第110話 空間を手に入れる
新連載
『婚約破棄され、冒険者パーティも追放されたモブ貴族です~前世の知識と転生特典で借金を返して楽しく生きるつもりが、いつの間にか英雄になりそうです~』
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アレス・アークハルト視点
時は、セレスティアが初陣を迎える八日前へ戻る。
ルナたちが太陽の下を歩けるようになってから、二日が過ぎた。その間に四人のことは、屋敷の執務室で父上にだけ報告してある。
ヴァンパイアであること。俺と、互いに義務を負う主従契約を結んだこと。領民へ危害を加えるつもりがないこと。父上は、四人を連れてきた俺の責任を確かめたうえで、領内に住むことを認めてくれた。
ただし、四人を屋敷へ連れていき、騎士団へ紹介したわけではない。表向き、ルナたちは鳳凰商会が遠方から雇い入れた護衛だ。暮らす場所はロイドが商会の宿舎に用意し、必要な書類はセルジュが整えた。訓練もフェニックス傭兵団の訓練場を、人目のない時間に使わせている。
鳳凰商会も、フェニックス傭兵団も、アークハルト男爵家とは別の組織だ。俺の名が表へ出ることはない。
その日の午後。領主学を終えた俺はルナに呼ばれ、鳳凰商会本店の地下倉庫へ来ていた。
厚い扉を開けると、倉庫の中央に置かれた机の前で、ルナが一人きりで待っていた。
机の上には、一冊の分厚い本が置かれている。黒い革張りの表紙。四隅を守る銀色の金具。中央には、重なり合ういくつもの四角と円が刻まれていた。
見間違えるはずがない。
「空間魔法書か」
俺がつぶやくと、ルナの赤い瞳が細くなった。
「表紙に題名は書かれておらぬぞ」
「見れば分かる」
「分かるものか。わらわたち一族でも、これを目にした者はわずかじゃ」
「なら、勘だ」
「そなたの勘は、古代文字まで読めるのか?」
表紙の縁には、細い古代文字で空間魔法の基礎式が刻まれている。
「読める」
「……相変わらず、可愛げのない童じゃ」
ルナはあきれたように息を吐き、空間魔法書の表紙をなでた。
「これは、ノクティス王家に代々伝わる魔法書じゃ。一族が故郷を離れる際、わらわが持ち出した秘宝の一つでもある」
「俺に見せていいのか?」
「わらわたちは、そなたと共に戦うと決めた。離れた場所へ人や物を運ぶ手段があれば、そなたの目的にも、わらわたちの目的にも役立つであろう」
ルナはそう言ったが、本から両手を離そうとはしなかった。
「ただし、見せるだけじゃ。本そのものを譲るつもりはない」
「それで十分だ」
「ずいぶんと自信があるようじゃな」
「読むだけだろう」
「その『読むだけ』に、どれほどの年月が必要か分かっておるのか?」
魔法書やスキル書は、ただの教本ではない。書かれている内容を最初から最後まですべて読み、その本が伝える仕組みと意味を正しく理解しなければならない。
さらに、本人にその力を学ぶ才能があって初めて、魔法やスキルを手に入れられる。
文章を暗記しただけでは意味がない。一つ一つの言葉を理解し、頭の中で術式を組み上げ、自分の力として再現できなければならない。
そのため、魔法書やスキル書は極めて貴重だ。本によって習得に必要な時間は異なるが、簡単なものでも数か月。難しいものなら何年、何十年とかかる。一生を費やしても理解できず、諦める者も珍しくない。
中でも空間魔法は、最も習得が難しい魔法の一つだった。
「適性のある者でも、空間の基礎を理解するだけで十年はかかる」
ルナが言う。
「空間魔法は無属性魔法じゃ。闇と火の属性を持つわらわには、そもそも習得できぬ。ノクティス王家の記録によれば、無属性の適性を持つ者でさえ、この本を最後まで読み解けた者は数えるほどしかおらぬ」
「そうか」
「その反応は何じゃ」
「読んでみれば分かる」
「十年かかると言うたばかりであろう!」
「俺なら、そこまではかからない」
この魔法を取り戻すことも、ルナたちを捜した目的の一つだった。滅びた世界でも、俺はルナにこの空間魔法書を見せてもらい、空間魔法を習得していた。食料や武器を運び、生き残った者を逃がし、離れた戦場へ駆けつけるため、何度も空間を開いた。
俺が滅びた世界でルナ達が死んだ後もたった一人で戦い続けて、生き続けることができたのは空間魔法の力によるところが大きい。
この本に書かれた文字も、術式も、すでに一度すべて読んでいる。今の俺には《追憶》がある。一度見たもの。一度聞いたもの。一度経験したもの。必要な記憶を呼び起こせば、どれほど昔のことであろうと、目の前で起きているかのように思い出せる。
俺は椅子へ座り、空間魔法書を開いた。最初のページへ目を通す。古代文字で記された空間の定義。その下に重なる魔力式。次のページには、現世と亜空間の境界について記されている。
懐かしい。
記憶の中にあるページと、目の前のページが重なった。右手の指で、次のページをめくる。さらに次。その次。ぱらぱらと、乾いた音が地下倉庫へ響き始めた。
「待て」
ルナが俺の手首をつかんだ。
「何だ?」
「何をしておる」
「読んでいる」
「それは見れば分かる! なぜ、その速さでページをめくっておるのじゃ!」
「読み終わったからだ」
「一ページを一息もかけずに理解できるものか!」
「できている」
「できておらぬ! そなたは文字を眺めておるだけじゃ!」
「なら、後で試せばいい」
「試す以前の問題じゃ! 魔法書を雑に扱うでない!」
「破らないようにはしている」
「そういう意味ではない!」
ルナの手を外し、再びページをめくる。空間をゆがめる方法。現世とは別の亜空間を作る方法。二つの空間をつなぐ方法。訪れた場所の座標を刻み、遠く離れた場所へ瞬時に移動する方法。視界に入る場所へ、自らの身体を直接移す方法。ほかにも、空間の固定、遮断、圧縮、封鎖。
空間魔法は、亜空間を作るだけの魔法ではない。極めれば距離そのものを無意味にし、敵の転移を封じ、空間を閉ざして、決して逃げられない場所を作ることさえできる。
今の俺の魔力量では、すべてを扱うことはできない。だが、基礎さえ取り戻せばいい。身体と魔力が育つにつれ、使える術も増えていく。
ページをめくるたび、《追憶》が過去の理解を引き出していく。かつて何日も考えた術式も、実戦の中で身につけた使い方も、すべて俺の中に残っている。
「待てと言うておる!」
「もう半分だ」
「まだ四半刻も経っておらぬぞ!」
「読むのを止めれば、余計に時間がかかる」
「十年が四半刻長くなったところで変わらぬわ!」
構わずめくり続ける。最後のページには、何も書かれていなかった。
空白ではない。
それまでのすべてを理解した者だけが、自ら術式を完成させるためのページだ。頭の中で、読み終えたすべての術式を一つへつなげる。
現世。境界。亜空間。
三つを隔てる壁へ、自分の魔力で穴を開ける。最後のページへ銀色の線が浮かび上がり、複雑な紋様を描いて、やがて一つの円となった。胸の奥で、魔力の流れが変わった。
《鑑定眼》を自分へ向けると、魔法の欄へ新たな文字が加わっていた。
《空間魔法》
「終わった」
俺は本を閉じた。
「何がじゃ」
「習得した」
「するわけがなかろう!」
「した」
「そなたが本を開いてから、まだ半刻も経っておらぬぞ!」
「半刻もかかったのか」
「かかっておらぬわ! わらわは短すぎると言うておる!」
「どちらなんだ」
「時間の話をしておるのではない!」
「今、半刻と言っただろう」
「そなたと話しておると、わらわが間違っておるような気がしてくるのはなぜじゃ!」
ルナが両手で頭を押さえた。
「使ってみれば分かる」
「待て。まだ本当に理解したか確かめておらぬ!」
右手を前へ出し、魔力を薄く広げて、現世と重なっている境界へ触れた。滅びた世界で初めて開いた時の感覚を《追憶》から引き出し、同じ魔力の流れを再現する。
「《亜空間》」
地下倉庫の空気が揺れ、俺の右手の前へ縦二メートルほどの黒い裂け目が走る。裂け目が左右へ開き、その向こうに灰色の空間が現れた。
高さも、幅も、奥行きも十メートルほど。何も置かれていない、立方体の亜空間だ。滅びた世界で初めて作った時と、同じ広さだった。
「……うそじゃろう」
ルナが、あぜんとした顔でつぶやく。
「成功した」
「見れば分かる!」
「さっきから、そればかりだな」
「誰のせいじゃ!」
亜空間へ足を踏み入れる。灰色の床は硬く、空気もある。今の術では時間の流れまで止められないため、食料は普通に傷み、生き物が長く入れば空気も減る。保存には、俺が腰につけているマジックバッグの方が向いている。まして、ルナが持つ王家のマジックバッグなら、内部の時間がほとんど止まるため、温かい料理も何日でも入れた時のまま保てる。
亜空間は俺の魔力へつながっており、入口を閉じても消えない。中へ物を入れたまま俺が移動し、別の場所で入口を開けば、そのまま取り出せる。保存には制約があっても、容量は俺のマジックバッグとは比べものにならない。これだけの広さがあれば、鳳凰商会の倉庫として十分に使える。
ルナも恐る恐る中へ入ってきて、壁へ手を触れ、流れる魔力を確かめる。
「揺らぎがない……初めて作った者の空間ではない」
「本の説明がよかった」
「その本を書いた者でも、これほど早く習得できぬわ!」
「なら、俺の適性が高かったんだろう」
「適性という言葉で片づけられる限度を超えておる!」
「習得できたなら、問題ない」
「わらわにとっては大問題じゃ!」
その時、地下倉庫の扉が勢いよく開いた。
「姫様、ご無事ですか!」
真っ先に飛び込んできたアイゼンが、剣の柄へ手をかけたまま俺と亜空間を見比べる。その後ろから、クロウとガルムも入ってきた。
「大きな魔力の揺れを感じましたので、参りました」
クロウが周囲を見回す。
「何が起きたのでございましょう」
「この小僧が、空間魔法を習得した」
「もうですか」
クロウのまゆがわずかに上がった。
「もう、ではない! 今じゃ! わらわが本を渡した直後じゃ!」
「姫様。本当に、この男へ空間魔法書をお見せになったのですか?」
「見せただけじゃ。まさか、半刻もかからず習得するとは思わぬであろう!」
「俺は、こいつへこれ以上の力を与えるのは危険だと申し上げました」
「ふぉっふぉっふぉ。歴史に名を残す大英雄というものは、我ら凡人の想像などはるかに超えた偉業を、さも当然のように成し遂げるものなのでしょうな」
「アイゼンの言うとおりじゃったかもしれぬ」
「二人とも失礼だな」
「貴様は黙っていろ!」
俺に対する口調だけは、いつもどおりだった。
ガルムは亜空間の中へ入り、灰色の床を大盾の石突きで軽くたたいた。
「広い」
「木箱なら、かなり入る」
「飯もか」
「入るが、時間は普通に流れる。腐るぞ」
「残念だ」
ガルムは本気で残念そうに言う。
「そなたら、驚くところが違うであろう!」
ルナの声が亜空間へ響いた。
皆を驚かせるために、この力を取り戻したのではない。何もない灰色の空間を見渡しながら、ここへ運ぶ品と、この力でつなぐ人々を思い浮かべる。
空間は手に入れた。
次に決めるべきは、誰と、何のために使うかだった。




