の友と再会したように懐かしそうで、普段より少しだけ楽しそうに見えた。お二人の間に何があるのか、私には分からない。もっとも、アレス様については、私には分からないことばかりである。
◇
支店を開いて十二日目の夜。
閉店後、店の二階へクロウ殿とフェル殿がほぼ同時に戻ってきた。
「どうやら、つながりましたぞ」
クロウ殿が机の上へ領都の地図を広げた。
印がつけられているのは、違法賭博場、高利貸し、人貸し屋、そして西側の倉庫である。
記録にある店の持ち主は、すべて異なる。だが、いかさま賭博で借金を背負わされた者が、高利貸しへ送られていた。そこで契約に縛られた後、西側の倉庫や人貸し屋へ引き渡されていた。七か月前、ロイド殿とゲオルグ殿がはめられた手口と同じだ。
「集めた金は、五日ごとに西側の倉庫へ運ばれております」
「その先は?」
「本日、ようやく動きました」
クロウ殿の虫は、倉庫から出た男を追った。
男は商人組合の裏口で別の男へ金袋を渡し、その男は紋章を隠した馬車へ乗り込んだという。
「馬車は、どこへ?」
私が尋ねると、フェル殿が地図の一点を指した。
「デボルト子爵の屋敷。裏門から入った」
「見間違いはございませんか?」
「翠羽鳥を二羽、別の方角から追わせた。俺も近くまで走って、馬車が裏門へ入るところをこの目で見た」
クロウ殿もうなずく。
「虫も、馬車から降りた男が屋敷へ入るところまで確かめております」
違法賭博場。
高利貸し。
借金の契約。
人貸し屋と倉庫。
そこで集められた金が、商人組合を経由し、デボルト子爵の屋敷へ入った。
まだ、ニーナ様の誘拐を命じた者が誰なのかは分からない。何のためにニーナ様を狙ったのかも、不明なままだ。
金袋が屋敷へ入ったというだけでは、デボルト子爵本人の命令だったと決めつけることもできない。だが、アレス様が疑っていたデボルト子爵家と、七か月前の事件で行われたいかさま賭博。その二つを結ぶ糸が、ようやく見え始めている。
「どうやら、デボルト子爵家と七か月前の事件は、無関係ではなさそうでございますな」
「本店へ知らせる?」
「ええ。ただし、分かったことだけを伝えます。推測を事実として書いてはなりません」
私は報告用の紙を広げた。
鳳凰商会の支店は、順調に利益を上げている。《鳳凰の目》も、正しく機能している。そして私たちは、ようやく真相へ続く糸の端をつかんだ。
七か月前、私は金のためにニーナ様を売ろうとした。今度は、その金の流れを逆にたどる。その先に誰がいようと、必ずアレス様のもとへ答えを届けてみせる。
クロウ殿が、遠く離れた相手へ声を届ける《連絡虫》を通して要点だけを本店へ伝えると、ほどなく黒い裂け目からアレス様とルナ様が現れた。
私は最後に、確認できた事実だけを書き記した。
――金袋は、デボルト子爵邸の裏門へ運び込まれた。
次に暴くのは、その門の向こうに隠されたものだ。




